砂の棺 if 叶わなかった未来の物語

「砂の棺」完結後の、「誰か」が思い描いた、
叶わなかった未来の幸せな幸せな物語。
北の町・ミューレンでのカルザスとレニーの日常。
そして新しく出会う人たちとのふれあい、事件。


     8

 窓の内側から姿を発見されないように、細い桟に指を引っ掛けながら、レニーは軽々とレストランの壁を伝って、奥にあるであろうオーナー室を目指した。
 このレストランは全てが個室らしく、どの窓から中を伺っても、家族連れや恋人たちが、幸せそうに料理を楽しんでいる。だがどこの部屋の料理にも、毒を盛られている形跡はない。
「……やっぱり、おれたちのところを狙ってきてるみたいだな……ってことは、ターゲットはアイル家、噛んでるのはオーナーと、一部の給仕ってトコか」
 そう予測し、開いている個室を見つけ、器用に硝子窓を外す。そのままひらりと室内へ舞い込んだ。
「おれが目的なら、メイシードルみたいな下手な毒は使わないはずだ」
 彼は幼い頃から、ごく微量ずつ毒を摂取して体内に抗体を持っているため、あらゆる毒物が効かないという極めて稀な体質を持つ。効いたとしても、すぐ効果が薄れるのだ。
 毒物が効かない体質を持つレニーを捕らえたり殺害する目的ならば、確実性を得る意味でも、他の方法で攻めてくるはずだ。彼の特異な体質は、例の組織では周知の事実だったゆえに。
 そう考えたレニーは、オーナーが金を握らされたか首謀者なのであろうと予測した。
「さて、殺《や》らずにやれるかな……」
 両手の指をポキポキと鳴らしながら、重厚なドアを開く。
 レストランのかなり奥まで来たのか、給仕の者たちの姿が見えない。これは好都合、と、レニーは気配を殺しながら廊下へと出た。
 幸い、オーナー室はすぐ見つかった。ドア越しに耳をそばだてると、内部では二人の男の話し声が聞こえる。
 普通の者ならば聞き取れないような声量だが、相手が悪い。聴力の優れた元詩人にして元暗殺者たる彼には、会話の内容がはっきりと聞こえていた。
「……そろそろ毒が皆にまわった頃じゃないか?」
「ではそろそろアイル邸に手下を回してしまうか」
「マクソン・アイルはこの町で指折りの資産家だ。どれだけ貯め込んでいるやら、楽しみだな」
 レニーは口元を笑みの形にして、カチャリとわざと音を立ててドアを開いた。
「なんだ、お前は!」
「ああ、悪いね。部屋を間違えたのかもしれないな」
 ドアの前で腰に手を当て、片足に重心を乗せたまま、レニーは秀麗な顔を男達に向ける。
「すっげー美味い毒入りの料理を食べさせてくれたシェフに、一言挨拶をと思ったんだけど、ここ、オーナー室だったみたいだね。おれって意外と方向オンチだったのかもね? で、オーナーはどっち?」
 わざとらしくとぼけて見せる。
「まさか! 毒は全員の皿に仕込んだはずだし、ドアに鍵も掛けたはずだ!」
「そうか。一人だけメニューを変更してくれと連絡があったが、それがお前か」
「ふふ、まぁね。ま、たとえおれが例の肉を食ってたとしても、おれに毒は効かないよ。ちょっと特殊な体質でね」
 レニーは後ろ手にドアを閉めた。
「じゃ、そろそろ白状してもらおうかな。金で雇われたのか、あんたが首謀者なのか!」
「丸腰の優男一人で何ができる!」
 シェフ服を着た男が、ナイフを取り出して飛びかかってきた。
「いろいろできるさ!」
 ナイフを高らかに蹴り上げると、飛ばされたナイフは天井に突き刺さる。男はあっと声をあげ、すぐに後退《あとじさ》った。
 レニーは一気に間合いを詰め、男の腕を掴み、ぐいと逆手に捻り上げる。
「ぎゃあ! 折れる!」
「折れるじゃなくて折る!」
 不快な音をたて、男の腕が奇妙な方向へと曲がった。男の絶叫が室内に響き渡る。
 レニーは面倒くさそうに、残るオーナーに向き直った。
「貴様、只者じゃないな?」
「うん、違うよ。できれば只者でありたかったけどね」
 オーナーに無造作に近寄り、レニーは彼を見下す。
「こんな立派な店構えて、人雇って美味い料理作れて、なんだってあんたらは金に執着するんだ? こんな手を使って盗まなくても、この店だけで充分稼げるだろ?」
「分かったような口を利くな、若造が!」
「分からねぇから聞いてんだよ! 普通の家庭に生まれて、普通の暮らしをして、普通の仕事をしてきた奴の気持ちなんて、おれには分かんねぇよ! あんたにおれの気持ちが分からないように、おれだってあんたの思考なんざ、理解出来ねぇんだよ!」

 ──ダメだ!──
 レニーの心臓がドクンと脈打つ。
「明るい陽の光の中で暮らしていけることがどんなに幸せか、陽の光を浴びることさえ出来ない者の惨めさが、あんたには分かるのか!」

 ──止めてくれ!──
 湧き出る感情が激しく荒れ狂う。
「そんなに金が欲しいなら、てめぇら……人の血の味がする金がどんなものか、死ぬまで味わってみるかっ?」

 ――イヤだ! おれはもう、誰も人を殺したくない!――
 とめどなく溢れ出た激情は、もう自身の理性だけでは止められなかった。
 素早く床を蹴って、オーナーの前にあるテーブルに着地する。彼が声を上げる間も無く、レニーの手が素早く彼の首を掴んだ。
「ククッ……」
 喉の奥から低い笑い声が漏れた。瞳孔の開いた紫玉の瞳に、恐怖に慄く男の顔が映る。
「貴様ァァァッ!」
 レニーの背後から、先ほど腕を折られたシェフが恐怖を湛えつつも凄まじい形相でコート掛けを振りかざして飛びかかってきた。だがレニーはオーナーの首を片手で掴んだまま、もう片方の手をテーブルにつき、テーブルの表面を蹴った反動だけで彼を蹴り倒す。無様に倒れるシェフ。
「……こいつ殺ったら次、お前も殺ってやるから待ってろよ。な?」
 ニタリ、と、笑う。
「ひ、ひぃっ!」
 鼻血を垂らしたシェフが、恐怖に慄いた顔で、圧倒的な恐怖をもたらす侵入者を見上げた。
「待たせて悪かったね」
 レニーがテーブルの上に上がり、オーナーに向かって残虐に微笑み掛ける。その微笑みは、血に飢えた悪魔か死神のようだった。
「うっ……うっ……」
 レニーが指先に力を込めると、首の骨が軋む感触がはっきり伝わってきた。
「ククッ……随分長いこと忘れてた感触だよな」
 オーナーが呻くごとに、レニーの正気は心の奥底に沈み、殺戮の快楽に溺れてゆく。

 ──……メテ……──

 レニーの頭の中に、直接語りかけてくる『声』があった。

 ――ヤメテ、レニー……――

 どこかで聞いたことのある『声』だが、人を殺したいという殺戮に酔う意識が邪魔をして、それが誰のものなのか思い出せない。
 掠れた『声』が、何度も頭の中に響く。

 ――……や、めて……誰も殺さないで……レニーさん!――

「……ッ! シーア!……うぐっ……」
 レニーは弾かれるようにオーナーの首から手を離した。そしてそのままテーブルから転がり落ち、自らの頭を、わざと壁に打ち付ける。
 こめかみが割れ、一筋の血が頬を伝った。
「は……は……は……」
 肩で短い呼吸を繰り返しながら、レニーは自らの喉を押さえた。
「こ、殺さないでくれ……死にたくない死にたくない……」
 シェフもオーナーも、この数刻の間に味わった未曾有の恐怖で、レニーに対して壮絶なまでの恐れを抱いている。彼は乱れた呼吸を整えながら、壁に寄りかかって体を支えた。
「……もう、大丈夫だよ、シーア……もう誰も殺さないから……約束だもんな……」
 誰にも聞こえないような声音で、自分自身に囁きかけ、レニーは壁を支えにして立ち上がった。凍てつくような鋭い視線を投げかけ、彼は口を開いた。
「あんたらは殺さないよ。けど、拘束させてもらう。それから役人に通報する。あとはどうなろうが、おれの知ったことじゃない」
 レニーはこめかみから滴る血もそのままに、二人の男の腕を背に回して、カーテンを割いた即席の紐で縛り上げた。
「……っつ……」
 今頃になって、こめかみの痛みに気付く。傷口から血が流れ、頬や首筋を汚している。レニーは傷口を押さえ、オーナー室を出て行こうとして足を止めた。
「……ねぇ、あんたらに聞きたいんだけどさ」
 男達が緊縛されたまま、ビクッと体を竦める。
「あんたらに、上や裏はいるの? 分かるかな……黒幕っていうか、本当の首謀者」
 シェフが大きく首を振った。
「じゃあ、今日のことも、こないだの誘拐事件未遂も、全部あんたらの差し金?」
 今度はオーナーが大きく数回頷いた。
「……本当に上も裏もいないんだな? 嘘吐いたら……分かってるよね?」
「ほ、本当だ! 本当にワシ達だけで仕組んだんだ! 信じてくれ!」
「じゃあいいや。もうアイル家に手出しはするなよ? おれはあの家に頻繁に出入りしてるから、何かあればすぐ分かるし、いつでもまたここへ飛んで来るぞ?」
 こくこくと何度も頷く男たちを捨て置き、レニーはオーナー室から出た。そこで大きく深呼吸する。
「……シーア。止めてくれてありがとな」
 自嘲気味に歪んだ笑みを浮かべながら、レニーはポツリと呟いた。


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