砂の棺 if 叶わなかった未来の物語 「砂の棺」完結後の、「誰か」が思い描いた、 叶わなかった未来の幸せな幸せな物語。 北の町・ミューレンでのカルザスとレニーの日常。 そして新しく出会う人たちとのふれあい、事件。 |
3 薄暗い路地。埃っぽい空気。砂混じりの生暖かい風。 レニーが幼少期を過ごしたウラウローの片隅にある小さな町ラクア。そして彼女に最初に出会った、あの狭いスラムの路地。何もかもが懐かしい。 「……夢の中っていうから、もっとぼんやりしたものだと思ってたけど……結構はっきりしてるんだ。夢じゃない、テティスの作った空想の世界だからかな?」 レニーはキョロキョロと辺りを見回す。 「……カルザスさんは……いないよね。テティスもいない。シーアもいない……おれ一人かな? じゃあ、どうすればいいんだろう……」 レニーはゆっくり路地を歩き出す。記憶が確かなら、この先はスラムの広場に繋がっている。 シーアの暮らしていた孤児院も、シーアが通っていた教会も、この路地を抜けた場所にあるはずだった。だが歩けど歩けど、この薄暗い路地から一向に抜けられる気配がない。延々と、同じ場所を反復しているようだった。 レニーは路地を抜けることを早々に諦め、少し汚れた壁に背を付けて、狭い空を見上げた。 「……シーア、逢えないのか?」 虚空へ向けて呼びかけてみるが、返事はない。やはり賭けは賭け、彼女には逢えないのか。 レニーは薄目で建物の隙間から覗く狭い空を見上げたまま、再び声を出す。 「……この狭い空が、シーアの憧れなんだって言ってたっけなぁ……空はどこまでも続いてるから、どこまでも思いを馳せることができるって。こんな狭くて薄暗い路地でも、空は明るく照らしてくれるって」 青い空は透き通り、彼女の言葉通り、どこまでも続いている。 「空……おれは見上げたことなんてなかったっけ。空なんか見てる心の余裕、なかったもんな。でも今は……」 「……今は、空を見上げることができるのね?」 弱々しくか細い声は、記憶の奥底に眠っていたままの声だった。 レニーが驚いて視線を落とすと、路地の真ん中に痩せこけた小柄な少女が立っている。 褐色の肌に黒い髪と黒い瞳。いつも伏せ目がちだった視線は、穏やかな希望をたたえながら真っすぐ自分を見つめていて、普段はおくびにも出さずに隠していた、悔恨と絶望の毎日にあった己をじっと捉えて離さない。 「シー……ア……」 「なぁに、レニーさん?」 しょぼくれた自分にとって、希望そのものである少女シーア・セムは、滅多に見せなかった慎ましやかな笑みを浮かべて静かに頷いた。 あまりに突然の再会で、動くことが出来ず、言葉すら出てこない。 愛しい彼女に逢ったら、まずはこの腕の中に抱き締めようと誓っていたはずなのに、近寄ることすら忘れてしまっている。ただただ、彼女を凝視するだけだった。 シーアは静かに微笑んだまま、じっとレニーを見つめている。自ら歩み寄ってくることも、声をかけてくることもなく、ただ静かにひたむきに、レニーの動向をふわりと優しく見守っている。 レニーは成したかったことを思い出し、鉛のように重い体を必死に動かして彼女に近付こうとした。 「……シーア、逢いたかったよ」 「あたしはずっと、レニーさんの傍にいたの」 「……そうか……ごめん。おれ、気付いてやれなかった」 「うん。いいの。あたしはレニーさんの傍にいるだけで幸せだったから」 水の中を歩いているかのように、砂漠の砂に足を取られているかのように、もどかしいほどゆっくりとしか動けない。早く彼女の元へ行きたいのに、体が思うように動かない。もどかしく、焦る気持ちばかりが先行した。 「シーア、悪いけど、こっちに来てくれないか? おれ、体が動かないんだ」 レニーが言うと、シーアが初めて困ったような表情を浮かべた。 「……ごめんなさい。ここから出ちゃいけないの」 彼女が両手をそっと差し出すと、透明な膜のようなものがふるりと震えて微かに虹色に輝いた。まるで水面が揺れるように、空気が歪んだのだ。何かの障壁だろうか。 「じゃあ、おれが行くまでもうちょっと待ってて」 「ダメ……レニーさんはこっち側に来ちゃいけないの」 悲しそうに、シーアが俯く。 「どういうこと?」 「あの魔術師さんに聞きました。死んだ人だけが、こっち側に来れるって」 「え? じゃあおれはシーアに触れることもできないのか? せっかく逢えたのに」 躊躇いがちに頷くシーアを見て、レニーは唇を噛む。だがすぐ顔を上げた。 「それでも……もう少しだけ、傍に行ってもいいよね?」 「ええ」 レニーは重い体を引き摺るようにして、なんとか彼女に触れられそうな位置まで近付くことができた。しかし彼女に触れたくとも、さきほどの透明な膜が邪魔をしている。彼女を抱きしめたいという目論見は果たせなかった。だが──もうそれはどうでもよかった。逢いたかった少女が目の前にいる。それだけでも、彼のささくれていた心は僅かに癒された。 「シーア」 「はい」 話したいことは山ほどあった。逢ったら話そうと思っていたことが沢山あった──あったはずなのだが、何も言葉が出てこない。思い出せない。 その内、シーアは口元を小さく弓形に歪めた。そして声をたてずに笑う。 「あのね。レニーさんが何も言わなくても、あたしにはレニーさんの言いたいこと、全部分かります」 「そう、か。ありがとう」 おそらく気持ちは伝わった。いや、伝わっていたのだと、彼自身がようやく気付けた。たったそれだけでも、レニーの心がぽっと温かくなる。 ずっと逢いたいと焦がれていた少女が目の前にいる。先ほどまではそれだけでいいと思っていたのだが、気持ちは徐々に、欲深く高まっていった。 「……レニーさんは、たくさん、あたしを愛してくれたから。それだけで、あたしは幸せです」 全てを集約した言葉を発した彼女が、たまらなく愛しくなった。もう何もかも、後先どうなろうが構わない。 レニーの感情が弾けた。 「シーア! おれはやっぱり君の傍にいたい! 君をもっと愛したい! ずっとずっと傍にいたい! おれ、そっちへ行くよ! だから……だからっ!」 「ダメ! あたしをたくさん愛してくれるなら、そんなこと言っちゃダメなんです! 生きてくれるって……あたしのために生きてくれるって、約束……守ってください」 強い言葉が矢となって胸を貫いたかのように、彼女の真摯な言葉が衝撃となって、レニーは口を噤むしかなかった。そうだ、約束したのだ。彼女の分まで生きると。 互いに辛そうに涙ぐんで見つめ合っていたが、ふいにシーアが困惑したように背後を見た。 「……あ……戻りなさいって……」 刻限、だった。 あまりにも短い、儚い、最後の逢瀬。 「シーア、もう逢えないんだよね?」 「……いいえ、逢えます。あたしは毎日、レニーさんの夢の中に逢いに行ってたんだもの」 「でもおれ、君の夢を一度も……」 「だってレニーさんの心は、全てを拒絶してた。あたしを受け入れてくれてなかった。だから……」 彼女が死んだことを、頭では理解していても、心が受け入れていなかったということだろうか。 レニーは深呼吸し、両手を差し出した。当然ながら膜に遮られたが、向こう側でシーアも両手を差し出してくれたため、手のひらを重ね合わせることができた。 ぬくもりも、冷たさもない。だが、しっかりとした感触がある。彼女の小さな手が、レニーの手のひらと重なっている。 「おれの心が死んでたってこと?」 「ええ」 やはりそうか。レニーは目の前の少女を愛しげに見つめる。 「今度、夢の中に逢いに行ったら、レニーさん、あたしと逢ってくれますか?」 「当たり前だろ」 「嬉しいです。やっと……あたしのお願いが叶いました」 彼女は笑顔のまま、ぽろりと一粒だけ涙を零した。 レニーが彼女を待ち焦がれていたように、彼女もまた、彼を待ち望んでいたのだ。 「あの時、言えなかったけど……シーア、おれは君を愛してる。ずっと。永遠に。だけど……これでお別れだね……さよなら」 顔を近付けると、彼女も同じように精一杯背伸びしてきた。 愛しい彼女と、最初で最後の、キスをした。 |
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