砂の棺 if 叶わなかった未来の物語

「砂の棺」完結後の、「誰か」が思い描いた、
叶わなかった未来の幸せな幸せな物語。
北の町・ミューレンでのカルザスとレニーの日常。
そして新しく出会う人たちとのふれあい、事件。


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 客足が途切れ、カルザスは店の入り口の外に、閉店《クローズ》と書かれた札を下げ、鍵を閉めた。そのまま帳簿付けなどを放り出したまま、急いでレニーの様子を見に、奥へと向かう。
 レニーは寝室でベッドに寄り掛かり、床に座り込んだまま、例のイヤリングを指先に持って、目の前でゆらゆらと揺らしていた。
「レニーさん?」
「……ん。店は?」
「閉めてきました」
「悪いね。手伝えなくて」
 イヤリングを手の中に収め、レニーは膝に顔を埋める。
「やっぱり体調がまだ万全ではないのですよね? またハンナさんに来ていただいて、美味しいものでも作っていただきますか?」
「そういうんじゃなくてさ……」
 レニーは僅かに顔を上げ、髪の隙間からカルザスを見やる。
「風邪ひいた日からさ。こう……気弱になってるのか、ちょっと……なんか……ふっと思い出しちゃうんだよね」
「何をですか?」
「……シーア」
 何も言えなくなり、カルザスは口を噤む。
 レニーにとって、シーアという少女は彼の全てだった。そんな大切な女性《ひと》を、目の前で惨殺され、遺体を抱くことすら叶わなかった彼の寂寥《せきりょう》は、一人の人間をこれほどまでに深く愛した経験のないカルザスには思い描くことが出来ない。
 彼女を忘れさせることは決してさせてはいけないが、いつまでもその幻影に囚われ続けていることも、彼のこの先の人生に良いことではない。
 それは分かっている。分かっているが、どうすればよいのか、カルザスには分からなかった。
「……きつい言い方をします」
 カルザスは大きく息を吸って、レニーの傍に膝をついた。
「シーアさんは確かにあなたの心の中で今でも生きています。けれど、現実にはもう存在しないんです。だからいつまでも泣いて、見えない面影を追うのはやめるべきです。あなたのその姿、決してシーアさんも望んではいません」
「分かってる! 分かってるよ! だけど……だけど最近おれ、なんかおかしいんだ。年頃の女の子が一人で誰かを待ってる姿とか、親とはぐれて泣きそうになってる子供を見たりとか、何かにつけてシーアを思い出す。ウラウローに帰れば今でもあいつが待ってるんじゃないかって、そんな妄想までしちまう……おれ、もう一度シーアに逢いたいよ。今すぐシーアに逢って、この手でシーアを抱き締めたい。シーア……おれを一人にしないでくれ……」
 レニーがその場で泣き崩れる。そんな様子を、カルザスは複雑な表情で見つめていた。
『カルザス』
 滅多に現世《こちら》のことに介入してこないはずの、カルザスの中のもう一人の人格、テティスが彼に声をかけてきた。
「テティスさん。どうかしましたか?」
『レニーと話せるか?』
「仲介します」
 この世に存在しないテティスの『声』はカルザスにしか届かないため、カルザスはテティスの申し出に、仲介役を買って出た。
「レニーさん。テティスさんが、お話したいことがあるそうです。そのまま聞けますか?」
 レニーはしゃくりあげたまま、顔を伏せて小さく頷いた。
『シーアを蘇らせることはできんが……』
「シーアさんを蘇らせることはできませんが……」
『お前とシーアを逢わせることなら、出来るかもしれん』
「それ、本当ですか?」
『伝えろ』
 テティスに促され、カルザスはコクリと頷いた。
「は、はい。すみません。ええと、テティスさんのお話ですが、あなたとシーアさんを逢わせることができるかもしれないとのことです」
「シーアと!」
 レニーがバッと顔を上げる。
『俺の力が及ぶ世界。つまり夢の中限定だが、シーアの魂を呼び出すことが出来るかもしれん。可能性がある、という仮定でしかないが』
「あくまで可能性があるという条件ですが、テティスさんの力が及ぶ夢の世界でなら、シーアさんの魂を呼び出せるかもしれないそうです」
「テティス! おれ、シーアに逢いたい! シーアに逢いたいよ! 夢だって構わない。シーアに逢って、シーアと話ができるなら……」
 レニーがカルザスの腕に縋り付く。
『俺の能力の源である、マリスタの能力を使う。だがシーアの魂を呼び戻せるのは、一度きりだ。それも可能か不可能か分からない。それに賭けることができるか?』
「マリスタさんの能力を使うそうです。でもシーアさんを呼べるのは一度きりで、それも出来るか出来ないかは分からないそうです。それでも構いませんか?」
「一度きり……」
 彼は躊躇いの表情を見せる。
 レニーがここまで弱気になってしまった原因は、おそらく先日の風邪のせいだろう。カルザスやハンナとて、四六時中レニーと一緒にいられた訳ではない。熱や咳に苛まれながら、酷く不安で孤独な時間を、普段以上に長く過ごした。
 不安や孤独の時間を埋めたのは、おそらくシーアとの過去の思い出だけだったのだ。彼にはもう、心の拠り所とするものが、ほとんど残っていないのだから。
 レニーの心に迷いが生じる。
 テティスが提案した機会は、彼があの日から願っても願っても叶わなかった、ただひとつの願望だ。しかしあまりにデメリットが大きすぎる。

 逢えるか逢えないかは賭けになる。

 最初で最後の一度きり。

 もしかしたら、もう夢で彼女に逢うことすら叶わなくなるのではないか。

 確かに今すぐにでも、彼女に逢いたい。だが、その唯一のチャンスを今、使ってしまってもいいのだろうか? 欲が出て、またすぐに再び逢いたいと、心を病み、潰してしまうのではないか。いや、きっとそうなってしまう。自分は──脆いから。
 恐ろしかった。夢であれ、あの日から願い続けていた望みを今、叶えるのが恐ろしかった。
 この脆くみっともない姿を、たとえ夢の中であろうと、愛しい彼女に見せることが恥ずかしかった。
「レニーさん……」
『今すぐ答えを出さずともよい。俺には永劫の時間がある』
「ええと……すぐ答えを出さなくてもいいと……」
「カルザスさん」
 レニーは膝を抱え、天井を見上げた。頬は湿っているが、もう泣いてはいなかった。
「おれね。シーアを愛してる。今でも誰より愛してる。だけど……だけどさ。あんな悲しい別れ方をしたのに、おれは今まで一度だってシーアの夢を見たことがないんだ。シーアが笑う顔、シーアが怒る顔、シーアが泣く顔。なーんにも見たことがない。ただ隣にいてくれるだけでもいいのに、ただそれだけの夢でもいいのに、おれはあの日から、一度だってシーアに逢えてないんだ。おれはこのまま、シーアを忘れちゃうんじゃないかって、それが怖いんだ」
 カルザスは口元に手を当て、考え込む。そして意を決して、レニーの手を握った。
「レニーさん。ぜひシーアさんに逢ってください。シーアさんと話してください。これが最後になってしまいますが、シーアさんと、ちゃんと最後のお別れをすべきです。きちんとお別れ出来たなら、もうシーアさんのことで苦しむこともなくなるんじゃないでしょうか?」
「でももしまた、欲を出してシーアに逢いたいと思ってしまったら? テティスの力に縋りたくなったら?」
「あなたはシーアさんを愛していると仰った。それを、そんな軽率な気持ちで何度も逢いたいなんて仰るなら、それはシーアさんに対する侮辱です」
 カルザスの言葉に、レニーの表情が強張る。
「愛し合っていた者同士が引き裂かれてしまったのですから、いつまでも悔いが残るのは当然です。けれど、きちんとお別れの言葉を交わせたら、もうあなたを苦しめるものはなくなるでしょう。そうすることで、あなたが今後、シーアさんを蹂躙することはありません」
「おれがシーアを……冒涜してるってこと?」
「今のあなたは、です。だからきっちりと清算してくるべきです。淀んでしまった思考を改める、絶好の機会じゃないですか」
 カルザスが力強く頷くと、レニーが手の中のイヤリングをじっと見つめた。
「おれがシーアを……そうか……シーア……」
 レニーが泣き笑いの表情を浮かべる。
「……テティス。シーアに逢わせてほしい。シーアにおれの気持ちを伝える。そして……最期《さいご》の別れを告げる。いつまでも愛してるって伝える。きっと、シーアもそれを待ってる……んだよね? カルザスさん?」
「ええ、きっと」
 レニーがコクリと頷いた。
『では、いつにする?』
「いつになさいますか?」
 レニーは一瞬迷い、だがすぐ答えを出した。
「早い方がいいよね。だったら、今夜にでも」
『分かった。カルザス、お前は俺の言う物を用意しろ。そしてレニーは、水浴びと香で体を清めておけ』
 カルザスとレニーはテティスの指示に従い、慌ただしく動き出した。


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