砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


   星の隙間

     1

 昼夜の寒暖差が激しい砂漠の国。町の中、建物の中におれば火を焚いているために、凍える寒さもさほど辛くはないのだが、夜間、屋外で過ごすという事は死の淵を歩いているようなものだ。
 よって夜間の砂漠徒行は、かなりの重装備をしていなければ凍え死んでしまう。だが全身の怪我と疲労のために、体力を著しく消費しているカルザスには、その装備の重量すらも辛く苦しい。
 息はあがり、幾重にも体に巻き付けた衣類や外套は、一歩ごとに重みを増しているかのような錯覚に捕らわれる。
「もう少し行ったら岩場があるから、そこで朝まで休みましょ」
「僕ならご心配なく。今は追っ手の方々のお相手の方が大変ですから」
 このたわけ者め。虚勢を張っておると、誰の目にも明らかではないか。だがシーアは一瞬カルザスを気遣うような表情になったが、すぐに平静を装って拗ねたように唇を尖らせる。
「私が疲れてるの。昨日からほとんど寝てないんだもの。私はなんでも力技なカルザスさんと違って、持久力より瞬発力で動くタイプなのよ」
 と、肩を竦めて見せる。嘘ではないだろうが、カルザスを気遣っているのは間違いない。やせ我慢が見え見えのカルザスを上手くあしらう。
 町を出ているゆえ、大声をあげたり火を起こすなど、よほど間抜けな事をしない限り、追っ手にすぐ見つかってしまうというような事はなかろう。
「……では、お願いします」
 カルザスが折れると、シーアは目を細めて頷く。どうやら緊張は随分解れているようだ。化けているとはいえ、自然に笑顔を浮かべられるようになったのだからな。

 流れる水のように、さらさらと零れる砂を踏み締め、星々が描き出す星座と月の方角だけを頼りに砂漠を歩く。
 夜目が利くと言ったシーアの言葉は嘘ではないらしい。カルザスの前を歩き、時々立ち止まったかと思えば、足元の何かを、長い棒で払い退けている。恐らくサソリや毒虫の類なのだろう。
 しばらく歩くと黒い岩が見えてきた。あの側で休もうというのだろう。シーアが黙って振り返る。
「あの……本当に朝まで休むのですか? それもある意味危険だと思うのですけど……」
 休む事によって、温まっていた体が冷える。冷え切ってしまえば……凍死だ。
「体調がいいなら無理してもらったけど、カルザスさん、もう動けないはずよ。私もそろそろ限界」
 しっかり見透かされておる。カルザスの体力は限界だった。気力だけでどうにか足を動かしていただけなのだからな。
 だがシーアも動けないとは……いや、そうか。
 よくよく考えれば、昨夜カルザスと争い、仲間を追い出した後でカルザスを手当てして、目覚めるまで付き添っていたのだ。うとうとしていたようだが、その程度で疲労が回復するはずがない。極度の緊張で心を休める事などできなかったであろうし、気を張り詰めていた体は自分で思うより遥かに疲弊しているはずだ。
 さっさと岩場の一角を陣取り、荷物の中から毛布を取り出して、それを体に巻きつける。そしてこちらを見ないようにして、ゆっくり岩に寄り掛かった。
 カルザスはそんなシーアを見て苦笑し、自分も荷物から毛布を取り出して、シーアの隣に腰を下ろした。シーアは驚いて一瞬身を強張らせ、カルザスを見つめる。
「どうかしましたか?」
「……え、あ……その……私の事、避けられると思ってたから……」
「単独でいるより、二人でいた方がお互いの体温で暖を取れるでしょう?」
「そ、そうだけど……」
 シーアは俯き、目を伏せる。そして長い銀髪の隙間から、こちらの様子を伺うように戸惑った視線を向けてきた。
「……怖く、ないの?」
「もう僕を殺す気はないですよね? 暗殺者を廃業なさるおつもりですし。だったらシーアさんを避けるなんて失礼ですから」
 シーアは微かに口許を綻ばせ、カルザスの肩へと頭をもたげる。
「……カルザスさんはやっぱり優しいね。惚れちゃってもいい?」
「僕、やっぱり向こうで一人でいますね」
「ふふっ、冗談よ」
 ふっ……冗談が言えるようになったか。町を出るまではどことなく、よそよそしいと思っておったが、奴は奴なりに、カルザスの好意に応えようとしておるのだな。
「……敵じゃない人が傍にいるのって……もう何年もなかったわ。ずっと忘れてた感覚よ」
 暗殺者という組織の中でも、やはり下克上というものはあるのだろう。周囲が全て敵とは、なんとも虚しいものだ。

「そうだ。あなたの事、紹介しておきましょうか?」
 突然のカルザスの言葉に、シーアはびくんと体を強張らせて周囲を見回す。
「私を紹介って……誰か……いるの?」
 怯えたようにカルザスを見つめ、僅かに身を引くシーア。
「いえ、シーアさんを紹介するのではなくて、僕と一緒にいるもう一人を、シーアさんに紹介しようかと」
 まさかとは思うが、俺の事か? 愚かな……実体のない俺を紹介などすれば、気が触れたかと思われるぞ。
「僕にも事情は分からないんですけど、いつの間にか僕の中にはもう一人、別の人がいたんですよ。僕には僕でないもう一人の別の人格があるんです」
「……それって、多重人格症って事?」
 それ見た事か。やはり混乱しておるではないか。俺は呆れ果てる。
 目に見えぬ俺を誰かに口頭で説明するなど、そう容易い事ではないのだ。カルザスとて初めは「妙な声が聞こえる」と周囲の者に訴え、カウンセリングに行くよう勧められ、本気で医者通いしておった。俺という存在はカルザス自身ではなく、むろん病からくる幻聴でもない、と、俺もカルザスも自覚するのにかなりの期間を要したのだ。
「彼はどうやら記憶喪失らしくて、名前も姿も分かりませんけれど、ちゃんと僕の中で生きているんです。彼の実体を探す事と、なぜ僕の中にいるのかという理由を知りたくて、僕と彼は旅に出たんですよ」
 む。父親に反発して飛び出した事を、割愛しておるではないか。
 シーアの表情が曇り、小さく指を噛む。
「……詩人として歌う私と、人を殺して血を浴びて笑う私はどちらも同じ私。でも……違う私……」
「違います。本当のシーアさんは詩人さんです。ダメですよ、これからは間違えちゃ」
 シーアが顔を上げ、カルザスの目を見つめる。それは明るく気丈に振る舞っておる時の詩人の目でなく、血と殺戮に狂喜する暗殺者の目でもなく、戸惑い、悩み、行く先を見失った者の目だった。
「シーアさんは一人ですけれど、僕は二人なんです。目で見る事はできませんけれど、心で感じ取る事はできると思います。シーアさんなら」
 シーアがそっと手を伸ばしてくる。そしてカルザスの頬に指先を添えた。
「……よくは分からないわ。でも、最初にカルザスさんに会った時、そこに二人いるように感じたの。一人はとても懐かしいような気がして、一人は不思議な感じがした。普通の人じゃないって思ったのよ。でも現れたのはカルザスさん一人だった。ただの傭兵さんだった。だから……私の抱いた感覚は、過去にどこかの酒場で見掛けたお客さんだったのかなって思ったわ」
 驚いたな。カルザス以外の者で、希薄な俺の存在を感じる事ができる者がおったとは。それは詩人ゆえの繊細な感受性のためか、暗殺者ゆえの鋭敏な察知能力の賜物か。
 だが……他者に俺という存在を認められた事が、たまらなく嬉しいと感じる。俺はやはり“生きて”いるのだ。
「やっぱりシーアさんには分かっていただけましたよ。良かったですね」
 ──それは俺に言っているのか?
「はい。そうですよ」
 カルザスが答えると、シーアは目を細めてぷっと小さく笑った。
「お話しできるのね。でもカルザスさん、独り言を言ってるみたいよ。ちょっと変な人かも?」
「そう見えますよね? ですから人の多い場所では、彼に話しかけられても無視しています」
 ──貴様! やはり故意的に無視しておったのか!
 俺の意識の集中が足りずに“声”が届いておらんのかと思っておったが。カルザスめ、俺が無力だからと、生意気な事をしてくれる。
「そう怒らないでくださいよ。彼はね、本当にお説教好きで困ってるんです」
 カルザスが左手で軽く自分の頭を小突く。やはり右腕は上がらんようだな。
 興味深そうにシーアはカルザスの目を覗き込んでくる。肩から零れた髪を押さえ、まるで俺の姿を見つけようとするかのように、じっとカルザスの瞳の奥を見つめる。
 俺を……俺の姿を見つけようとしているのだろうか?
「……私と直接お話はできないの?」
「人に彼を紹介したのは始めてですから、そんな事は考えもしませんでした」
「そう……」
 シーアは身を引き、顎に指先を当てて星空を見上げる。
「彼は記憶がありませんが、でもとても物知りなんですよ。ウラウローの歴史とか、昔の伝聞とか。でも可笑しいんです。全部中途半端にしか分からないんですよ。やっぱり記憶喪失っていうのが原因……」
「……セルト……」
 シーアの呟いた妙な音に、カルザスは首を傾げる。だがシーアは星空を見上げたまま、再び“セルト”と呟いた。
「シーアさん。セルトというのは?」
「あ、ごめんなさい。ぼうっとしちゃって」
 自らの頬を軽く叩き、シーアが頭を振る。
「もう一人のカルザスさんの名前。名前がないのって不便だと思ったから」
「僕にしか認識できない方なので、彼の名前を必要とは思っていませんでしたけれど、確かにこれからシーアさんと一緒にいるなら、名前が必要かもしれませんね。由来は何かの伝承でしょうか?」
「え、ええ……そんなところ」
 カルザスはにこりと微笑み、シーアを見る。が、シーアは少し戸惑うように眉を寄せ、視線を外した。照れておるのか?
 しかし……セルトか。なぜだか俺は、その言葉をどこかで聞いた事があるような気がする。名なのか、別の意味がある音なのか……。
 む……駄目だ。思い出せん。
「お気に召しませんか?」
 ──いや……勝手に呼べばいい。どうせ名すら思い出せんのだからな。
「どうやら気に入ったようですよ」
「それは良かったわ。もし嫌だって言われたら、他にいい名前なんて思い浮かばなかったもの」
 別に俺に名などなくとも、今まで困る事などなかったのだ。カルザスにしか俺の存在は感じられなかったのだから。だがカルザスも言ったように、シーアが“俺”を認識するならば、これからは俺を識別するための名は必要であろう。
 ふむ、セルトか。悪くはない。
「いつか本当に会えたらいいのに。セルトさんと。会いたいな……セルトに……」
 シーアは視線を星空へ向ける。星の隙間の、更に向こうにいる“誰か”を想うような、熱に浮かされたような視線だ。
「気長に彼の実体を探しますよ」
「セルトさんを探す旅……わ、私も一緒に行っていい? それとも……やっぱり迷惑かな、私が一緒だと……」
 身を乗り出してきたシーアだが、言葉尻が小声になる。まだどこか、カルザスに遠慮しているのだろう。
「そんな事はないですよ。シーアさんがいると心強いです。正直な事を言うと、僕一人でどうやって探せばいいのか分からなくて、途方に暮れていたんです。シーアさんは詩人さんですから、物知りですよね?」
「物知りかどうかは分からないけど、私なんかで力になれるなら……」
 シーアは目を細めて頷き、毛布の前を合わせた。それに習うように、カルザスも毛布を体に巻きつける。
「心強いですよ、シーアさんが一緒だと」
「……うん……力になれるよう、いろいろ考えてみるわ」
 シーアの言葉に、カルザスは人懐っこい笑みを浮かべた。

 セルト、か……。
 名を与えられ、改めて思うのは俺の本来の名。そして俺の素性。
 全てが明らかになる日がくるのか、それともこのままカルザスと共に生き続けるのか。それは誰にも分からん事だ。
 願わくは、俺が失くした全てを知りたいと思う。だが不思議とその事を考えると……言い知れぬ恐怖を感じるのだ。失った記憶が、記憶を取り戻す事を拒絶しているような奇妙な感覚だ。ならばこのまま、何も知らぬ方が幸せなのかもしれん。
 真実に対する、探求欲と恐怖。相反する感情の板挟みとは複雑だな……。

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