砂の棺 白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。 傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。 この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、 彼らは運命に翻弄されゆく。 |
4 誰かが騒ぐ声がする。それが誰の声なのか思い出そうとする前に、俺の意識が覚醒する。そして目の前の光景に、我が目を疑った。 腕がもう一本生えているかのように、腹部から突き立った赤い棒。それはバルコニーから落としたカルザスの長剣だ。背から腹へ、真っ直ぐ細身の体を貫いた長剣は、その刀身を鮮血で染めていた。レニーの血で。 共にバルコニーから落下し、レニーはそのまま運悪く串刺しとなってしまったのだ。体を横たえ、辛うじて息はあるものの、死は時間の問題だった。それは誰の目にも明らかだ。 同じとはこの事だ。落下の寸前にレニーが呟いた「同じだ」という言葉は、この事を指しておるのだ。 エルスラディアで俺がアイセルにしたのと同じ、胸部を貫き、誰の手も差し出されずにそのまま落下してしまうという、この事を指していたのだ。レニーが幾度となく見たという悪夢。 ただ一つ違うのは、俺は奴の手をしっかりと掴んで同時に落下したという事。今度こそ……今度こそ奴の手を握り返せたのだ。なのに、こんな結末を迎えるとは……。 レニー……俺が癒してやる。 手を翳そうとし、俺は俺の体が自由に動かない事をこの時ようやく悟った。まさか俺も死……。 「意識をしっかり保《も》ってください! 僕が助けますから!」 半狂乱になって叫んでいるのはカルザスだった。そうか……俺は再び、カルザスの精神に憑依するだけの存在となったか。だがこのままでは俺は魔法を使えず、レニーを助けられん。 おい、カルザス。一度俺に譲れ。俺ならば魔法でレニーを助けられる。 そう声を掛けてみたが、カルザスに俺の言葉は届かんようだ。どういう事だ? この期に及んで、俺を拒絶している訳ではあるまい。 カルザス? カルザス! 俺の声を聞いてくれ! 俺は何度も呼びかける。 「すぐ、町に連れていってあげますから。だからもうちょっと頑張ってください」 「も……う、いいから……」 「何を仰っているんですか! シーアさんと雪を見るのだと約束なさったんでしょう? だったら……だったら頑張らなくちゃいけないじゃないですか!」 レニーの体から剣を抜くと、夥しい量の血が溢れた。傷口を布で強く押さえ、カルザスはレニーの腕を自分の肩に回す。 カルザス! そんな悠長な事をしている暇はない! この出血を見ろ! 俺ならばこいつの傷を癒してやれるのだぞ! どんなに強く念じようと、カルザスに俺の言葉は届かない。 ――テティス。憐れな獣人だ。 ふいにアーネスの声が聞こえた。 ――お前自身も悟っていたのだろう? アイセル、いやレニーが死ねば、お前自らが崩壊すると。 確かにそうだ。 確かに俺は自分で思っていた以上に、カルザスとレニーという二人の人間に好意を抱いていた。レニーを失う事は、俺自身の終わりなのだと感じていた。だからこそ、だからこそ今、レニーを救ってやりたいのだ。レニーを救い、カルザスと俺と、三人で北へ……。 「やく、そ……く……」 「そうです。僕とも約束しましたよね? 僕はあなたの傍にいるって。あなたに万が一の事があれば、僕はその約束を破ってしまう事になります。あなただって約束なさったじゃないですか。僕のために生きてくれるって」 微かにレニーが顔を上げる。血に濡れた銀髪が奴の顔を隠しているので、表情を見透かす事はできないが、本の微かに微笑んだような気がした。 「……おれ……守れそうにな……いよ、ごめん……」 「そういう事言うと、僕、怒りますよ!」 「でもこれで……シーアに逢える……」 「レニーさんっ!」 アーネス! 貴様は魔導師だろう! 何とかしろ! ――俺は無力だ。俺は誰も救ってはやれん。 ふざけるな! 俺が持つマリスタの魔力など貴様にくれてやる! 獣人に戻っても……俺が滅びようと構わん! だからレニーを助けろ! ――生きている者ならば俺でも救ってやる事ができる。だが、そうでない者は俺の力では無理だ。 赤ん坊だった瀕死のアイセルを抱き、アーネスはマリスタに同じ事を言ったのだ。死した者を救う力はないが、生きた者ならば救えると。 「……シーアに逢いたい。でも……死にたくないよ……」 レニーが震える手でカルザスの服を掴む。 「大丈夫です。死なせません。僕はレニーさんを死なせませんから!」 「死にたく……ないよ……カルザスさんと……シーアと……雪……見たい……から……やっとおれ……手を掴んで、もらえたから……」 「ええ、僕、あなたの手をちゃんと掴みました! だから一緒に雪を……雪を見ましょう。約束ですよ! それまで死ぬなんて言わないでくださいよ!」 出口の分からぬ地底を、カルザスはシーアを抱いて歩き出した。 アーネス……アーネス。頼むから俺に力を貸してくれ。十数える間でいい。それだけあれば、俺は魔法でレニーの傷を癒してやれる。頼む、アーネス。 ――マリスタ様の力を取り戻し、アイセルの仇としてお前を消し去るつもりでいたが……その必要はないようだな。 どういう事だ? ――テティス、お前はもう“生きてはいない”んだ。 生きてはいない……俺は死んだのか? だから……カルザスが俺の意思を退け、本来の体に戻ったという事か。 ――死ではない。“生きていない”だけだ。目を閉じてしか見えないものになったのだ。俺やマリスタ様と同じだ。意思だけが、魔力だけが……世界の外側で、たゆたうように残ったもの。魔導師という存在が俺とマリスタ様だけになった時から、もうすでに未来は決まっていたのだ。“存在すべき者”と、“そうでない者”が作り出すと。 目を閉じてしか見えないもの──過去。 存在すべき者と、そうでない者が作り出してゆくもの──未来。 マリスタの屋敷が放つ光が届かぬ闇の中、カルザスの荒い息遣いだけが聞こえる。今のカルザスにできる事は、地底からの脱出を願い、ただ闇雲に突き進むのみだ。 アーネス、頼む……この暗い地底からカルザスを明るき地上へ。生きている者ならば、お前は救えるのだろう? ぐったりとしたレニーを抱え、カルザスが奥歯を噛み締める。その視線の先に、僅かな光を捉えた。 「地上……地上ですよ、レニーさん!」 安堵の声をあげ、カルザスが歩調を速める。光に向かって。 アーネスの魔法だな? アーネスがカルザスたちを地上へと導いたのだな? アーネス、礼を言う。 俺は俺と同じく、精神だけの存在となっているはずのアーネスに声を掛ける。だが返事はない。 アーネス? 先ほどまで感じられていたアーネスの意思を全く感じん。消えてしまったのか? 存在しなくなってしまったのか? 存在しない者……いや、存在すべき者とそうでない者。後者になってしまったのだろうか? いずれは俺もそうなるのだろうか? ……レニーが幾度となく繰り返した言い回しにそっくりだな。 生きるべき者とそうでない者。後者を死ぬべき者という表現をしないのは、“そうでない者”には、俺のように意思だけの希薄な存在の事も指すからだろうか? だとすれば……やはりレニーは最初から、生きるべき者であるカルザスとは別の、セルトという俺の存在を認識していたのだろうか? そういえばいつだったかレニーが、それらしき事を言うた事があったな。出会って間もない頃だった。カルザスが二人いるように感じ、一人はとても懐かしく、一人は普通の者ではないような、と。今にして思えば、これはアーネスと俺だったのに違いない。アイセルとしての記憶はないはずだというのに、レニーはそれを感じ取っていたのだ。 レニー、頼む。生きてくれ。 明るすぎる陽の光に、カルザスは片手を目の上に翳す。地上はすっかり朝になっていたのか。 「……あ……」 肌を刺すような冷たい空気に、カルザスは身震いする。そして見慣れたはずの殺風景な白い景色が、明らかに違う白い景色である事に気付き、しばし言葉を失う。 眼前は一面純白なのだ。毎日見ていた砂の白さではなく、細かく砕かれた氷の白さ。 雪……か? 「これ……」 そうか。あの地下の小川はこの雪が溶け出したものなのだ。だからあれほど冷たかったのだ。 カルザスが周囲を見回すと、背後に黒き岩山が見える。その一角は肉眼でもはっきりと分かるほど、地中へと深く陥没していた。あれほど険しかった山が崩れてなだらかになっているのだ。 「わぁ……ウラウローを囲んでいた岩山が崩れてますね。レニーさん」 抱き抱えておるレニーに、わざわざ確認するかのように問い掛けるカルザス。 「ほら、雪ですよ。ウラウローのすぐ外側に雪が降っていたなんて……驚きました」 カルザスがレニーに微笑みかける。だが奴は項垂れてカルザスに抱き抱えられたまま、何も返事をしなかった。 「……レニーさん。雪ですよ、雪。僕、初めて見ました。冷たいけど、白くてふわふわで綺麗ですね。セムさん……ええと、シーアさんと一緒に見るって約束はこれで果たせましたよ」 レニーの耳には、あの硝子細工の耳飾りがない。どこかで落としたようだ。恐らくバルコニーから落下した時だろう。あんな小さなもの、後で探し出せるだろうか? 「レニーさん」 膝をつき、レニーの背を抱いたまま頬を叩いてみるカルザス。力無く背に頭をもたげ、レニーは誰の問い掛けにも、もう返事をしなくなっていた。 「……レニーさん。ダメですよ、そういう悪趣味な冗談なんて……」 アーネスは消え、レニーも逝った。俺とカルザスだけが残された。希薄な意識だけの俺もいずれ消えてしまうのだろうか。それがいつになるのかは見当もつかぬが。 「レニーさん、疲れてちょっと眠っちゃってるんですよね? 大丈夫ですよ。僕がすぐに助けてあげますから。僕は嘘なんて言いませんからね」 物言わぬレニーを再び抱き上げ、カルザスはウラウローの方へと向き直る。地理感のない外側の国より、一旦ウラウローに戻る事を選んだのだろう。 「……僕はあなたを守りますって契約を……守りますと約束しましたもの。ずっと傍にいるって約束したんです。僕は嘘なんて言いません。もう決してあなたを裏切りません。あなたが悲しむような事はしません」 鼻の奥に込み上げてくる熱いものを無理矢理飲み下し、カルザスは何度も反芻する。約束は守るのだ、と。 カルザス。レニーを離すな。決して離れてはならん。それが……俺からの願いだ。 「……カルザス兄ちゃん……?」 カルザスは立ち止まり、息を飲む。前方にジェレミーがおったのだ。 北へ向かうと言っておったのだから、山道の近いエテルへ向かう事は容易に察しできる。山道から外れたこの場所を探り当てたのは、恐らく岩山が崩壊しておるからだ。何かが起こっていると思い、やってきたのだろう。 「抱えてるのは……レニー兄ちゃん?」 無言のまま、カルザスは身を引く。長剣はレニーの腹部から抜き放った後、地底に放り出してきたのだ。そして胸を貫いたレニーの短剣もない。丸腰なのだ。 レニーの白いローブを染める赤黒いものを見て、ジェレミーの表情が変わる。 「それ、カルザス兄ちゃんが殺ったの?」 凶悪な笑みを張り付かせるジェレミー。レニーに協力するとは言っておったが、やはりこやつもレニーを追う者たちの仲間だったのだ。おそらくレニーの言葉通り、十三年前に拉致され、そのまま暗殺者の密偵として調教されたのだろう。子供の姿ならば、相手も油断すると踏んで。 俺が暗殺者の頭目でなくなった後の事なので、これらはあくまで俺の推測だが、間違ってはいないはずだ。 「眠って……いるだけです。急ぎますから道を空けてください」 「眠ってるだって? へぇ……でもさ……暗殺者が“死体”と生者を見間違えるとでも思ってんの?」 やはり、な。 カルザスは唇を噛み締める。自らを暗殺者だと言うジェレミーは……どれほどの手錬なのか、想像もできん。 「いい気味だよ。シーア姉ちゃんを死なせた報いさ。本当なら、オレがトドメ刺してやりたかったんだけどね」 両腕を組み、ジェレミーが目を細める。 「でもやっぱ悔しいなぁ。この手で裏切り者の首をちょん切ってやりたかったのに。でないとさ……オレ、せっかくやっとの事で、一人前の暗殺者として認めてもらえた甲斐がないじゃん?」 暗殺者として認められた……ジェレミーのような少年がか? いや、訓練を積んだ暗殺者に年齢は関係ないな。レニーはジェレミーより幼くして、暗殺者の訓練を受けておった。俺が……させていた。 「レニー兄ちゃんみたいに甘い仕事はしないよ、オレ。カルザス兄ちゃん、試してみる?」 子供のような無邪気さで、虫を押し潰すように人を殺める事を楽しんでいるのか。成りは大きくとも、精神は未熟な子供のままだ。だが……それがもっとも恐ろしい殺人鬼となる事は立証済みだ。俺がレニーを……そう育てたのだから。 ジェレミー、やめろ。ここでカルザスを殺しても何も終わらん。何も残らん。残るのは虚しさだけだ。俺のように、虚しさだけが残るのだ。空虚な自分を呪うだけの存在になるのだぞ。 カルザスが血の気の失せたレニーの顔を見つめる。 「……レニーさん、すみません。ちょっと待っててください。すぐ戻りますから」 カルザスはそう言い、レニーをその場へと横たえる。カルザス、暗殺者に丸腰で挑む気か? 愚かな。 いや、しかし……おそらく俺でも同じ事をしただろう。立ち塞がる者がおれば、それを退け、そして町に行く。町で医者を見つけなければならんのだ。治療のために。 カルザス、レニー。共に行こう。傷を癒し、再び雪を見るため、ここへ戻るのだ。そして……また……他愛のない、くだらぬ話で……笑い合おう。 こんな俺だが……約束してはくれまいか? 俺は祈り、希《こいねが》う。 |
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