砂の棺 白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。 傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。 この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、 彼らは運命に翻弄されゆく。 |
3 突然振り返ったあいつは、俺とルネの手を取って、満面の笑みを浮かべた。 「おれはね、ルネもテティスも大好きだよ。魔導師とか、獣人とか、人間とか、そういうの、関係ない世界って、きっとすぐ近くにあると思うんだ。だから三人で探しに行こう。三人で探せば、見つけるのは簡単だよ」 どんなに努力したとて叶いはしない夢を、さも手の届きそうな場所にあるとでもいうように、アイセルはいつも笑いながら俺とルネに向かって語るのだ。 できる訳がないと初めから諦める俺と、無駄としか思えん努力を続けるアイセル。そのような者に……どちらにルネが惹かれるか、明白ではないか。 今にして思えば……マリスタの魔力そのものである“蟲”を乗っ取ってみて初めて分かった。アイセルの望んだ世界は、マリスタが叶えようと手を尽くした世界そのものなのだ。マリスタの魔力をもってしても、叶いはしなかった世界を、アイセルは望んでいたのだ。 ただの人間と、強大な力を持つ魔導師。その相容れるはずのない二人が、同じものを目指していた……。 「砕けろ!」 バルコニーの床石が破裂するように弾け、俺を中心として足場となるものは崩れ落ち、そこは屋敷の一角と共に瓦礫の山となる。床板の破片がレニーの持つ長剣を弾き飛ばし、崩れたバルコニーの下へと消える。 俺は……なぜレニーと戦っているのだ? レニーはレニーであり、アイセルではない。 俺の意識が何かに侵食されてゆく。 不快……。 不快。 不快! 不快不快不快不快不快不快不快なのだ! もう奴の面を見ている事すら不快極まりない。例えようのない憎悪と不快感に心が侵食された俺は、狂ったように頭を抱えて絶叫する。 俺とルネ、アイセルという親友関係は、アイセルとルネが惹かれあった事によって乱れてしまった。その原因を作り出したアイセルが妬ましいと思った。この手で……アーネスの手で妬ましいアイセルの息の根を止め、アーネスの心を壊し、獣人たちを嘲る魔導師の最後の生き残りであるアーネスに、俺以上の苦しみを味わわせてやりたいと思った。 だが……それは……。 「カルザス! レニー!」 俺はセルトでありたいと、カルザスに憑依し、レニーに名付けられた“俺《セルト》”に戻りたいと、心の底から強く願った。 俺はテティスに戻りたくはない。セルトとして、カルザスやレニーと共に、全てをやり直したかった。そのためにカルザスを、レニーを失う事が恐ろしい。 なにより、憎み続ける事に……疲れた。自暴自棄になった俺がこの上なくみすぼらしく、憐れだった。 天空のエルスラディアという地で、マリスタの思考が行き着いた答えに、俺の意識も到達していた。何もかもが……“虚しい”という、最期の意識。 「あははっ! おれを殺すのか? やってみろよ!」 砕け、舞い上がる破片がレニーを傷付ける。頬に朱線を走らせ、纏ったものを切り裂いてゆく。奴は自らが傷付く事などお構いなしに狂喜し、俺を嘲り笑う。 憐れな……俺が作り出してしまった、憐れな暗殺者。奴が掴むはずだった幸福を奪ってしまった俺。本当に憐れなのは……愚かだったのは……。 ……今、全てが分かった。 アイセルを……レニーを失って壊れるのは……俺だ。アーネスもカルザスも、俺のように弱くはない。何かを失っても、挫けぬ強さが、歩みを止めない強さが、あの二人にはある。その強さを、俺は持っていない。 俺は酷く混乱していた。 なぜアーネスや魔導師を憎む事に嫌気がさしてきているのか。なぜ迷う必要があるのか。なぜ、俺はセルトに戻りたいのか。 幾つもの疑問や戸惑いが俺の脳裏をよぎり、何一つ答えが見出せない。俺は小さく頭《かぶり》を振った。そして誰にともなく、詫び、許しを請うた。 「すまない……もう……何が苦痛で、何を憎んでいたのか……思い出す事さえ適わんのだ」 確かに魔導師を憎んでいた。だが最後の魔導師はもう存在しない。俺が取り込んでしまったから。 アーネスの精神体と、始祖《マリスタ》の魔力だけが……不死の呪いと共に時を渡り歩き、時代に取り残されてしまった。 俺が憎んだマリスタは、何百年も昔に俺が俺の手で殺した。それで充分ではないのか? マリスタは最期にルネに諭され、獣人の本音を聞き、自らの過ちを詫びた。それで充分ではないか。 なのに俺は……俺、は……。 「獣人の意思を無視した行為を行うマリスタが憎いと思った。血が繋がらなくとも自分を愛してくれる兄を持ったアイセルが恨めしかった。姉のように慕っていたルネが俺から離れていく事が恐ろしかった。ただ、それだけだった」 俺の……未熟で愚かな俺の、一人足掻き。 頬の傷を指先で拭い、レニーは付着した血を舐める。 「もう終わり?」 俺の育て上げた白き悪魔。ただ一時《いっとき》の感情に流され、壊してしまった一人の男の人生。何度詫びても、許されぬ過ち。 「アーネス……アイセル……カルザス……レニー……誰でもいい。俺を救ってくれ」 俺は自分で思っていた以上に、脆く軟弱な男だったらしい。 侮蔑を含んだまなざしで俺を見下ろし、レニーが冷笑を浮かべる。これは奴の偽りの姿だ。俺が植え付けた別の人格だ。俺が犯した罪によって、壊してしまった者なのだ。 「レニー、もう偽らなくていい。戻れ」 すっとつま先を引き、身を屈めて体勢を低くするレニー。体術は奴の最も得意とする戦闘スタイルだ。俺に向けられているのは純粋な殺意だけ。 レニーには俺やアーネス、エルスラディアの記憶はない。アイセルは魔導師ではなかったのだから、転生したとしても、前世の記憶が無くて当然なのだが。 奴に殺されてやる事も良いかもしれん。アーネスはそれでもお前を受け入れてくれる。器の大きなカルザスも受け止めてやれるだろう。アーネスもろとも俺を殺すがいい。それでようやく終わる。 俺の……魔導師の始祖としての悪夢が終わる。 俺が長く息を吐き出した瞬間、レニーの鋭い掌打が放たれてきた。無意識にそれを交わす俺。同時にその腕を肘で跳ね上げていた。 「……っ!」 俺が跳ね上げた方とは逆の手が、俺の横面を殴りつけてくる。一瞬視界が振れ、よろめいた俺に容赦の無い膝蹴りが浴びせられる。 レニーの体術の直撃を食らってしまったのは、安易に奴を奴の間合いに入れてしまった俺の判断ミスだ。いや俺はこれを望んでいたのだからミスではない。 「どうせみんな死ぬんだ……」 レニーがぽつりと呟く。 「シーアも、神父も、おれも、あんたも!」 駄目だ! レニーの手をこれ以上汚させてはならない! 俺を殺せば、奴は本当の意味で発狂してしまう。レニーの人生を壊してしまった俺の償いは、レニーを元の姿に戻す事なのだ。それが俺の償いであり、義務なのだ! 俺はとっさに短剣を引き抜いていた。カルザスがレニーから没収したあの短剣だ。 むろん奴を殺すためではない。レニーを正すためには、俺は我が身を守らなくてはならないのだ。 「クククッ……あはははっ!」 狂気に彩られ、焦点の定まらない瞳で、レニーは何の躊躇もなく俺に突進してきた。 「目を覚ませ! レニー!」 地を蹴り、全体重を乗せたレニーの肘打ちが真っ直ぐ俺に迫ってくる。クッ……俺では避けきれん! 「呪縛!」 俺が魔法を解き放った刹那、足元の床の感覚が不安定となった。先ほど俺が放った衝撃波の影響で、バルコニー自体の耐久度が著しく劣化していたらしい。 俺の手、短剣を握る手には鈍い衝撃が走る。それはレニーの胸部を貫いていたためだ。バランスを崩していたせいか、短剣の刃先は横を向いていた。厚みのない刃は肋骨の隙間を縫い、レニーの体内に深く潜り込んでいる。 傷みのせいか、衝撃のせいか、レニーはすうっと目を細め、口元を綻ばせる。白き悪魔としてではなく、レニー本来の人格が戻ったらしい。 「……同じだ……」 同じ……ああ、同じだな。だが“同じ”にはさせん。 俺の足元から、床板の感覚が完全に消えた。崩れる瓦礫に飲まれ、俺の視界から地の底へと消えるレニー。その後を追い、俺も思い切り手を伸ばして地の底へと跳んだ。 |
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