賃貸魔王城

茨と毒の沼地に囲まれた、漆黒の魔王城──そこに魔王はいなかった……!
一話完結型の、短編連作。
ブラックユーモア溢れるハイテンションギャグファンタジー開幕!

「すみません大家さん! 今月の家賃あと一週間待ってください!」
「パンと魔王様? パンを選ぶに決まっているじゃありませんか」
「魔王自ら勇者を接待してどうするよ!? アアッ!?」


 シャキシャキのりんごをサイコロ状に細かく刻み、生地へふんだんに練りこんだふわふわのりんごパンサラダに、特製イースト菌ドレッシングがたっぷり掛けられている。メインディッシュは高級ステーキ肉の焼き汁を、汁だく限界まで“染み込ませた”極厚トースト。スープ皿には汁気を全て吸い切ってしまった大きめクルトンがぼってりと転がっている。そしてバスケットに山盛りいっぱいの甘食《あましょく》とカンパン。ちなみに飲み物は一切用意されていない。
 パンづくしの、今夜のグレゴリーの夕食だった。
「わぁい! ドロシーちゃんの特製手作りパンフルコースだぁ!」
「腕に寄りをかけてパンを焼きましたの。さぁさ、グレゴリー様、どうぞお召し上がりください。ちなみに全て人肌に温めておきました」
 ドロシーが食事を作るといつもパンづくしになる。パンしか作れないとも言う。そして必ず人肌の生ぬるさになる──ある人種には最高のご褒美です。本当にありがとうございます。
 常人なら嫌がらせだとしか思えない所業だが、グレゴリーにはそうと感じる感性が欠落している。つまり──鈍感。
「どれも美味しそう。見てるだけで口の中の水分、全部持ってかれちゃいそうだよ」
「お褒めいただき、光栄ですわ」
 ドロシーはペコリと頭を下げながら、魔ハムスター・ケルベロス君の前に、皿に乗せた生肉を置く。ケルベロス君は嬉しそうに血の滴る新鮮な生肉に食らい付いた。
「ドロシーちゃんも一緒に食べる?」
「いえ、私はグレゴリー様のお食事を作る過程で出た高級ステーキとクルトンを入れる前のスープをつまみ食いいたしましたので、結構ですわ」
 ドロシーはさらりとグレゴリーの誘いをかわす。
「なんだぁ。また今度一緒に食べようね」
「ええ、またいずれ」
 巧みに言葉をすり替え、一番美味しい部分を掠め取られている事に、グレゴリーは気付いていない。つまり──鈍感。(二度目)
「じゃあさっそく、イタダキマース」
 両手をパチンと合わせ、グレゴリーは食事を開始しようと、バスケットの甘食に手を伸ばした──刹那。
 カラコロカラコロと、広間の天井付近に吊り下げられた鳴子が激しく打ち合い鳴り響く。グレゴリーとドロシーの表情が一気に険しくなった。
「侵入者ですわね。勇者でしょうか?」
「う、うん……」
 グレゴリーは眉根を寄せ、唇を噛む。その様子にドロシーは首を傾げた。
「どうされました、グレゴリー様? 何かお気に病む事でも?」
「うん。今、勇者の相手してたら……」
 ドロシーはグレゴリーの言わんとしている事に気付き、ハッと息を飲んだ。

「晩ごパンが冷めちゃう」
「また人肌に温め直すのは大変ですわ!」

 侵入者よりパンが冷めてしまう事の方が重要な大魔王と秘書だった。
「やむを得ません。緊急事態としまして一旦全て私が保温して人肌の温かさを保っておきますので、グレゴリー様はなさるべき事をご優先くださいまし」
 そう告げ、ドロシーはボンテージの胸元にバスケットの甘食を押し込もうとした。
 彼女のボンテージの中は異空間へ通じているのか、パンなら幾つでも収納できるのだ。パンのみなら。
 だがグレゴリーはドロシーの腕を掴んでふるふると首を振る。
「待ってドロシーちゃん! ドロシーちゃんのパンは冷めても美味しいから、ぼくそのままでも……」
「グレゴリー様、なんとお優しいお言葉……」
 見つめ合うグレゴリーとドロシー。王と臣下の愛が芽生えるか──というまさにその時。風を切る音が二人に近付いてきた。
 スパコーン! と、グレゴリーの頭にハリセンがスマッシュヒットし、ドロシーは素早くそのハリセン攻撃を、モンブランデニッシュの空気層とパリパリパン層の弾力を最大限に有効利用して受け止めた。
「チッ、まだドロシーにかわされたか!」
「私に一撃食らわせようなんて、百年早ようございますわ、魔王様」
 ドロシーは目を細め、フッと勝ち誇った笑みを口元に浮かべる。その隣で、グレゴリーは両手をポンと叩いて笑顔になった。
「あ、田中君。こんばんはー」

「だから俺をその名前で呼ぶなァァァッッッ!!」

 この漆黒の城を不動産屋に空け渡し、南国に引っ越した魔王──田中武志の来訪だった。

     ◇◆◇

「おう! 今、それどころじゃねぇんだ!」
 田中はハリセンをパシンパシンと腿に打ち付けながらグレゴリーに詰め寄る。
「世界侵略の下見途中で、お前に挨拶がてら寄ったんだけどよ。城のロビーで人間の気配がしたぜ! 勇者が攻めてきたんじゃねぇのか?」
「先ほど鳴子が鳴りましたので、侵入者の確認はできております」
「だったらなんで悠長にメシ食ってんだよ!」
 グレゴリーとドロシーは一瞬目配せし合い、同時に答えた。

「「パンが冷めちゃうから」」

 田中のハリセンがグレゴリーの顔面にヒットし、盛大にして派手な打撃音が大広間に響き渡った。

「パンが冷めるじゃねぇだろが! あっちはこっちの首獲りに来てやがんだぞ! 命狙われてんだぞ! とっとと戦う準備しやがれ!」
「えー……ドロシーちゃんのパンがー……」
 グレゴリーは指を咥えて、ちゃぶ台のパン料理を名残惜しそうに見つめる。彼の様子に、ドロシーは膝に手を当ててゆっくりと立ち上がった。
「致し方ございません。私が行ってまいりましょう。グレゴリー様はそのままお食事を召し上がっていてくださいまし」
 田中はハリセンを肩に担いで、ドロシーの方へ顔を向ける。
「おう。オメェも臣下らしく、ここに勇者が到達するまでの時間稼ぎだな。よっしゃ、筋トレついでに俺も手伝ってやろう」
「いえ、魔王様は結構でございます」
 ドロシーは冷ややかな視線を田中に向ける。
「魔王様は私の用意した罠に引っかかって邪魔になるだけですので」
「アァッ!? 俺が邪魔だと! 俺は魔王だぞ!」
 ゴロツキかチンピラのように凄むが、ドロシーは顔色一つ変えない。
「田中君、ドロシーちゃんの言うとおりにした方がいいよ。ぼくもこないだ、ドロシーちゃんの罠に引っかかっちゃって。ドロシーちゃんって罠隠すのすごく上手だから」
「テメェは目の前にわざとぶら下げたハエ捕り紙に自分から突っ込むような間抜けだろうが! 俺とテメェを一緒にすんな!」

「酷いなぁ! ハエ捕り紙じゃなくて、ぼくが引っかかったのはゴキブリコイコイだよ!」
「もっと酷いわッ!」

 田中は再びハリセンを翻し、グレゴリーの頭を正確に叩き倒した。

「私の罠を掻い潜れる自信がおありでしたらどうぞご自由に。ではグレゴリー様、行ってまいります」
 嘲笑を浮かべ、ドロシーは背中の羽根を優雅にひと羽ばたきさせてから広間を出て行った。
「ンなろ……ドロシーの奴、この俺様をナメてやがるな! 見てろ、奴より先に、この俺様が侵入者を叩き潰してやる!」
「田中君も頑張ってね」
 グレゴリーは魔ハムスターのケルベロス君を肩に乗せ、にこにこしながら手を振った。田中は鼻息荒く、肩を怒らせて広間を出ようとしたところ、突然引き返してきたドロシーと正面衝突した。
「ぐえっ!」
「グレゴリー様グレゴリー様! 大変です大変です大変です!」
「ドロシーてめぇっ! 俺の腹の上からどいてから喚けーッ!」
 ドロシーは田中の腹の上で、優れたバランス感覚を披露するかのように直立不動のまま、言うまでもなくピンヒールの鋭利な先端を田中の腹にわざと食い込ませつつ、普段の冷静な彼女の姿からは考えられないほど狼狽している。
「どうしたの、ドロシーちゃん? 随分帰りが早いけど」
「大変ですわ、グレゴリー様! 侵入者が!」
 田中はドロシーを蹴り落として腹部を押えて蹲る。ドロシーはうぐいすアンパンによって巨乳となった胸元を押さえ、数回深呼吸した。
「侵入者が勇者ではございませんでした!」
「何だと! 勇者でないなら何者だ、そいつ! 魔王城に侵入してくるくらいだから、相当の手練れか名のある騎士なのか?」
 田中は額に一筋の汗を滲ませ、ドロシーの言葉を待つ。呑気なグレゴリーも珍しく神妙にドロシーの報告を待った。
 ドロシーは両手を胸の前で組み合わせ──パァッと晴れやかな笑顔になる。

「読書に夢中になっている少年でした! 読書に夢中になりすぎて、きっと自分のいる場所も理解せずに侵入してきたと思われます!」

 体格のよい田中がよろめいたので、グレゴリーはケルベロス君と共に一歩飛びのいて避難する。
「ほら、よくいるじゃありませんか。学校の図書室で借りてきた、ちょっと性的描写のある保健体育の学習教本を、妄想力をフルに働かせてじっくりねっとり歩き読みしていて、そのまま前方不注意で電柱にぶつかって一人で恥ずかしくなってキョロキョロしている子。そういうタイプでしたわ!」
「随分具体的な例えだな、おい!」
 痛む腹部を擦りながら、田中は思わずツッこむ。
 ケルベロス君の小さな頭を指先で撫でながら、グレゴリーは小さく首を傾げる。
「それでその子は追い出してきた? 一応魔王城だし、ここ。普通の人が入っちゃダメでしょ」
 グレゴリーの言葉はもっともだ。一般市民がおいそれと自由に出入りしていい場所ではない。
「いえ。そのままにしてまいりました」
「なんでとっとと始末しねぇ? 人間のガキなんざ、サキュバスごときでも一捻りだろうが」
 訝しげな田中を尻目に、ドロシーがブロンドの巻き毛を揺らして最高にいい笑顔を浮かべた。

「私好みの美少年でしたから!」

 さすがのグレゴリーも田中と共にずっこけた。見事なヨシ●ト流の大コケだった。

     ◇◆◇

 田中のハリセンが、ちゃぶ台にバナナの叩き売りのごとく何度も打ちつけられる。
「だーかーら! なんでみすみす人間のガキの侵入を許してやがるんだ! 魔王城だぞ、ここ!」
「私好みの美少年だからですわ」
 憮然とした様子で答えるドロシー。
「テメェの好み云々は関係ねぇんだよ! 天下の魔王城に易々侵入してくるくらいだ。成長すればそいつは勇者になっちまうかもしれねぇ。災いの火種は若い芽の内に摘み取っておくのが、魔族の美学ってもんだぜ」
「彼に手出しはさせませんわ。彼にもしもの事があったら私、魔王様を殺してケルベロス君と一緒に焼く前の発酵途中のパン生地へ沈めますわよ!」
「田中君酷いよ! ケルベロス君には何の罪もないのに道連れにするなんて!」
「酷いのはドロシーだろうがッ! つか、ネズミ関係ねぇし! ネズミが死のうが生きようが、俺の知ったこっちゃねぇよ!」
 田中がちゃぶ台に拳を叩きつける。その様子を見て、グレゴリーが眉を顰めた。
「ハリセンだの拳だの、あらゆるところを叩き過ぎだよ、田中君。もしどこか壊れたら退室の時に敷金が戻ってこな……」

「大魔王が借家の敷金程度のはした金の心配するなァァァッッッ!! みみっちいわ!」

 グレゴリーは指を咥えてしょぼんと肩を落とす。
「だって大家さん怖いし」
「大家怖いじゃねぇよ! なんだったら大家もサックリと殺っちまえよ! そしたらこの魔王城は賃料考えなくともテメェのもんだろうが!」

「無理無理無理無理無理ぃぃぃっっっ! 大家さん怖いぃぃぃッッッ!!」

 グレゴリーがあらん限りの悲壮な声で叫び、顔面蒼白になってガクガクブルブルと震え始めた。
「……ドロシー。ここの大家って何者? 大魔王も恐れるほどの猛者なのか? もしかして大家も勇者とか?」
「実は私もお会いした事がございません。家賃集金の際、なぜかいつもタイミングが合わなくて」
 ガクガクと両腕を擦りながら全身を震わせているグレゴリーを見て、田中はポリポリと頭を掻いた。
「とにかくだ。今は魔王城に侵入したガキの排除か抹殺。それが最優せ……」
 彼の喉元に、鋭く斜め切りされた固焼きベーコンエピが食い込む。根本を掴んでいるのは言わずもがな、ドロシーだ。
 ドロシーは笑顔のまま、ブロンドの巻き毛をもう片方の指先でクルクルと捻っていた。
「彼は無事に帰してあげるのです。よろしいですわね、魔・王・様?」
「……ゆ、友好的にお帰りいただく、だな。よ、よし、分かった。とりあえずその尖ったパン下げろ。な?」
 喉に食い込むベーコンエピの切っ先の痛みに、田中はあっさり折れた。
 彼女が「やる」と言えば、たとえ獲物がきな粉揚げパンだとしても、確実に──殺られる。南の魔王は大魔王の秘書の、下級魔族であるはずのサキュバスに言い知れぬ恐怖を抱いた。
「じゃあ、罠に引っかからないように、その子を誘導してあげないと」
「ハッ! そうでしたわ! このまま魔王城に留まれば、彼の身がが危険に晒されますわ!」
 ドロシーがすっくと立ち上がる。グレゴリーも続いて立ち上がった。
「じゃあ、見た目が一番普通のぼくがその子に声をかけて、ここは危ないから早く帰るように……」
「いけません、グレゴリー様。彼は読書に夢中。その読書を邪魔するなんて、もっての他。彼の読書の障害となるものは、何者であっても私が全力で排除、あるいは骨も残さずパン焼き窯で焼き殺します。焦げ目キツめで」
「焦げ目云々以前に、骨まで残さずって言ったばかりじゃねぇか! 矛盾だらけのテメェの言動に責任持て!」
 田中のツッコミを華麗にスルーし、ドロシーはずいとグレゴリーに詰め寄る。
「もうパン、作ってあげませんよ?」
「それは困る! ぼくドロシーちゃんに従う!」
 あっさりとパンで懐柔される大魔王だった。
「おいドロシー。なんで人間のガキごときにそこまで気を使ってやらなきゃならねぇんだ? 魔王城に入り込んだガキの方が馬鹿なんだろ。どうしても生かして帰すってなら、適当に帰り道教えて早々に追い出せばいいじゃねぇか」
「彼が私の好みの美少年だからです」
「答えになってねぇ!」
 ドロシーの瞳がキラリと光った。

「一秒でも長く彼を影からこっそりねっとりじっくり生暖かく見つめる事も、魔族として大切なお勤めかと!」
「それはテメェだけだ!!」

 ハリセンを振り上げようとした田中だが、ドロシーは素早くそれをチーズ蒸しパンに食い込ませて奪い取った。
「魔王様。今後一切ハリセン禁止です。もし彼に怪我でもさせたら、ベヒーモスすら二秒で殺せる猛毒入りのチョココロネを顔中の穴という穴に突っ込ませていただきますので」
 満面の笑顔のドロシーだが、目は全く笑っていなかった。彼女が「やる」と言えば、たとえベジタブルキッシュが獲物だとしても──以下略。

「ハリセンで死ぬか! つか、こんなモンで怪我するか!」
「心に傷を負いますわ!」
 手にしたハリセンを指差し叫ぶ田中。ドロシーはうぐいすあんパンで巨乳となった立派な胸を誇らしげに突き上げて反論する。
「ああ言えばこう言う、こう言えばそう言う、逐一反論かまして、テメェは反抗期のガキかッ!?」

「魔王様やグレゴリー様を完璧なる理論武装で挑発、屈服させる事こそ、私の至上の悦びであるだけですわ! ああ、感動のエクスタシーで骨の髄が震えてまいります」

 うぐいすアンパンを詰めた巨乳をこれ見よがしに見せつけ、ドロシーはここぞとばかりに、最上級の侮蔑と嘲笑を含んだドヤ顔したり顔でキッパリ言い切った。
「帰れ!! 魔界に帰れ!!」
「ドロシーちゃんはしっかり者だなぁ。ぼくも鼻が高いや」
「バカにされてんだよ! 魔族の頂点である大魔王のテメェが、下級魔族に小バカにされてんだよ! 気付けよ、いい加減に!!」
 もはや田中のツッコミは涙交じり。心が折れるのは時間の問題だった。

「ハッ、こんな事をしている暇はございませんわ! 一刻も早く、彼を救出に向かいませんと!」
「あー。ぼくも行くー! ケルベロス君も一緒に行こうね」
 ドロシーを先頭に、グレゴリーと田中は、魔王城に入り込んだという少年を探して大広間を出た。

     ◇◆◇

 ひんやりとした石造りの柱の影から、田中、ドロシー、グレゴリーの順で、目的の少年の様子を覗き見る。
 通路には松明に見せかけた自動点灯式の照明が等間隔に設置されており、遠目にも少年の様子を伺うには充分な光量を湛えている。
「ランドセルだねぇ」
「……お約束すぎる……」
「あぁ……やはりなんて私好みの美少年……あのお顔を見ているだけで、私、四枚切り食パン十枚は軽くイケますわ。あ、でも軽くトーストしてくださいませ。あと蜂蜜もたっぷりとお願いしますわ。メープルシロップは不可でお願いいたしますね」
 三者三様の感想を口にし、学校のグラウンドで、コーナーで差を付けるという謳い文句で売り出されているスニーカーを履いた少年が、食い入るように歩き読書をしている。

「ドロシー、お前ショタ属性か?」
「まぁ、部下の女性にそんな事を聞くなんてセクハラですわよ。そうですわね……あえて言うなれば、下は一歳から上は九十九歳まで限定です。百歳はアウトですね」
「ストライクゾーン広いな、おい!」
 淫魔であるサキュバス相手に、年齢制限や属性を付ける方がそもそも間違っている。
「若々しく瑞々しい肌の美少年も、今にもポックリ逝きそうな皺クシャのボケ美老人も、一段高い所から見下ろしていると心躍りませんこと?」
「美老人ってなんだ、美老人って! しかもボケ付いてるし! お前は介護士か!? つか、女王気取りもおかしいだろうが!」
「シッ! 騒ぐと彼に気付かれてしまいますわ」
 ドロシーはピンヒールを勢いよく踏み降ろし、田中の足をビーチサンダルごと踏み抜いた。声もなく悶絶して転げまわる田中。

 その時、少年の足が通路の石畳みの一部をカチリと踏み抜いた。
「いけません! あれは落とし穴のスイッチ!」
 ドロシーはどこから取り出したのか、超ロングのバケット三本を、シュッと彼の足元に投げる。カパッと開いた落とし穴には、見事バケット三本による橋が出来ていた。
 少年は足許の異変に一切気付かないまま、無事バケットの橋を渡り切った。
「ふぅ……危ない所でしたわ。さすがは私のバケット。三日経ったものは鋼鉄のごとき固さになりますわね」
「ドロシーちゃん。あんな長いパン、どこに持ってたの?」

「いつも胸に入れておりますが、それが何か?」

 グレゴリーの疑問に、ドロシーは事も何気に回答する。彼女のボンテージに不思議な凹凸は無い。やはり彼女のボンテージには魔界特製の、異次元に通じる魔法が施されているようだ。
 フフと微笑みを浮かべていた彼女だが、すぐに表情を固くする。
「いけません! あの通路の先には、真横から無数の槍が飛び出す仕掛けが!」
 駆け出すドロシーに続いてグレゴリーたちも彼女を追う。そして。
「グレゴリー様、魔王様。これを」
 と、ドロシーは胸元から取り出した大量のベーグルを手渡す。やはりこれだけの量のベーグルが収まっていたようには見えないボンテージだ。
「何これ? 食べていいの?」
「彼に気付かれる前に、槍の穴をこれで全て塞いでください。私のベーグルの固さなら、槍の突出力は充分防げますわ」
「パンで槍が防げるって……それ、威力面で相当問題ありなんじゃねぇか?」
 槍の威力に問題はない。ドロシーのパンが特殊なだけである。
「グレゴリー様、魔王様。無駄口叩いている暇があるなら、さっさとやる! でないと顔中の穴に猛毒チョココロネですわよ! それとも座薬の代わりに、激辛カレーをたっぷり絡ませたナンを押し込まれる方がお好みですか? ご所望でしたら辛さを瞬間昇天レベルにいたしますが? はっきり申し上げますが、腫れ爛れますわよ……穴が」
 ドロシーに脅され、田中はやや慌てて通路を先回りし、槍の穴にベーグルを詰め込み始めた。グレゴリーも──うっかり攻撃射程に入って飛び出してきた槍に眉間を貫かれながらも、穴にベーグルを詰める作業を黙々と続ける。
 腐ってもモブ顔でも大魔王。眉間に槍が刺さっていようと、ダメージはほとんど通っていない。
 ──本気で痛いだけだ。
「あっ……」
 ドロシーが振り向いて声をあげる。田中がベーグル詰め作業を続けながら彼女の方を見やると、視線の先には少年の後ろ姿。
「別の通路に行ってしまいましたわ」
「なっ……無駄な作業かよ、これ!」
 ベーグルを足許に投げ捨て、彼は地団駄を踏む。
「でも大変です! あちらの通路にはもっと凶悪な罠が!」
「何の罠だよ!」
 グレゴリーがトントンと田中の肩を叩く。そして自分を指差した。

「ぼくが引っ掛かった、ゴキブリコイコイ」

「お前も魔界に帰れーッ!! 魔界の神殿の奥で永遠に封印されてろ! むしろ頼むから帰れ!! 魔界に帰って、これ以上人間界で恥晒さずおとなしくしてろッ!!」
 すっと、ドロシーが片手を水平に持ち上げた。その手には──パリッと黄金色に焼き上がった美味しそうなクロワッサンが。
「魔界で制作されたゴキブリコイコイを侮ってはなりません、魔王様。通称 “魔界ゴキコイ” は、屈強怪力の巨漢のトロールすら、強力無比な粘着力で以って吸着し、逃げる事すら叶わず滅してしまう……粘着殺害、いわゆる“|粘殺《ねんさつ》”ができるほど恐ろしい威力なのです!」

「粘殺ってなんだ、粘殺って!! そんなネーミングも殺害方法も初めて聞いたわッ!!」

 ドロシーはクロワッサン片手に、ピンヒールをコツコツ鳴らして歩き始める。
「かくなる上は致し方ございません。彼の読書を中断させてしまうのは大変心苦しゅうございますが、これも彼の身の安全のため。このクロワッサンをブーメラン替わりに投げて彼の注意を惹き、その隙に魔界ゴキコイには予め、魔王様を吸着させる他ございません」
 真顔で田中の腕を鷲掴みにするドロシー。
「なんで俺ッ!?」
「ジャージ生地は伸縮性に富むストレッチ繊維の特製上、ゴキコイの糊にくっ付きづらいからですわ」
「ぼくジャージで良かったぁ」
 グレゴリーは掌に乗せたケルベロス君と、災難を逃れた喜びを分かち合った。
「良かねぇよ、俺は!」
「恨むのなら、綿百パーセントのアロハシャツで来訪したご自身を恨む事ですわ! せいっ!」
「あーっ! 心の準備が!」
 ドロシーの投げたクロワッサンが、ヒュンヒュンと空を切って少年に迫る!

「……あっ、靴紐ほどけた」
 少年は本を床に置き、片膝をついて靴紐を結び直した。少年の頭上をクロワッサンが飛んでゆき、通路の先の闇に消えた。
 その様子に、ドロシーは舌打ちして指を鳴す。
「チッ……私のクロワッサンブーメランをかわすとは、侮れませんわね……彼……」
「お前好みの美少年じゃなかったのかよ! 今のセリフは抹殺失敗した暗殺者のセリフだぞ!」
 背後のやりとりに気付く様子もなく、少年は再び本を手にして歩き出した。

「ねぇ、ドロシーちゃん」
「なんでしょう、グレゴリー様?」
 グレゴリーは指をこめかみに当て、小さく首を傾げる。

「この先の魔界ゴキコイって、こないだぼくが引っ掛かったから、撤去したんじゃなかったっけ?」

「……あ……」
 グレゴリーの指摘によって、真っ白に石化硬直したドロシーが我に返るまで、たっぷり十五分はかかった。

     ◇◆◇

 数々の罠をドロシーの機転と──田中の多大なる犠牲によって掻い潜らせ、少年を魔王城の正面玄関へ向かわせる。読書をさせたまま。
「ド、ドロシー……あと、幾つ罠があるんだ?」
 ことごとく罠の餌食にされ、身も心もボロボロになった田中が、ハリセンを杖にしながらゼェゼェと声を絞り出す。
 魔王の命、風前の灯。あと通常攻撃一ターンで倒せます。チャンスターン! ラッキーイニング!
「あとは正面玄関を出るだけですわ。もう罠は全て通り過ぎました。彼の命は守られましたの」
 ドロシーは満足気な笑顔で、ブロンドの巻き毛を指先に巻き付ける。
「あの子が帰ったら、やっと晩ご飯にあり付けるよ。ケルベロス君もおなかペコペコだって」
 魔ハムスターのケルベロス君は、空腹を紛らわせるためにグレゴリーの腕に噛み付いている。ジャージは血で濡れそぼっており、そろそろ床に滴りそうになっている。
「出口を出るまで見送ったら、大広間に戻ってパンを人肌に温め直しますわ」
「うん。お願い、ドロシーちゃん」
「先に輸血してやれよ……」
 もはや田中のツッコミに覇気はない。

 ドロシーが生暖かい目で見送る少年は、ようやく本を読み終えたのか、満足そうに表紙をパタンと閉じた。その時──。
 ギギギィと、重く大きな正面扉が開く。
「来客? 今度こそ勇者か?」
 田中が目を凝らすと、細く開いた扉の隙間から、見慣れぬ老婦人が現れた。とても勇者とは思えない。
「ヒィッ!」
 田中の隣でグレゴリーが一瞬にして青褪める。いや、ケルベロス君によって少々食われていたので、元々血の気が失せた顔色だったものを、更に青白くしているのだ。
 少年は老婦人に気付き──満面の笑顔で手を大きく振った。

「あ! おばあちゃん、ただいま!」

「まぁ……彼はあの人間の孫でしたの? でも似てな……あら、グレゴリー様?」
 戸惑うドロシーの脇を擦り抜け、グレゴリーは全力で老婦人の前に飛び出した。ケルベロス君は振り落とされまいと、グレゴリーのダイナミックでアクロバティックな寝癖頭に必死にしがみ付いている。
 そして彼は──無駄に洗練された無駄のない無駄な動きでエクストリーム三回転半スライディング土下座を決め、声の限りに叫んでいた。

「すいません大家さんんんッ! 今月の家賃、あと半日だけ待ってくださいいいぃぃぃッッッ!」

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