風薫る君

大好きな両親と家を失った幼い深咲を救ったのは、
銀の瞳を持つ美麗の双子の“きょうだい”だった。
妖が跋扈する緋ノ国に、疾風が舞う。迅雷が弾ける。

「……必ず、迎えに行ってあげるから」


   風薫る君

     一

 明日、御國さんが手配してくれたお船で、西の大陸に渡るの。
 だから今夜一晩だけ、久しぶりにお父さんと一緒に過ごした。一緒にご飯を食べて、手を繋いで月夜をお散歩して、いっぱいお話して、いっぱい撫でてもらって、いっぱい甘えて……抱っこしてもらいながら一緒に寝たのに、朝になったらお父さんはいなくなっていた。何も言わず、いなくなっていた。
 ……行っちゃったんだ……。
 あたしの枕元に一本の桜の枝が置いてあって、その桜はあたしの育ったお山に咲く桜の枝だった。ずっと小さいころから見てきた桜だから、あたしには見分けられるの。
 もうそんな季節なんだ。きっと今、あのお山は全部、きれいな桜色に染まっている。あたしがもうちょっと小さいころ、お父さんとお母さんと三人で、山を降りて里のお祭りに行ったのも、この季節だったわ。そしてこの櫛を買ってもらったの。
 桜の枝を握り締め、あたしは無理やり笑顔を作ってみせる。誰も見てないけど、笑ってなくちゃ、お父さんが心配しちゃう。
 お父さんは言ったもの。あたしにはずっと笑顔でいてほしいって。だからあたしは、お父さんとの新しい約束を守るの。
「大丈夫。泣かないから。いっぱいいろんなものを見て、聞いて、きっと帰ってくるから。そしたらまたいっぱいお話しようね、お父さん。お母さんにも聞かせてあげるから」
 大好きな、大好きな、お父さんとお母さん。ちょっとだけ、行ってくるね。

 納戸の戸が開いて、宙夜が目を細めて立っていた。
「親父さん、行っちゃったのか?」
「うん。でもちょっとの間、会えないだけだから。平気だよ」
 あたしが笑うと、宙夜も笑った。
「深咲さん……その手の……?」
 宙夜の後ろで、眞昼が訝しげにあたしの手の桜を見ている。
「お父さんが置いていってくれたの。あたしの住んでたお山ね。今、すごく桜がきれいなんだよ。毎年この季節になったら、お父さんとお母さんとあたしと三人で、おにぎりいっぱい作って、満開の桜を見に行ってたの。すごくきれいなんだから。いつかまたこの国に帰ってきたら、宙夜と眞昼にも、桜色のお山が一番きれいに見える場所、教えてあげるね。あ、おにぎりもいっぱい作らないとね! 御國さんも一緒に、みんなで桜、見に行こうね。本当にすごくきれいだから!」
「そう、ですか。それほど仰るなら、さぞかし素晴らしい眺めだったのでしょうね」
 お山の桜の話を聞いて、ちょっとホッとしたような眞昼。
 ……あ、そっか! 桜の枝で、園桜さんのことを思い出したんだわ。あの時の園桜さん、“桜は好きですか”って、眞昼に桜の枝を差し出してたから。眞昼を試すために、注意を桜に向けさせて。
 ……ん、と……。
 あたしはちょっと迷って、桜の枝を外へと投げ捨てた。眞昼が驚いたように目を見開く。
「えへへ。桜ってすぐ枯れちゃうから、持って行ってもごみになっちゃうでしょ。あたしにはこの櫛があるからいいの」
 そう言うと、眞昼が頬を染めて、なんだか感極まったみたいな顔になって、唐突にあたしに爪より、ぐいって抱き締めてきた。わっ、わっ?
「ああ、もうっ! 本当に許せませんね。耐えられません」
「……眞昼。何してんだよ、お前?」
 宙夜が呆れたように問い掛ける。見てないで助けてよぅ! 眞昼、思いっ切りぎゅーって、すごく苦しいよ!

「だって深咲さんは、とてつもなく愛らしいじゃありませんか! 健気で! 純粋で! やることなす事、ただそこにいるだけで! ああ。わたし、もう無理です。見て見ぬふりなど、金輪際やめます。愛でて愛でて、愛で倒しますから!」

 ……はい?
 眞昼は今まで見たこともないくらい、だらんと思いっ切り頬を緩ませて、あたしの頭を撫でくりまわしている。あの……ちょっと……眞昼が、違う意味で、怖い……。
 笑うっていうより……締まりなくニヤけてる?
「わたしがこの体である限り、可愛らしい着物も可愛らしい髪飾りも付けられません。だから深咲さんを、わたし好みにもっと可愛くして差し上げます」
「……はぁ……やっぱりなぁ……深咲は絶対、お前好みだと思ったんだよ。眞昼のツボ嵌まってるだろうなーって。今までいじめた分、せいぜいたっぷり溺愛してやれよ」
「あなたに言われずとも、もう遠慮などしません。わたしの気の済むまで愛でます」
 宙夜が両手を広げて苦笑している。眞昼は頬擦りしそうな勢いで、あたしの髪や頬を撫で回してくる。
「深咲さんは蝶が好きでしたよね? 構いません。あまりわたしの趣味ではありませんが、たまになら蝶のお着物も買ってあげます。でも普段はわたしの好きな、こぼれ梅のお着物を着てくださいね。山吹色のトンボ玉の簪もきっと似合いますよ。あとはべっ甲の透かしの櫛や、鹿の子絞りの髪留めもきっと愛らしいです。それから……」
「ちょ、ちょっと待って! 待って眞昼! そんなに一度にたくさんは……」
 慌ててあたしが口を挟もうとすると、眞昼はぴっとあたしの唇に指を当てて首を振った。
「はっきり申しますが、深咲さんの意見は別段、必要ありません。むしろ余計な口出しは必要ありません。とびきり可愛らしくして差し上げますから、わたしに一任すれば結構です。安心なさい、何の問題もありません。ふふふ、楽しみですね」
 え、ええっ! なんなの、これ?
 まるで手の平をひっくり返したみたいに、いつもの不機嫌そうなしかめっ面とは真逆の、すっごい楽しそうな満面の笑みで、大陸に渡ったらまずあたしに何を着せるとか、どんな髪かざり付けるとか、一人で想像しては、いちいちきゃあきゃあ喜び悶えて、ぶつぶつ独り言を繰り返す眞昼。そしてあたしの抗議はぴしゃりと拒否されて……。
 あまりの態度の急変に、あたしは縋るように宙夜を見る。だけど宙夜は笑うのを堪えるように、唇を真一文字に引き結んで首を振っていた。
「あのな、深咲。こいつ、普段はツンケンして隠してっけど、実は人だろうが物だろうが、可愛いものに目がねぇ、とんでもない乙女趣味だから。深咲の容姿も、何にでも一生懸命な健気な性格も、完璧にこいつの好みに的中してっから。だから黙っておとなしく着せ替え人形にされてな。逆らったらますます身勝手に突っ走って激化して、あらゆる強行策に突入すっから。大丈夫、命までは取りゃしねぇよ。ただ……想像を絶するほど鬱陶しいだけだ」
 そっ……。
 あたしは言葉を飲み込んだ。遠いところを見るような宙夜の空虚な目。もしかして……宙夜もあれ着てこれ着てってされちゃったの? だって宙夜の体はもともと眞昼のものだったんだし。
 うう……想像に固くないよね……本当は男の人なのに宙夜可哀想。あ、今はあたしがその対象なんだよね。ぐすん……。
「さあ、深咲さん。宙夜もついでに。参りますよ」
「俺はついでかよ」
 上機嫌な眞昼にぐいぐい腕を引っ張られ、あたしたちは納屋を後にした。

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