風薫る君

大好きな両親と家を失った幼い深咲を救ったのは、
銀の瞳を持つ美麗の双子の“きょうだい”だった。
妖が跋扈する緋ノ国に、疾風が舞う。迅雷が弾ける。

「……必ず、迎えに行ってあげるから」


     四

 めちゃくちゃに走る。行き先は考えない。行き先なんてない。とにかく、御國さんのお店に戻っちゃいけないのは確か。
 どうなるか分からないけど、このまま……このままあたしは陽ノ都を出て行く! あたしには、それしかできないから。それしか浮かばなかったから。
 まだ小雨が降る都の通りを、懸命に走る。だけどすぐ後ろから足音が聞こえてきた。もう追い付かれちゃったの?
 迷っちゃうのは確実だけど、小路に飛び込む。そして入り組んだ細い道を、考えもせずにめちゃくちゃに走った。
「はっ……は……」
 だんだん息が上がってくる。だけどここで走るのをやめちゃダメ。少しでも遠くに。
 重くなってきた足を必死に動かして、あたしは顔を、袖でぐいと拭って曲がり角を曲がった。……途端、誰かに真正面からぶつかった。
「きゃっ!」
 転ぶ寸前、あたしはその人に抱き留められる。
「大丈夫! 僕は何もしないから!」
「園桜さんっ?」
「ちょっとごめんね!」
 園桜さんはあたしを担ぎ上げると、するすると縫うように細い道を進んだ。
 そして古い納屋の影で、あたしを下へ下ろした。園桜さんも息が切れているのか、胸を押さえて大きく肩を上下させている。
「……」
 あたしはぐっと唇を噛み締め、体を強張らせて一歩後退する。だけどあたしの背後は納屋の壁。園桜さんに追い詰められてる形。
 どうにかしないと、捕まっちゃう。捕まったら、きっとまた、ひどいことをされちゃう。
「話を聞いて。僕、本当に君に何もしないから」
 園桜さんは腰に差していた懐剣を抜き、あたしの足元へ放って両手を広げた。無抵抗だって、言いたいのかしら?
「手短に言うよ。正直、僕もまだ戸惑ってるけど」
 大きく深呼吸して、園桜さんは黒い瞳をじっとあたしに向けた。
「僕の父が君を捜していた。君を妖として、殺すつもりで」
「……っんう! ……聞こえて……た……園桜さん、話してるの」
 やっぱりそうなんだ。あたしはもう、陽ノ都にいられない。領主さまがあたしを狙ってる限り、絶対にここには留まれない。
「父には歳の離れた妹がいて、つまり僕の伯母だ。会った事は一度もないけど。伯母は人ならざる者に恋をして、家を勘当されたんだ。それが深咲ちゃんのお母さんとお父さんだよ」
 小雨が止む気配はない。月も見えない暗い夜だけど、でもあたしには園桜さんの顔がはっきり見えるの。きっと、妖の血のせい。
「雷を操る妖で、その名を雷切というそうだ。雷切については深咲ちゃんの方が詳しいよね? そして伯母だけど、彼女は君を身籠った事によって、我が家の血を穢したとされ、追われる身になった。陽ノ都を治める領主の血筋として、世間に知られてはならない、あってはならない事実を隠蔽するため、父は伯母と雷切、そして君を葬るために、妖狩りを始めたんだ」
 喉が張り付き、頭の中が痺れてくる。予想……通りだった。
「少し前に父は、とある山奥に隠れ住んでいた伯母と雷切を見つけ……殺したと聞いた。そして死の間際に、隙を突いて雷切が逃した子供の行方をずっと探していたんだ。父は妖を恐れているから」
 お父さんとお母さんが……死んだ……。
 今まで確証がなかったから、きっとお山であたしを待ってくれてるって信じてたけど……でも、今、その願いは……消えた。でも……やっぱりそうだったんだっていう、諦めの感情もあったの。
 お父さんが……約束を破ったことなんて、今まで一度もなかったから。迎えに行くって言ったお父さんは、いつまで待っても……迎えに来てくれなかったから。
「深咲ちゃん。父を恨む? ご両親の仇である父を憎んでる?」
 小雨に濡れて、首筋に貼り付いた髪を、震える指先で剥がす。
 お父さんとお母さんのこと、すごく悲しいよ? もう会えないの、すごく辛くて苦しい。だけどあたしの心は、自分でもびっくりするほど穏やかだったの。
 あたしは園桜さんを見上げ、ゆっくり首を振った。
「領主さまを恨んだって、お父さんたちは戻ってこない。生き返らない。誰かを恨んで憎むことは、すごく胸が苦しくなるの。誰かを責めることで、自分が楽になりたいとも思わない。他人を恨んだり憎んだりしても、お父さんたちは絶対に喜ばないから。あたしは……人を恨み憎むのが怖い。だってその人たちと同じ、ドロドロしたものを自分の中に抱え込むことになるでしょ? そんなことしたら、きっとすごく苦しくて辛くて、何もかもがイヤなものにしか見えなくなっちゃうと思うの。あたしはそんな人になりたくない。今までのあたしは、自分のことしか考えない、すごくイヤな子だったから、あたしは変わりたいの。だから……誰も恨まない。あるがままを受け入れたいの」
 宙夜たちに謝ろうって思った時から、ずっと考えていたことだった。これがあたしの出した結論だった。
 あたしは変わる。事実を受け入れて、その中から周囲の人たちに、自分に、一番いい答えを探して選んでいきたいの。
 園桜さんはじっとあたしを見つめている。考えてることは分からないけど……でも敵意は感じない。このまま……逃してもらえるかな?
「……深咲ちゃんは……僕が考えていた以上に利発な子なんだね。君はとても強くて輝いてる」
 褒められたの? あたしの緊張が少しほぐれる。
 園桜さんは……きちんと説明すれば理解してくれる人なのかしら?
「ねぇ深咲ちゃん。もう一つ聞いてもいい?」
 園桜さんが首を僅かに傾ける。
「……眞昼さんや宙夜さんは、君のなんなの? 彼らは……何者なの?」
 彼はまだ、眞昼に好意的な感情を持ってるのかもしれないわ。だってそうじゃなきゃ、わざわざこんなことを聞いてきたりしないよね?
「宙夜と眞昼は……あたしを、助けてくれた人……」
「……うん。その……彼らは……君と同じなの?」
 同じ……それって半妖かってことだよね?
 答えられない。なにも言えない。あたしのことならまだしも、あたしの口から、宙夜たちのことを言う訳にはいかないわ。だってあたしはもう、宙夜たちを落胆させたり裏切ったりしたくない。
「教えてほしい。だって君は……僕の従兄妹なんだよ? 僕は君を助けたい。だから君が身を寄せる彼らの事も知りたいんだ。知ればきっと、君の手助けができると思う。彼らの手助けをしたいんだ」
 言えない……言えないよ。園桜さんがあたしを助けたいって言っても、領主さまはあたしを認めてくれないもの。あたしを殺す以外のこと、絶対に考えてくれないもの。だってあの覆面をした男の人は、正体を晒したあたしを見て、迷わず“殺せ”って言った。
 領主さまの正統な後継者でない園桜さんじゃ、領主さまの考えや行動を抑えられない。そんな力、きっと園桜さんにはない。
 あたしは死にたくないし、あたしのことで宙夜たちをこれ以上困らせたくない。迷惑かけたくない。
「ねぇ、深咲ちゃん。教えて。眞昼さんたちは……何者なの?」

「……妖、ですよ」

 園桜さんの首筋に、雨水の滴る棍の先が押し当てられた。棍を持ってるのは……眞昼!
「眞昼、さん……」
 濡れた長い髪を片手で掻き上げ、銀色に輝く左目を園桜さんに見せつける。
「よくご覧くださいな? 人ならざる獣の瞳でしょう? あなた方が目の敵にして追い回す妖。それがわたしです」
「深咲とは、偶然知り合った赤の他人。ただ一つの共通点は、たまたまお互い半妖同士だったってだけだ」
 トンと棍の先端を地面について、あたしと園桜さんの間に宙夜が立つ。そして片手で髪を持ち上げて、眞昼とは反対側の、銀色の右目を見せた。
 お月さまみたいな綺麗な、そして妖である魔獣の恐ろしさを湛えた銀色の瞳。
「半妖……あなたたち、も……」
 園桜さんの声が震えている。眞昼は棍の先でクイと園桜さんの顎を持ち上げた。園桜さんは黙っている。すると眞昼は感情がないような冷たい表情で園桜さんを見据え、彼の肩を棍で突いて押し離した。
「深咲さん。迎えに来ました。乱暴はされていませんか?」
「……宙夜、眞昼。あたしを……許してくれるの? あたし、すごくひどいこと言ったのに」
 あたしの髪を、宙夜がくしゃりと撫でてくれる。そして帯に挟んでいた櫛を、あたしの髪に差してくれた。お父さんに買ってもらった、あたしの宝物の櫛。宙夜が持ってたの? それとも見つけてくれたの?
 どっちだっていい。櫛が戻ってきたことも嬉しいけど、宙夜と眞昼が、あたしを迎えにきてくれたことが、今は何よりも嬉しい!
「雨に打たれて、ちったぁ頭、冷えたか?」
 あたしは泣き顔になって、でもたまらなく嬉しくって、宙夜にしがみついた。
「ごめんなさい! ごめんなさい、宙夜、眞昼! あたしもうワガママ言わない。自分を否定したりしない。だから許して。あたし、変わるから。認めたくないこともイヤなことも、全部受け入れて、その中の一番を選ぶようにする。あたしは宙夜と眞昼が大切なの……大好きなの! 一緒にいたいの!」
 もっとたくさんの言葉で、上手な言葉で、ごめんなさいを言いたかった。だけどこれ以上、どうしても言葉が出てこなかったの。だから、今のあたしの全部のごめんなさいとありがとうの気持ちをこめて、宙夜にぶつけた。
「……ん。おかえり。でも次は無いからな」
 宙夜はあたしの肩を抱き寄せてくれた。宙夜の腕の中はすごくあったかくて、凍えていた心がゆっくり溶かされていくみたいだった。
 あたしは、宙夜と眞昼が大好きなの。一番大切な、あたしのお兄ちゃんとお姉ちゃん。
「……可愛い妹の前ですから、今回だけは見逃します。このまま去ってください」
 眞昼は園桜さんから目を逸らしたまま、低い声音でそう告げる。
「ま、眞昼さん。僕はずっと考えてた。あなたは誰かを騙すような人じゃない。僕に嘘を吐いていたのは、何か事情があるんでしょう? 教えてくれませんか? 僕はあなた方の力になりた……」
「去りなさい。妖の力で切り刻まれたいですか?」
 眞昼の背後の梁に、ビシッと大きな亀裂が走る。眞昼の操る風の刃が傷を付けたの。園桜さんを脅して追い返すために。
 今ならよく分かるよ。宙夜の考えてること、眞昼の気持ち。
 ひしひしと伝わってくる、眞昼の怒りと困惑。きっとまだ園桜さんに未練があって、だけどあたしや自分たちの正体を知られたから、これからのことを危惧して、躊躇ってるんだわ。このまま追い返しても困ったことになる。だけど命を奪うまでは考えてない。
 だから、今回は見逃すって言ったの。でも次に会ったらきっと眞昼は……。
 イヤ、だ。そんなの、ダメ。園桜さん、眞昼の言う通り、このままこの場は黙って帰って。
「……分かりました。今はこのまま行きます。だけど僕は待っていますから。事情を全て教えてもらえるまで、ずっと。何度だって、会いに行きますから。全て話してもらえるまで、何度でも、何度だって……いつまでも……」
 眞昼が長い髪の隙間から、無言のまま鋭く園桜さんを睨む。
「……今は……さよなら、です。また、伺います」
 園桜さんはゆっくり後退して、そのまま俯いて歩き出した。
 無防備な背中。もし宙夜や眞昼に悪意があったら、その背中に攻撃してたと思う。だけど宙夜も眞昼も、ただ黙ってその背中を見送っていた。

「帰ろう」
 宙夜があたしの肩を抱いたまま、歩き出そうとする。あたしは声をあげて、宙夜を引き止めた。
「ま、待って。あたし……宙夜たちと一緒に行ったら、すごく迷惑になる。あたしのお父さんが妖だったから……お母さんがお父さんを好きになっちゃったから……あたしは領主さまに狙われてるの。一緒にいたら、迷惑かけちゃう」
 まだその場に立ち尽くしている眞昼を見てから、宙夜はあたしの頬を撫でる。そして苦笑混じりに口を開いた。
「お前は本当に莫迦なチビだねぇ。お前を見捨てるつもりなら、こんな雨の中、都中を捜し回って迎えになんか来なかったさ。大丈夫だ。何があっても、深咲は俺たちが守ってやるから、もう俺たちの手の届かない所へ行くなよ。“変わる”んだろう?」
 宙夜の言葉に胸が熱くなり、あたしは大きく頷いて宙夜にしがみついた。

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