風薫る君

大好きな両親と家を失った幼い深咲を救ったのは、
銀の瞳を持つ美麗の双子の“きょうだい”だった。
妖が跋扈する緋ノ国に、疾風が舞う。迅雷が弾ける。

「……必ず、迎えに行ってあげるから」


     三

 真っ暗な部屋の隅で、あたしは着物の襟をぎゅっと握って膝に顔を埋めていた。すごく怖くて……なにが怖いのかも分からなくて……見えない恐怖に、ただ怯えて慄えてることしかできなかったの。
 知らない男の人に攫われたあたしは、知らない大きなお屋敷に連れて行かれた。そこでお母さんとお父さんのことを知っていて、なおかつお父さんたちを憎んでる人に会い、あたしはその人たちに殺されそうになった。理由も分からず。
 殺されちゃう! 死にたくない! そう思った時、あたしの体に異変が起こったの。
 背中を突き破り、奇妙な多関節の骨組みだけの翼のような突起が飛び出して、骨の翼は雷(いかづち)を纏って周囲へ凄まじい落雷を放った。雷は男の人たちを焼き、お屋敷を壊した。
 全部、あたしが……やったの。
 お屋敷が崩れる轟音を聞き付けた都の人たちが集まってきて、その中には宙夜と眞昼の姿があった。二人は突風を巻き起こして砂を巻き上げ、みんなの注意を逸らして、素早くあたしを匿って逃げた。
 あっちへ、こっちへ、右に、左に、都中をめちゃくちゃに迂回して、誰も追ってこないのを確認してから、御國さんのお店に連れて帰ってもらった。あたしはまた二人に助けてもらったの。
 だけどあたしは、二人にお礼を言うどころじゃなかった。だってあたしは……人間じゃなかったんだもの。今日まで自分でも知らなかった事実に、あたしは怯え、恐れ、なによりも自分が一番……怖かった。
 背中を突き破った骨の翼は、いつの間にか体の中へ引っ込んだ。だけど背中がまだ痺れている。破れてしまった着物を脱いで、新しい着物を着せてもらってるけど、それもまた破ってしまいそうで、あたしは肩に羽織るだけ。
 そして、ずっと……暗くなったお部屋の隅で、一人で震えてるの。

「深咲」
 小さな灯りを手にした宙夜と眞昼が襖を開ける。あたしは体を強張らせ、二人から逃げるように更に部屋の隅へ。背中がピタリと柱にくっ付く。
 この背中に……雷を放つ、骨の翼が生えてきたんだ……!
 慌てて背中を離して自分を抱くように蹲り、また涙が零れてくる。
 二人の影に怯えるあたしに何て声を掛けていいのか、宙夜も迷ってるみたい。例えようのない重苦しい空気が、あたしたちの間に横たわっている。
「……深咲さん。お話しできますか?」
 控えめな眞昼の問いかけに、あたしはイヤイヤと首を振る。
「じゃあ深咲。お前は何も話さなくていいから聞いてくれ」
 後ろ手に襖を閉め、その場に二人で立ったまま話し掛けてくる。
「すぐに事実を受け入れろとは言わない。だけど深咲に……深咲にも、妖の血が流れているのはまぎれもない事実だ。その事から目を背ける訳にはいかない。これから、一生」
 そっ……それくらい分かってるわよ! あたしが生きている限り、あたしはあたしの中の、妖の血と向き合わなくちゃならない。それが……それが怖いの! それが……受け入れられないの!
「宙夜、眞昼。深咲ちゃんはどう?」
 御國さんが部屋に入ってきて、行灯に火を入れた。そしてゆっくりとあたしに近付いてきた。ふるふると首を振って、あたしは御國さんから逃げるように体を更に小さくする。だけど御國さんは、あたしの前に膝をついて、穏やかな表情を向けてきた。
 優しい手が、宙夜や眞昼の心も救った手が、あたしの髪を撫でる。だけどそれが……気持ち悪い。今は、誰かに触れられることが、耐えられない。

「……君もやっぱり……妖だったんだね」

「御國。それどういう事だ?」
「深咲さんの事、ご存知だったのですか?」
 振り返り、御國さんは目を細めて宙夜たちを見る。
「まぁね。でも知ってたっていうのは語弊があるかな。初めて彼女を見た時、なんとなくそうじゃないかなって。ちょうど君たちと同じような雰囲気というか……上手く説明できないけど、この子もただの子供じゃないなって……そんな印象を受けたから。深咲ちゃんには自覚がないようだったから、僕もあえて聞きはしなかったけど」
 あたし、は……自分のこと、普通の人間だと思ってた。自分でも、自分の中に妖の血が混じってるなんて知らなかった。なのになぜ、御國さんには分かったの? だって御國さんは普通の人間で、半妖でもなんでもないんでしょ?
「なんで御國はそんな事、分かるんだよ? あんたは普通の人間じゃないか」
「ううん……どうしてって聞かれても困るんだけど……長く君たちと顔を合わせていたから、感覚で分かるようになったんじゃないかな? それとも……年の功かな? あはは」
 こんな時でも御國さんは、物事の重大性が分かっていないような、明るい口調で言い、笑う。今のあたしには、それすら煩わしい。
「ねぇ、深咲ちゃん。いつまで泣いてても、君に流れる妖の血は薄れないし消えもしない。自分だって知らなかった体の秘密を知って、そりゃあとんでもなく辛いのは分かるけれど。でもそれなら、発想を切り替えてみてはどうかな? ここには君がどんな子であっても、両手を広げて受け入れてくれる者がいる。同じ境遇で、同じ物事の見かたをできる者がいる。君は不幸なのではなく、幸せなんだよ。事実を知ったその時、最初から、自分を受け入れてくれる味方が傍にいるんだから」
 ……違う……全然違うよ。
 だって宙夜と眞昼は、小さい時から自分たちが半妖だって知ってた。だけどあたしは今まで知らなかったんだもの。あたしも、お父さんもお母さんも、ただの人間だと思ってたんだもの。
「ねぇ。宙夜、眞昼。君たちは深咲ちゃんが半妖であっても、これからも今まで通りに接する事ができるよね?」
「当たり前だろ。深咲は深咲だ」
「力の制御のコツや、これからどのように人として振る舞えばいいか説く事もできますよ。わたしはむしろ、垣根を一つ取り払えた気さえします」
 宙夜も眞昼も、あたしを気遣って優しい言葉をかけてくれる。でもそんな言葉が欲しかったんじゃないの。なぐさめてほしくて、同意してほしくて、泣いてるんじゃないの。
 ……違うの。全然違う。あたしと宙夜たちは違うわ。あたしはこんな力なんていらなかった。こんな体になりたくなかった。こんな体……イヤ。
 着物の襟をぐっと握る。爪が手の平に食い込んで痛かったけど、でも骨の翼が背中に生える時、もっともっと痛かった!
 あたしはこんなの、イヤ! 自分がイヤで怖くて仕方ないの!
「イヤ、だよ……あたし、イヤ。こんな……こんな化け物の体なんかいらない。昨日まであたしは普通の人間だったのよ? それなのに急に化け物だなんて……もうイヤだよ、こんなの!」
 大きく首を振って、あたしは自分を否定した。拒絶した。
 突然、ダンッと宙夜が壁を叩く。あたしはその音に驚き、涙でグシャグシャの顔を上げた。宙夜が大股で歩み寄ってきて、あたしの胸ぐらを乱暴に掴み上げる。
「お前の親父さんかお袋さんか、どっちが妖だったのかは分からない。けど深咲は忘れたか? 俺たちだって化け物なんだ」
 宙夜の銀色の右目に、涙でぐしゃぐしゃのあたしの顔が映る。
「……ひぐっ……ぐすっ……宙夜や眞昼は、自分のお父さんが妖だって知ってたじゃない。妖だって分かってて、一緒に暮らしてたんでしょ。自分たちが普通じゃない、異質な命なんだって分かってたんでしょ。でもあたしは人間だと思ってたの。妖のお父さんとお母さんと一緒に暮らしてたんじゃないの。あたし自身がそんなのになるなんて……化け物になるなんて思ってもいなかったんだもの!」
 あたしは普通の人間で、お父さんたちも普通の人間だった。宙夜たちとは違う。
 あたしは忌まわしい自分の運命を呪う。
「……こンの……莫迦が!」
 次の瞬間、あたしは宙夜に力任せに引き摺り倒されていた。畳の上に投げ出され、あたしはさっきよりずっと大きな声で泣いた。
 もう、分かんない。もうイヤ。何もかもイヤなの。お山に帰りたい。お父さんとお母さんのところに帰りたい。
「宙夜! 落ち着きなさい!」
 眞昼が宙夜の腕を抱え込んで静止する。だけど宙夜は眞昼の腕を振り解いて、大きく足を踏み鳴らした。そして胸を強く叩く。
「俺は! 俺自身も眞昼も、親父やお袋だって“化け物”だなんて思っちゃいない! 深咲、お前もだ! 人と違うから嫌だと? 昨日まで人間だと思ってたものが、正体は妖だったから“化け物”になっただと? ふざけるな! 俺と眞昼の血の事を知っても、半妖でもいいと言ったのはお前自身じゃねぇか! あの言葉は俺たちを憐れんで、蔑んで、高みから眺めて自己満足に浸ってただけなのかっ?」
 一息に鬱憤をぶちまけ、宙夜は舌打ちする。
「あの時のお前の言葉で俺たちの心がどれだけ救われたか、お前は理解してんのか? ガキで純粋で健気なフリして、実際には腹の底がドロドロ薄汚ぇお前の甘言にほだされて、踊らされて、酔った俺たちがクソ鈍い莫迦だったよ! お前がそんな、薄汚れたふざけた奴だとは思っちゃいなかった!」
「言い過ぎです、宙夜! 深咲さんは突然の出来事にまだ混乱して、気持ちが不安定なだけで……」
「眞昼は黙ってろ! 親の愛情たっぷり受けて、クソ甘やかされて育ったお前に、俺たちの事が分かってたまるか! あっちでもこっちでも、殺せと脅され、飢えて追われて傷付いて、泥水舐めて歯食い縛って生きてきたんだ! 自分だけが悲劇のどん底にいるんだと、勘違いすんじゃねぇ!」
 激昂する宙夜の剣幕に、眞昼が言葉を飲み込む。御國さんは複雑な表情を浮かべて、ただ黙って事の成り行きを見ている。
 すっと宙夜が、まっすぐに外を指差した。
「出て行け。俺と眞昼は化け物じゃない。自分で自分を化け物だと貶めるような奴の顔なんざ、もう一瞬だって見てたくねぇ。山でもどこへでも、一人で勝手に行って野垂れ死ね。その、のぼせ腐った頭、川にでも突っ込んで冷やしてきやがれ」
 とっくに涸れたと思っていた涙が溢れてきた。
 あたしはやっぱり化け物なのね。宙夜も眞昼も、あたしを嫌いになっちゃったんだわ。あたしが化け物だから。普通の人間じゃなかったから。
 襟をぎゅっと握ったまま、あたしはヨロヨロと立ち上がる。そのまま三人の間を縫って、外へ出ようと歩き出す。恐る恐る一度だけ振り返り。
「……宙夜、眞昼」
「気安く呼ぶな。“化け物”が」
「宙夜! 言葉が過ぎます!」
「黙れ眞昼。この化け物を庇うようなら、お前とも縁切って放り出すぞ」
 出会ってから今まで一度も見たことのなかった、冷徹な宙夜の視線。眞昼のそれとは全然違う。宙夜はいつも優しかったから、本気で怒った姿を見たことなかったから。眞昼の時より……何倍も、何十倍も、怖い……。
 宙夜の銀色の瞳が冷たくあたしを睨み付け、クイと顎で外を指す。
 ……あたしはもう、ここにいちゃいけないんだ。あたしが化け物だから。あたしは人間じゃないから。あたしを理解して受け止めてくれる人は、もう、誰もいないから。
 いつの間にか雨が降り出していたみたいで、御國さんのお店の外の道は、ひどくぬかるんでいた。冷たい雨と、ぬかるんで気持ち悪い泥道の中、あたしは一人、裸足のまま、トボトボと歩き出した。
 ひとりぼっちのあたしが頼れるような……宛なんか……どこにもない。

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