風薫る君 大好きな両親と家を失った幼い深咲を救ったのは、 銀の瞳を持つ美麗の双子の“きょうだい”だった。 妖が跋扈する緋ノ国に、疾風が舞う。迅雷が弾ける。 「……必ず、迎えに行ってあげるから」 |
三 空を駆けるお船は、陽ノ都を出てすぐの森の中に隠しているんだって。だから御國さんのお店からここまで、荷車で荷物を運んできたの。ちょっと手間だけど、お船が盗まれちゃったら、宙夜たちはお仕事ができないものね。 「ここからまた甲板まで荷物運びか。あーあ、面倒くせぇなぁ……いつもみたいに力使って……」 「宙夜。口を動かしている暇があるなら、さっさと手を動かしなさい」 「っ! ああ、わり」 不平を口にした宙夜に、眞昼さんがすかさずピシャリと言い放つ。宙夜は苦笑しながら、荷車の荷物を手に取った。 だらけようとした宙夜を眞昼さんがたしなめるっていう、普段よく見る、何気ないやり取り。だけど一瞬だけ、宙夜があたしの方を見たような……。 「え、えと……あたしも……」 「深咲は小さいのでいいからな。あと足元悪いから気を付けろ」 自分の持てそうな大きさの荷物を抱え、あたしは宙夜の後を追い掛ける。荷物を落とさないようにゆっくり気を付けて歩いていたら、いきなり立ち止まった宙夜の背中にぶつかってしまった。 「わっ……と……?」 宙夜を見上げると、真剣な表情で視線を左右に走らせていた。すごく警戒してる。ど、どうしたの? 「宙夜」 手にしていた荷物を下に置いて、眞昼さんが宙夜を促して肩に手をかける。 「分かってる」 宙夜も荷物を下ろして、腰に手を当ててあたしを見下ろした。 「さて。深咲をどうすっかね」 「え? あたしが……なぁに?」 「見える場所でぼんやりされていては、こちらの手が幾つあっても足りません。はっきり申し上げますが、あなたはここにいるだけ迷惑です。どこかへ隠れていなさい」 眞昼さんはあたしの隣を通り過ぎ、荷車のところへ戻って、荷台から長い棒のようなものを引っ張り出した。その内の一本を宙夜に投げ渡す。 隠れるって……どういうこと? 小首を傾げて宙夜を見上げると、宙夜はあたしの背中をぐっと、お船の方へと押した。 「甲板まで上がるのはお前一人じゃ無理だから、そこの、荷物を引き上げるための滑車の後ろに隠れてな。俺が呼びに行くまで、目瞑って耳塞いで、黙ってじっとしてろ」 宙夜は眞昼さんの背後に立ち、棒を構えて腰を低く落とす。眞昼さんも両手で棒を構えて、周囲に視線を走らせる。 状況がよく分からない。でも言い付け、守らないと……。 滑車の後ろに移動しようとした時、ガサガサと周囲の茂みが不穏な音を発てた。思わず身を固くして立ち竦むと、突然、ぞっとするような野太い雄叫びをあげて、異質な姿をした獣が二人に飛び掛ってきた。 「きゃっ!」 あまりに突然で驚いたのと、恐怖のために、思わず叫んでしまう。 口からはみ出た大きな牙と、血走った鋭い大きな目。尖った長い耳に、黒い体毛。それは妖と呼ばれる化け物。 あたしたちが暮らす緋ノ国(ひのこく)には、こういった、人でない化け物がたくさんいるんだよって、お父さんに聞いたことがあるわ。あたしは本物を見たことがなかったけど、お母さんに妖の話はいっぱい聞いてたの。無害な妖もいるけど、そのほとんどは凶暴で人を襲う恐ろしいモノなんだって。 そういえば妖のお話をする時、いつもお父さんもお母さんも悲しそうな顔をしてた。妖に同情してたのか、それとも怖がってたのかは、今はもう分からないけど。 お話で聞くよりずっと怖い、妖のその姿も唸り声も、あたしを怯えさせ、恐怖で動けなくさせるには充分だった。 「莫迦! 声出すなって言っただろうが!」 宙夜が舌打ちしてあたしの方へと駆けてくる。 妖の姿に驚いたお馬さんたちが嘶き、暴れ出す。眞昼さんは素早く手綱を切り離して、お馬さんをどこかへ逃した。その間にも妖の群れは、眞昼さんや宙夜に、あたしににじり寄ってくる。 イヤ……怖い……怖い! 逃げたくても足が竦んで動かない。あたしと宙夜さんの間に一匹の妖が立ち塞がり、あたしはひとりぼっち。襲ってくる妖に対抗する手段なんて、あたしにはない。 「動け、深咲!」 宙夜が長い棒を妖の喉を突いて怯ませ、その反対側を地面について、軸にした反動でひらりと舞い上がる。妖との距離を詰めた宙夜は、ぐっと体重を乗せて妖に肘打ちを叩き込んだ。そのまま間髪入れずに、再び棒の先端で前足を払い除ける。 その向こう側。 眞昼さんは妖が振り下ろした前足を、姿勢を低くして、頭上で構えた棒で受け止める。そのまま鋭い爪を鋭角に棒の上で滑らせて、いなしながら妖の重心を充分に引き下ろしておいて、反動を付けて撥ね退ける。形がすごく様になっていてきれいだけど、躍動的に動き回る宙夜に比べて、最小限しか動いてないし、どちらかと言えば力技なのかしら。 あ、えっと確か……棒とか杖とか棍とか、そういうのを使った武術があるって聞いたことがあるような。棒術、だったかしら? じゃあ二人が持ってる棒は、戦うのための棍なのかな? これが護身用なのか、お仕事で必要だったのかは分かんないけど、二人がこんなに強いだなんて、初めて知ったわ。すごい……圧倒されちゃう。 宙夜の声で少しだけ我に帰ったあたしは、急いで逃げようと足場の悪い斜面を駆け上がる。だけどふいに視界が暗くなって、あたしは足を止めて影を見上げた。 あたしのすぐ目の前に、あたしの背丈の何倍もある妖が、今にも噛み付こうと牙を剥き出して待ち構えていたの。 「っき……あ……」 無意味だと分かってたけど、悲鳴をあげようと口を開き掛け、だけどあたしの声は、突然背後から巻き起こった突風に掻き消される。 背後の突風はまるでカマイタチか風の刃物を振り回したみたいに、あたしの眼前にいた妖をたやすく切り刻む。何が起こっているのか、すぐには理解できなかった。 「な、に……どうなって……?」 「深咲、こっちに来い!」 宙夜があたしの方へ手を伸ばしてくる。だけどそんな宙夜の背後にはまた別の妖が。 「背後が疎かですよ!」 眞昼さんが小さく跳ねるように宙夜に近付き、一瞬の溜めののちに、妖に強烈な突きを入れる。 「助かった、眞昼!」 宙夜と眞昼さんが背中あわせになり、お互いに呼吸を整える。そして肩越しに見つめあい、コクリと頷いた。特に掛け声がなくても、ピッタリあう二人の阿吽の呼吸が……すごい。あたしは思わず見とれてしまう。 ……えと、あたしは……逃げればいいの? 宙夜のところへ行けばいいの? 判断に困っていると、すぐ傍でまた妖の咆哮が聞こえた。そっちへ顔を向けると、さっきのカマイタチで切り刻まれた妖が、半狂乱になって鋭い鈎爪のある前足を、あたし目掛けて振り下ろそうとしていた。 声も出せず、動くこともできず、あたしの目には妖の動きがひどくゆっくりに映る。宙夜か眞昼さんが何か叫んでるけど、その言葉を言葉として認識することもできない。あたし……殺される! ……た、助けて……お父さん……! ぎゅっと目を閉じてあたしは頭を抱えて蹲る。そんなあたしの体を、誰かがぐいと乱暴に引っ張った。 「風よ!」 さっきと同じようなカマイタチが、周囲の木や草を、空気を、薙ぎ倒し切り裂いて、なにもかもを空中へ舞い上げる。 「宙夜!」 きっと宙夜が助けてくれたんだ! そう思ってあたしは目を開く。そんなあたしの頬に、べったりとした生温かいものが飛んできた。 「……っく……」 サラサラの長い髪が一房、抱え込まれたあたしの肩に零れてくる。 「……ま、眞昼……さん?」 背骨に沿わせるように構えた棍に、妖の一撃を受け止めて、片手であたしの体を支えてくれている。宙夜じゃなくて、眞昼さんがあたしを? だってあたしは眞昼さんに嫌われてて……。 震える手で眞昼さんの肩に触れると、その手がじっとり濡れた。 赤く汚れた、あたしの手。眞昼さんの肩から胸に掛けて、血がべったりと染み込んでいたの。 「血、血が! 眞昼さん!」 「……黙ってなさいと……申しましたでしょう!」 眞昼さんがあたしを抱えたまま、片手で棍を背後に振り抜いた。妖の大きな体が弾かれ、すかさず宙夜が妖にトドメを刺すべく突っ込んでいく。 「クソッ! 後から後から湧いてきやがって!」 宙夜が舌打ちして吐き捨てた通り、いつの間にか周囲は、完全に妖の群れに取り囲まれていた。あたしは怖くなって眞昼さんにしがみ付く。指先が、体が恐怖で慄えている。 「眞昼。深咲と一緒に一旦退けるだけの余力はあるか?」 さっと宙夜が、あたしたちを庇うように棍を構えて立ちはだかる。 「……こう、なると……分かっていたから……嫌だったのですよ。連れていくのは……う、くぅ……」 「文句なら後でたっぷり聞いてやる。説明も後から考えりゃいい。例の力、使ってでも退けるか?」 チカラ? 「あなたを一人残しておきたくありませんが……わたしの、この状態では致し方ないでしょうね。任せます」 「ああ。任せろ」 眞昼さんがあたしの腕を強く掴む。痛いくらいに強く、しっかりと。 「来なさい」 「う、うん……あ、の……ごめんなさい」 「黙って歩きなさい」 怪我、大丈夫なのかな? いっぱい血が出てて、すごく苦しそうで……。 ふと脳裏をよぎる記憶。あの時のお父さんも、いっぱい血が出てた。苦しそうだった。だけどあたしを逃がすために……。 耳の奥のほうで、キシリと引っ掻くような耳鳴りがする。違う……ただの耳鳴りじゃなくて、あたしの中の何かが感じた、警告の“音”だわ。無意識に悟る。 「眞昼さん、こっちにも!」 腕を強引に引っ張られて山道を進む真横からの気配に、あたしは声をあげる。眞昼さんは気付いてなかったのか、あたしを後ろへ押しやりながら、表情を険しくして片手で棍を構える。 茂みから顔を覗かせたのは、また別の妖。だけどその妖のすぐ後ろには、もう一匹の妖がいて。 ダメ……怪我した眞昼さんじゃ、二匹同時になんて相手できないわ。だけどなんの力もないあたしには、どうすることもできなくて。 不安になってきゅっと眞昼さんの腕にしがみ付くと、眞昼さんは皮肉っぽく低く笑った。 「……ふ……これまで、ですね」 うそっ? ここで諦めちゃうの? 確かに眞昼さん一人じゃ、どうにもならない状況だけど……! 眞昼さんがあたしを、自分の後ろへ強く突き飛ばした。あたしはペタンと尻餅をついてしまい、息を飲んで眞昼さんを見上げる。 「ま、眞昼さ……っ!」 「さぁ。どうぞ?」 皮肉を込めた視線で妖たちを見据え、眞昼さんは両手を広げて妖とあたしの間に立っている。 やだ……やだやだ! あたしは確かに眞昼さんに嫌われてたし、眞昼さんのことが怖くてちゃんと目を見てお話しもできないけど、でもさっき、彼は身を呈してあたしを助けてくれたの! 一度もありがとうが言えないまま、あたしのために、だなんて絶対イヤ! 妖は一声吠えて、躊躇なく眞昼さんの肩に噛み付いた。 と、同時に、辺りにさっきみたいな激しい突風が吹き荒れる。茂みや木の枝がうるさいほどざわざわ鳴り、あたしの髪や着物を乱暴に叩く。さっきとは比べ物にならない、目を開けていられないほど強い竜巻が巻き起こす轟音に混じって、妖の咆哮が聞こえた。 「深咲!」 宙夜が、吹き飛ばされそうになっていたあたしの体を支えてくれる。 「助けて! ねぇ! 眞昼さんを助けて!」 「見るな!」 宙夜が声を荒らげて、さっとあたしの目を塞ぐ。宙夜に視界を遮られてるけど、周囲の音は全て聞こえてくるわ。 恐ろしい妖の咆哮。断末魔。木々を薙ぎ倒す音。グチャグチャと何かを叩き潰す不気味な音。強引に何かを引き裂き、咀嚼するような音……怖い、気持ち悪い、音。音。音。 どのくらいしてからだろう? それらの音が全て消え、辺りが静寂に包まれる。木の葉の揺らぎや鳥や虫の声も聞こえない。完全な静寂。ただひとつ聞こえるのは、“何か”の荒い息遣い。 「……深咲。絶対に声を出すなよ。それから……絶対に動くな。狙われるぞ」 いつになく低い声で、恐ろしい忠告をしてくる宙夜。そしてあたしからゆっくり手を離した。 宙夜の気配はすぐ傍にある。恐る恐る目を開き、あたしは。 「……っ!」 必死に悲鳴を噛み殺し、あたしは両手で口元を覆って周囲の状況を見た。見てしまった。 死屍累々と転がる、あの妖たち。生きてる妖はいない。どの妖も体の至る所を切り裂かれ、引き裂かれ、噛み千切られ、むっと噎せ返るような血の臭いと肉片を、辺り構わず撒き散らしているの。受け入れがたい光景。絶対的な強者と無力な弱者による、視界の暴力。 あまりにも惨たらしく恐ろしい世界で、動いている、生きているのはあたしと宙夜と……見たことのない銀の毛皮をまとった魔獣だけ。さっきまでこんな妖、いなかったのに……。 周囲のこの惨状は、銀の魔獣の仕業だってすぐ分かった。すごく怖いと思った。だけど同時に……魔獣の神秘的なその姿が……きれいだと思ったの。 「グウゥゥゥ……」 宙夜があたしから離れ、ソロリソロリと銀の魔獣に歩み寄っていく。魔獣は威嚇するように低く唸り、前足を突っ張って身構える。 ……あ、れ? 眞昼さんは? まさか眞昼さんも、あの銀の魔獣に噛み殺されちゃったの? 口元を抑えたまま、慌てて周囲を見回してみるけど、人らしき死体はどこにも見当たらない。まさか……食べられ、ちゃったの? 「ウウッ!」 銀の魔獣が、邪魔なものを払い除けるように宙夜に向かって太い前足を振るう。だけど宙夜は慣れた様子で攻撃を仰け反ってかわした。そして手にしていた棍を足元へ投げ捨て、小さく深呼吸する。 「もういい、やめるんだ。全部終わったから」 宙夜が銀の魔獣に静かに語りかける。 「任せろって大見得切っておいて、何匹か取り逃がしたのは俺の失態だ。責めるなら責めていい。だけど……もう元の姿に戻るんだ。全部終わったんだからさ」 再び小さく深呼吸して、宙夜の瞳が悲しそうに揺らぐ。だけど視線は、銀の魔獣に向けたまま逸らさない。 穏やかに、ゆっくりと、宙夜は言ったの。 「……なぁ? 俺が分かるよな? なら……もう戻れ。戻るんだ……眞昼」 宙夜の銀色の右目に映る、銀の魔獣の姿。銀の魔獣の銀色の左目に映るのは……宙夜の姿だった。 |
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