風薫る君

大好きな両親と家を失った幼い深咲を救ったのは、
銀の瞳を持つ美麗の双子の“きょうだい”だった。
妖が跋扈する緋ノ国に、疾風が舞う。迅雷が弾ける。

「……必ず、迎えに行ってあげるから」


     二

「おい。大丈夫か?」
 何度も肩を揺さぶられて、あたしはぱちりと目を覚ます。そのまま両手を支えにして体を半分起こした。
「気が付いたか。怪我……とかはなさそうだな」
 少し癖のある長い髪を頭の後で結って、わざと着崩しているのか、大きくはだけた胸元は、さらしをぎゅっと巻いている。細身の袴に包まれた膝を折って、あたしの傍に屈みこんでいる。襷(たすき)でめくり上げた袖からすらりとした腕が伸びていて、その手はあたしの肩を掴んでいた。

 お山の向こうに沈みかけたお日様の光が、滝の水を通してこの場所を茜色に染めている。あたしのお気に入りの場所。山で遊び疲れたら、いつもここで休憩してたの。滝の裏側にある、ちょっと大きな窪み。外から滅多に見つからない、あたしとお父さんとお母さんの秘密の場所なの。

 お姉さんの瞳は不思議な色だった。
 左目は普通の黒い瞳なの。でも右目は……夕日の色をそのまま映す鏡みたいな銀色なの。キラキラしててお月様と同じきれいな色。
「……ん? どうした? やっぱりどこか怪我してるのか?」
 誰……なんだろう? 知らない人。
「……ううん、大丈夫」
「そっか。良かった」
 その人は人懐っこい笑顔をあたしに向けて、あたしの頭を撫でてくれた。
「ここで何してる?」
 なんだかちょっと頭がぼんやりしてる。あたしは首を傾げ、少しずつ状況を少しずつ思い出してみた。
「……ここで待っていなさいって言われたの」
 うん。確かにそう言われた。だからあたしは待ってたの。ひとりぼっちで心細かったけど、でも迎えに来てくれるって言ったもの。いつも絶対に約束は守ってくれた。だから一人で我慢できたの。
「待てって……誰に?」
 優しい声と、温かい手を思い出す。あたしに約束してくれたのは……。
「お父さん」
 知らないお姉さんは訝しげに眉根を寄せる。
「チビはこんな山の中で暮らしてたのか?」
「うん。お父さんと、お母さんと、あたしと三人で」
 このお山にはほとんど人はやってこないし、あたしもお父さんとお母さん以外の人と会ったことはほとんどない。お山で暮らすことって、変なことなのかな?
「それで、チビの親父さんはまだチビを迎えに来てないのか?」
 あたしはキョロキョロと辺りを見回して、小さく頷いた。
「まだ、みたい」
「もうすぐ日も暮れる。チビ一人で、こんな山の中にいたら危ないぞ。野生の狼とか、猪とか……妖(あやかし)なんかも出るかもしれない」
「でも待ってなさいって言われたもん」
「だからって……」
 お姉さんは肩を竦めてあたしを見る。そして流れ落ちる滝の水を見つめた。
 あ……お空はもうずいぶん暗くなってきてる。さっきまで茜色に反射していた滝の水が、もう群青色に染まってるもの。
 ううん、と唸って、お姉さんは頬を指先で掻く。
「だったら、俺がチビを連れて帰ってやるよ。夜の山道はチビ一人で歩くものじゃない」
「だめ。お父さんと約束したの。お父さんが迎えに来るまで待ってなさいって」
 お父さんとの約束を破ったらお母さんが悲しい顔をするの。お母さんとの約束を破っても、お父さんが辛そうな顔になるの。だからあたしはお父さんとお母さんの約束を絶対守るの。
「頑固なチビだなぁ……」
 お姉さんは一度滝の外を見るために立ち上がり、そしてずっと遠くへ目を凝らしている。しばらく外を眺めていて、ふいにあたしに背を向けたまま、くいくいと手招きした。
 あたしは両手をついて立ち上がり、お姉さんの傍へと歩み寄る。
「チビの家はどっちの方角だ?」
 滝の外に広がる空は、もう真っ暗。遠くのお山も森も、ほとんど見えなくなっている。
 暗いのは怖いけど、一生懸命目を凝らして外を見る。
「……えと……あっち」
 あたしは真っ直ぐおうちの方を指差した。だけどあたしの指差した先に、変な煙が見える。見たことのない、真っ黒でまっすぐ天に昇る、変な煙。
 もしかしてお母さん、またお鍋を焦がしちゃったのかな? お母さんはお料理はあんまり得意じゃないのって、いつも言ってたから。
 あたしの言葉を聞いて、お姉さんがますます表情を固くした。
「……分かった。じゃあチビ。こうしよう」
 お姉さんがあたしと視線をあわせるために、再びあたしの前に膝をつく。
「俺が一度、チビの家の様子を見てきて、親父さんやお袋さんがいれば、早くチビを迎えに行ってやってくれって伝言してきてやるよ。でももし……もし誰にも会えなかったら、俺と一緒においで。ここにいるよりは安全だから」
「でも、お父さんが待ってなさいって……」
「だから俺が様子を見てくるんだよ。チビは俺が戻るまで、もしくは親父さんが迎えにくるまで、ここで隠れてりゃいい」
 ちょっと迷ったけど、あたしは素直に頷いた。
 だっていつもなら、あたしがお山へ遊びに行っても、お父さんやお母さんは暗くなる前に必ず迎えに来てくれたんだもの。だけど今日は変。もう暗くなるのに迎えに来てくれないの。だからすごく不安になってた。ひとりでいるのが心細くなってた。
「じゃあ行ってくる。チビはここを動くなよ」
 あたしは黙って頷いて、風みたいな早さで森の奥に姿を消すお姉さんを見送った。

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