風薫る君

大好きな両親と家を失った幼い深咲を救ったのは、
銀の瞳を持つ美麗の双子の“きょうだい”だった。
妖が跋扈する緋ノ国に、疾風が舞う。迅雷が弾ける。

「……必ず、迎えに行ってあげるから」


     三

 ゆっくりと、ぐらぐら揺れる不思議な部屋。ちょっと気持ち悪くなってきたかも。
 でもそんなの気にしてられないくらい大変なことが、あたしの目の前で起こっていた。

「荷物は荷物でも、あんな得体の知れない荷物を拾ってくるとは思ってもいませんでした。あなたは自分で落とした荷物の形も、ろくに覚えていられないトリ頭なのですね。実に嘆かわしいです」
「はぁ……お前ねぇ。その口の悪さ、もうちょっとどうにかなんねぇ? 確かに落とした荷物は見つけ損なったけど、人の命と荷物、どっちが大事なんだよ」
「当然、荷物です。仕事ですから」
「この冷血莫迦が!」
 あたしをここへ連れてきてくれたお姉さんは、きれいな顔をしたお兄さんに向かって怒鳴りつけた。
 まっすぐで艶やかな長い髪を背中へ流し、羽織と袴をきっちり身につけている。男の人と女の人だし、見た目や雰囲気は全然違うけど、どこか似てるの。きょうだい……なのかな?
 ただ一つ違うのは、お姉さんは右目が銀色だったけど、このお兄さんは左目が銀色。お月さまみたいな、不思議できれいな色なの。
 でもこの人は目付きが鋭くて、すごく丁寧だけど皮肉交じりのキツい高圧的な話し方をする。あたしはお父さんとお母さん以外の、知らない人と話したことがほとんどないせいもあるけど、なんだかこの人……苦手かも。
 お姉さんは口調こそ粗野で乱暴だけど、すごく優しく接してくれたのに、お兄さんから醸し出される雰囲気はトゲトゲしくて、あたしに対する嫌悪に満ちていて、あたしはその雰囲気だけで怖くなって竦みあがっていた。
「はい? 莫迦? 聞き間違いでなければ、わたしを莫迦とおっしゃいました?」
「莫迦が気に入らないなら、大莫迦野郎だ! 泥だらけで怪我して気を失ってる女の子を見つけて、黙って見捨てておけるのか、お前は?」
「時と場合によります。面倒事は御免被りますので」
「あーっ! ったく!」
 壁をドンと大きく叩いて、お姉さんが舌打ちした。
「分かったよ! じゃあお前は黙って向こう行ってろ! 俺一人であの子の面倒見るからよ!」
 お姉さんが歯軋りして叫ぶと、お兄さんは嘲笑するように口元を歪めて、冷ややかな視線を投げかけた。
「よくもまぁ、得体の知れない者にそこまで親身になれるものですね。ふぅ……あなたは昔からいつでも、後先考えずに行動する」
「お前はいつだって、壁一つ向こうから達観できる沈着冷静さがあっていいね。“あの時”だってそうだ。なんであの時、お前は泣きも喚きもしなかったんだよ? 普通、泣くだろ?」
「取り乱した所で、状況が好転するとも思えませんでしたので」
「はいはい、わかったよ! 冷静な状況分析ご苦労さん! お前はもういいから、とっとと向こうへ行ってろ!」
 肩を怒らせながら、お姉さんがこっちへ近付いてくる。

 え? あ、あたし……どうすればいいの?
 えと……お兄さんは、あたしを嫌がってるんだよね? じゃあやっぱり、あたしはお父さんが迎えにくるまで、あの場所に戻って待ってた方がいいよね? 嫌がってる人のところに無理に居座りたいとは思わないし、あたしだって早くお父さんとお母さんのところに帰りたいもの。
 でも……どうやって帰ればいいのかな? 真っ暗になったお山から、お姉さんに手を引かれて連れてきてもらったから、一人じゃ、どうやって帰ればいいのか分かんない。
 どうしようかと戸惑ってまごまごしていると、お姉さんがあたしの手を取ろうとした。あたしはとっさにその手から身を引き、後退る。
「ん? どうした?」
「……帰る……お父さんと約束したあの場所に……帰る」
 あたしの言葉を聞き、お姉さんは表情を歪める。
「チビ。ここへ連れてくる前にも説明したろ。お前の親父さんとお袋さんには会えなかったんだって。あんな寂しい場所に一人でいたら危険なんだよ」
「だ、だってそれは、お姉さんがあたしのおうちが分からなかっただけだもん! お父さんとの約束、あたし守るもん!」
 あたしは嫌々しながらもう一歩後退する。
「ふふ。彼女は自分から帰ると申しているではありませんか。なのにあなたはなぜ、彼女にそこまで執着するのです?」
 お兄さんが腕を組み、冷ややかにあたしを見下ろしている。早く出て行けって雰囲気が伝わってくる。そんな彼に、お姉さんはちょっと考えてから、そっと耳打ちした。
 一瞬だけど、お兄さんの表情が曇る。
「……同情はしますが、わたしたちに関係ないでしょう?」
「そうだけどさ……! ああ、くそっ!」
 お兄さんは組んだ腕から覗く指先をこつこつと打ち、やれやれと言った様子で嘆息した。
「ふぅ……致し方ありません。親戚や知り合いの家まで送って差し上げれば充分でしょう? これ以上の厄介事は不本意ですので遠慮いたします」
 知り合いの、家? そんなの、あたしは知らない。
 だって、あたしはずっとあのお山で、お父さんとお母さんと三人だけで暮らしてきたんだもの。そんな親しい知り合いの人がいるなんて、聞いたことないよ。
「えーと、ま、そういう事だ。チビ。誰か知り合いの家まで送ってやるから、どこの都にいるのか、なんて名前なのか教えてくれ」
「……知らない。いない、そんな人……」
 じりじりと後退してると、トンと背中に壁が当たった。
「いない? 一人もか? 親父さんやお袋さんの兄弟とかは?」
 お姉さんは次々に、あたしの知らないことばっかり聞いてくる。あたし、そんなの知らない。分かんない。
 イヤ、だ……ここ。二人共、訳が分かんないことばっかり言う。お姉さんは親切だけど、お兄さんはあたしをすごく嫌ってる。お部屋がぐらぐら揺れるのも気持ち悪い。おうちに……帰りたい。
「帰る……あたし、帰る! お父さんきっとあの場所であたしを探してるから!」
 あたしは叫んでお部屋の出入口である引き戸に飛び付くように掴まり、思いっ切り開いて外へと飛び出した。

 外は板張りの、縦に長い縁側のようだった。でも大きなおうちのそういうのとはちょっと雰囲気が違う。昔お母さんにお話してもらった、海に浮かぶお船みたい。本物は見たことがないけど、聞いた様子とそっくりなんだもん。
 な、なに? ここ、お船の上だったの? だからお部屋全体がギシギシ軋んでて、床がぐらぐら揺れたりしてたの?
 お船の上じゃ、あたしは逃げられない。だってあたし、ずっと森の中で暮らしてたから、本物の海を見たことがないんだもの。お山にあった大きな川でも、泳ぐのはすごく苦手だった。だから泳いで逃げるなんて絶対無理。
 でもお姉さんに連れられて来た時、お水のある場所なんて通らなかったわ。もう夜だから見えなかっただけかもしれないけど。
 せめて隠れられる場所はないかと、甲板を走る。するとお船がまた大きく揺れた。
「きゃあっ!」
 あたしは体勢を崩し、足を滑らせてお船の縁から外へ放り出されてしまった。
「危ない!」
 あたしの背後から誰かがあたしを抱き留める。あたしはびっくりして思わず目を閉じる。そしてその腕にしがみ付いた。
「この莫迦! 落ちたら死ぬぞ!」
「え? え……きゃあっ!」
 目を開けて、視界全体に飛び込んできた光景に更に驚き、あたしはまた悲鳴をあげて、体を支えてくれてる腕にしがみ付いた。
 だ、だってここ! 海の上じゃなくて空の上だったんだもの! 夜の闇で一面真っ暗な空の上。どういうこと?
「……こちらの最大限の譲歩を突っぱねて、助けられた礼を一言も告げずに飛び出し、船から落ちそうになってまた助けられる。なんと礼儀知らずなのでしょうか、あなたという方は?」
「だから眞昼(まひる)。そういう皮肉はよせって言ってるだろ」
 お船から落っこちそうになったあたしは、お姉さんに支えられ、助けられていたの。
「ほら、こっち来い」
 お姉さんに引っ張り上げられ、あたしは甲板にへたり込んだ。
 だめ……あたし、どこにも逃げられない。
 両腕をぎゅっと掴んでガクガク震え、あたしは怯えた眼差しでお姉さんを見上げる。それから、ゆっくりとお兄さんへと視線を移動させた。お兄さんはさっきよりもずっと冷ややかな怖い顔をして、あたしを見下ろしていた。
「走り回れるくらいの元気は戻ったみたいだな」
 お姉さんが目を細めてポンポンとあたしの頭をゆるく叩く。あれ……怒ってないの? あたし、お姉さんからも逃げようとしたのに。
「こいつはキツい事ばっか言うけど、根は悪い奴じゃないんだ。もちろん俺も怪しい奴じゃない」
「ふふ。よく言います。怪しいところだらけではありませんか」
「うるせぇ! 黙ってろ!」
 お姉さんはお兄さんに向かって怒鳴り付け、そしてその声に怯えて体を強張らせたあたしを見て、慌てて取り繕うように両手を振った。
「悪い悪い。チビを怖がらせるつもりじゃなかったんだ」
 ……この人たち、悪い人じゃない……のかな? でもお姉さんは優しく接してくれるけど、あたしを見るお兄さんの目は……すごく冷ややかで怖い。嫌われてるよね、絶対。
「なぁチビ。名前、聞いてもいいかな?」
 へたりこんだままのあたしの前に膝を付いて、お姉さんは優しい声音で問いかけてきた。
「……み、深咲(みさき)……」
 声が震えて上手く言えなかったけど……ちゃんと聞こえたかな?
「深咲か。名前も可愛いな」
 お姉さんが優しく微笑む。あたしはつられるように、少しだけ頬を緩めた。
「俺は宙夜(ちゅうや)で、あっちの、怖い顔でこっちを睨んでんのが眞昼。俺とあいつは双子の“きょうだい”だ」
「素性の知れない者に、よく平然と名乗れますね。呆れます」
「眞昼、いちいち突っかかってくんな。ホントはお前も気になってるくせに。相変わらず素直じゃねぇなぁ」
 お姉さんの言葉に、お兄さんはピクリと眉尻を吊り上げる。その静かな迫力に、あたしは身を固くして息を飲んだ。
「はい? 何を勘違いしているのです? なぜわたしが、初めて会う素性の知れない者に気を揉んでやらねばならないのでしょう? 宙夜がこれ以上、面倒事に首を突っ込まないか、わたしはあなたを監視しているだけです」
 お姉さんはあたしを心配してくれてるけど、やっぱりお兄さんはあたしを厄介者だと思ってる。
 そう、だよね。あたしだって知らない人とお話しするの、怖いもん。このお兄さんもきっと、自分の知り合いじゃない人は、視線を合わせるのもイヤなんだと思う。子供とか、他人と接するのが嫌いなのかもしれない。
「……もう一度譲歩の条件を述べて差し上げましょう。成り行き上とはいえ、あなたと関わり合いになってしまったので致し方ありません。適当な場所まで送って差し上げますから、知り合いのいる都や町を教えなさい」
「もうちょっと優しく聞いてやれよ」
 お姉さんがやれやれと首を振る。そしてあたしに向き直り、人懐っこい笑顔であたしに問い掛けてくる。
「深咲。ちゃんと無事に送り届けてやるから、俺たちにお前の知り合いが住んでる場所を教えてくれないか? 大丈夫。悪い事は考えちゃいないからさ」
 知らな、い……本当に知らないもん。
「……知らない。知ってる人なんかいないもん。あたし……おうちに……帰りたい。お父さんとお母さんのところに、帰りたい……」
 鼻の奥がツンと痛くなってくる。涙、出てきちゃう。怖くて、心細くて、寂しくて。

 ふと、なにか……なにかが頭の奥でチカチカした。お父さんは……あの場所で待ってなさいって言った時のお父さんは……怪我、してた。何かからあたしを庇うみたいに、あたしを抱いて森の中を走りながら、すごく苦しそうにしてた。
 ちょっとだけ思い出した。でもそれがどういう意味か、あたしには分からない。

 お姉さんは唇を噛んで思案顔。でもすぐ固い表情のまま、あたしの両肩をしっかりと掴んだ。
「深咲。よく聞くんだ」
 さっきまでの笑顔が消えてる。
「俺は深咲に教えてもらった、お前の家のあるって場所を見てきた。そこに……家なんてなかった。全部……焼けて無くなってた」
 なくなってた? 焼けた? それってどういうこと?

 お父さんに抱かれて走ってる時、お父さんの背中のずっと向こうに橙色の火が見えてた……ような気がする。ううん、見えてた。だってあの熱い空気……ほんのちょっとだけ覚えてる。
 でもそれしか覚えてない。思い出せない。あたしは途中でお父さんと別れて、一人であの滝の裏に行ったの。お父さんが迎えに来てくれるって言ったから。お父さんの言葉を信じて待ってようって思ったから。
 それからずっとあの場所で待ってて……それから……寝ちゃった。朝からお山でいっぱい遊んで疲れてたんだもん。

「……お父さん、迎えに来るって言ってたよ?」
「ああ。深咲を安心させたかったんだろうな。でもさ……本当に誰もいなかったんだ。だからきっと、いつまで待っても、誰も深咲を迎えに来なかったと思う。俺が偶然あの場所を見付けなきゃ、深咲はいつまでもひとりぼっちで待ちぼうけだったんだ」
 あたしは自分のつま先を見た。
「……お父さん……お母さんも……もう、いないの? あたしのおうちも……もうないの?」
「ああ。だから連れてきた。あんな場所に深咲を一人放り出してたら、きっと狼にでも襲われて、死んでたかもしれないから」
 お父さん、約束したよね? お父さんは一度も約束を破ったことなんてなかった。お母さんも、あたしといつも、嬉しそうにおしゃべりしてくれた。
 でも……もう、いないの? もう会えないの? あたし……ひとりぼっちなの?
 辛い。苦しい。胸が痛い。そんなイヤな感情が一気に襲ってきて、あたしは息を詰まらせた。そしてやっと、やっと感情を引き出せた。悲しくて、寂しくて、泣いてしまうこと、やっと思い出せた。
「……っう、ぐすっ……ひぐっ……」
 喉の奥が詰まって、涙でなにも見えなくなって、一人であることの心細さと、大好きなお父さんとお母さんにもう会えないって事実に絶望して、あたしはその場に立ち尽くして……泣いた。
「お、おい深咲?」
 なにも言えない。なんて言えばいいのか、どういう態度をすればいいのか、全然分かんない。あたしはただただ、その場で泣きじゃくっていた。
 お姉さんが優しくぽんぽんとあたしの背中を叩く。あたしは……ただ泣くだけ。
「……火事かな?」
「家人が火の不始末を出したのなら、近くへ避難していそうなものですが?」
「深咲の親父さんやお袋さんらしき人影は、どこにも見かけなかったぜ?」
 分かんない。どうしてお父さんもお母さんも急にいなくなっちゃったの? どうしておうちが燃えちゃったの?
 二人があたしのおうちのことを話してるけど、あたしは自分の置かれた、もうひとりぼっちなんだっていう事実に打ちのめされているだけだった。悲しくて、寂しくて、辛くて。
「じゃあ、誰かが点け火の悪戯とか?」
 お姉さんの言葉に、お兄さんが口元に指先を当てて考え込む。
「何の目的もなく、山奥の一軒家へわざわざ火を放つでしょうか? 近隣の森へ延焼する可能性もある訳ですし。面白半分の点け火を原因とするには、あまりに動機が弱く、意図も不明瞭です。何らかの怨恨があったというのならば、考えられなくはないでしょうが」
「深咲の家は金持ちか何かだったのか? もしくは誰かに恨まれてたとか」
 あたしはううんと首を振る。
「……おうちにお金、ないよ。お父さんとお母さんが竹細工を作って、それを町に売りに行って必要なものだけ買ったりとか、そういうのだったもん。あたしはずっとおうちにいたから、誰かに恨まれるとか……そんなの分かんない」
「ふむ。妙ですね。不自然な火事という事実から導き出される正当な理由を見出せません。不可解です」
 お兄さんの言葉に、お姉さんは面倒臭そうに頭を掻く。
「んー……知り合いがいるかどうかすら分かんねぇんだろ……どうすっかねぇ。まさかこんなチビ一人を、元のあの山に放り出したりできねぇし」
 知り合いなんて……いるのかな? お父さんとお母さん、いつもすごく他の人の目を避けてた。一人で町に行っちゃいけないって、あたしも毎日言われてたし。だからお父さんとお母さんの知り合いなんて、あたしは一人も知らない。
 何も答えられずにぐすぐす泣いていると、呆れたのか、お兄さんがため息交じりに問いかけてきた。
「……深咲さんはいくつですか?」
「……十歳……あ、もうすぐ十一歳……」
 お兄さんは腕組みをしたまま、難しい表情でこくりと頷いた。
「まだ少し幼いですが、陽ノ都(はるのみやこ)なら、探せば住み込みで働かせてくれる商家もあるでしょう。仕事を見つけて自立なさい」
 え……あたし、どこかへ行って働くの? でも、働くって、どうやっていいのか分からないし、知らない人ばかりのところで暮らすなんて怖い。
 あたしは助けを求めるようにお姉さんを見上げる。だけど彼女も肩を竦めて首を振った。
「悪いが俺たちがずっと面倒見てやる訳にもいかないし、それが一番お前の為だろうな。大丈夫、難しいのも心細いのも最初だけだよ。すぐに慣れるさ」
 や、だ……やだよ。知らない人しかいないところになんて、行きたくない。でもあたしには帰るところもないんだよね?
 あたしはこれからどうすればいいのかなんて、この時はまだ全然考えられなかったの。知らない人の中にいることが怖くて、お山に帰りたくて仕方なかったの。

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