黒渦-CLOSE- 仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語 大正浪漫風混沌系サスペンス 町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」 美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える 彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事 だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった―― |
4→3 怒(いか)る 一 極力笑顔で接しながらも、美帆は徐々に綾弥子と距離を置くようになった。晶の言葉から、全ての元凶は綾弥子だと悟ったからだ。 普段の他愛無い会話から、仕事に関する重要な話──綾弥子から美帆に振られた話題は、綾弥子を通過点としつつも、自然と晶へ返すようになっていた。彼女に対する美帆の心の恐怖を悟られてはならないと分かっていたが、それでも心は畏怖に対して正直になってしまっていた。 当然ながら綾弥子には、どこか余所余所しくなってきた美帆の態度が事ある毎に鼻につく。些細な失敗などしようものなら、嫌味を絡ませた刺々しい言葉を吐くようになっていた。 いや、それだけではない。なぜか最近になって綾弥子自身が、どこか歯車がズレたように、時折訳の分からない奇行を行うようになっていた。珈琲にとんでもない量の砂糖を入れたり、晶がわざと受け損ねるように、茶碗や受け皿を意地悪く投げ付けたり。 美帆にはそれすら、自分へ向けられた悪意や嫌味だと感じて怯え、心をざわめかせていた。 「晶。今日の珈琲、ちょっと薄いんじゃないの? いつもの香りと味がしないわ」 珈琲茶碗をゆらゆらと揺らしながら、綾弥子は頬杖をついて言う。 また綾弥子の嫌味か嫌がらせかと、美帆は内心ハラハラしながら晶の対応を見つめている。晶は自分の身代わりに、矢面に立ってくれているのだと感じ始めていたのだ。恋心まではいかないが、晶を好意的に見ている事は、おそらく綾弥子も感じ取っているだろう。 「ごめん。分量、間違えた」 晶は一瞬視線をサイフォンに向けたかと思うと、無言で彼女から茶碗を受け取り、中身を流しに捨てた。そしてサイフォンの中身をも捨て、新しく挽いた珈琲の粉を用意して、サイフォンにランプをセットする。 何事も几帳面な晶の事、きっと間違いではないのだろう。だがそこは綾弥子を立てて自分の失敗だと受け流した。美帆にはそう感じられた。 「晶が粉の分量を間違うなんて珍しいわぁ。まさか、誰かさんにうつつを抜かしてた、なんて言い訳、聞きたくないけれど、一体どうしちゃったのかしらねぇ?」 皮肉めいた言い回しに、美帆は胸元できゅっと手を握り締め、チラリと晶を見る。晶も一瞬だけ、美帆を見て視線を戻した。 「なんでもない」 「だといいけど?」 晶はコーヒーを抽出し、再び淹れ立ての珈琲を綾弥子の前に置こうと手を伸ばす。しかし綾弥子は彼の手から引ったくるように茶碗を手にした。茶碗の中の熱い熱い褐色の液体を、さして熱を感じないかのようにあおる。 「やっぱり変な味。でも我慢してあげるわ」 「ごめん。アヤコさん」 ギクシャクした姉弟のやりとり。原因は自分だと分かっているが、それでも晶を責める綾弥子に、小さな苛立ちを感じる。どうして自分ではなく、実弟に八つ当たりするのか、と。 だがふいに、美帆は姉弟の会話に違和感を覚えた。 『あれ? 晶くんって、綾弥子さんを“アヤコさん”って、さん付けで呼んでたっけ? 姉弟なのに?』 晶の他人行儀な綾弥子の呼び方。思い出してみれば、美帆がこの茶館に来てから、晶から綾弥子に対する呼称は変わっていなかった。 『姉弟なのに、さん付けなんて変なの』 おかしいと思いつつも、些細な事だと気持ちを切り替える。 自己評価が高く、何事にも驕った態度の綾弥子が、晶にそう強いているだけかもしれない。美帆はそう思って、普段の業務に取り掛かった。 綾弥子の辛辣な嫌味が、これ以上酷くならないようひっそりと願いながら。 |
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