黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     二

 カランと入り口のベルが鳴り、ピシリとしたスーツを着た男性──いや、女性が入ってきた。
 凛々しい彼女のそのいでたちは男装と取れなくもないが、胸のコサージュやアクセサリー等は女性らしい。この時代、女性がスラックスを穿く事が珍しかったため、美帆には彼女が男装していると感じてしまったのだ。
「いらっしゃいま……あ……」
 嫌でも目に付く胸のコサージュ。大輪の打莉杏(ダリア)の花。
 ふいに息苦しくなり、美帆は振り返って晶を見た。晶は無言のままカウンターを出て奥の部屋へと消える。そんなまごついた美帆を遮るように、綾弥子が隣に立って手を差し出していた。
「ようこそ、“特別なお客様”。お待ちしていましたわ」
「ああ、うん。世話になる」
 スーツ姿の女性は、胸の打莉杏を抜いて綾弥子に手渡した。凛々しい彼女もまた、“嘆願者”だったのだ。

 服装からして社会に出て働く強い女性だが、そんな彼女が何に挫けそうになっているのか、美帆には理解できない。茶館の女給と、社会進出した女性とでは立場は違いすぎるが、それでも美帆には、凛々しく見える彼女が綾弥子たちを頼る事に、違和感を抱かずにはいられなかった。
「何をしてるの? お客様がお通りになるわ。ぼうっと突っ立ってないでちょうだい」
「あ、はい! すみません!」
 美帆は慌てて通路を譲り、そして急いで入り口の外に『支度中』の看板を出した。そして綾弥子たちを追うように、奥の休憩室へと向かった。

 今日も美帆が一人遅れて休憩室に入ると、嘆願者のスーツ姿の女性、中岩(なかいわ)美津(みつ)は唾を飛ばしながら、噛み付きそうな勢いで綾弥子に不満をぶつけていた。
「この私があれだけ持ち上げてやった恩も忘れて、あの男は自分の事業を成功させた! 事業が成功したら、私や私の団体の女性を大量に雇うからと嘯(うそぶ)いて、団体の後援のおかげで事業が成功したら、まるでこっちの事を忘れたかのように手の平を返して! 私たちの団体を蔑(ないがし)ろにするにも程があるわ! これからは女性の社会進出が大事だからと、そうほざいて私や女性解放団体を利用したのよ、田殿の奴は!」
 まだまだ社会では男尊女卑の考え方が強く、女性が社会で認められるには、周囲の男性たちの厳しい風当たりに耐えねばならない。この田舎の茶館や商店街では、一人でも働き手が欲しく、家族総出での協力が必要なために女性が卑下して見られる事はあまりないが、都会や大会社内部では、やはりまだまだ男性の地位は高く、女性の地位は低い。
 中岩はそんな女性解放運動を行う団体の代表であり、そして自分は、事業を成功させた田殿の甘言に乗せられ騙されて、一方的に傷付けられたのだと訴える。
「お話は充分承知いたしましたわ。それでは真意を確かめ、これからどうするか話し合いましょう」
「真意も何も、私の言う事が全てじゃないの! 今すぐ動きなさい! 田殿の奴に復讐しなさいよ!」
 中岩に近付こうとしていた晶の手を払い退け、彼女は綾弥子に詰め寄る。綾弥子はいつも通り、大らかな笑みを浮かべているだけ。
「真意を確認させていただきませんと、もし間違いがあっては困りますので」
 間違いも何も、自分の尺度で汚いと思った者は殺してしまっているではないか。美帆はそう口を衝いて出そうになっていた言葉を飲み込んだ。不用意に出しゃばって、綾弥子の怒りを買いたくはない。今でさえ充分嫌味を言われているのだから、それがもっと激しくなるかと思うと背筋が冷たくなる。
「中岩様。落ち着いてくださいな? 頭に血が上っては、満足な会話も成立しません」
 綾弥子がほんのり艶っぽく、僅かに首を傾げて言う。一瞬、中岩の覇気が削がれる。その隙を突き、晶が彼女の胸ぐらを掴まえて引き寄せた。あっと言葉を掛ける間もなく、空いていたもう片方の手の指を、中岩の目へと押し込む。
「っん……!」
 思わず顔を背ける美帆。この残酷で不可思議な行動は、何度見ても慣れない。慣れたいとも思わなかった。
 抉った眼球の穴から、晶には『真実』か『嘘』かが見えるというのだ。全てを見てきた眼球の傷跡が全てを教えてくれると聞いたが、彼に特殊な能力でもあるのだろうか? 恐ろしい事は恐ろしいのだが、好奇心旺盛な美帆はこの真贋を見極める行為が気になって仕方がなかった。

 ダンと誰かが壁にぶつかる音がした。うっすら目を開くと、いつも無表情な晶がギリギリと歯を食いしばり、中岩の眼球を抉った手を振り回して、血糊を落とそうとしている。
「晶くん、どうし……」
「この人はダメ。相手もダメ。どっちも許せない。真実と嘘。嘘も真実も、全部汚いモノ」
 簡素な単語のみで喋る彼の言葉は、何を言わんとしているのか分からない。それを詳細な部分まで理解できるのは綾弥子だけだ。
 畳の上に崩折れた中岩はピクリとも動かない。美帆からは彼女の後頭部しか見えないので、抉られた眼球が今、どうなっているのかは分からない。
「ふぅん。なるほど」
 綾弥子がペロリと自分の指先を舐めた。紅い舌が、淫靡に妖しく指先を湿らせる。
 そして中岩の傍にしゃがみ込んだ。
 やはり綾弥子は、今の晶の言葉で全て理解したらしい。

「中岩様。真意を見せていただきました。明日にでも執行させていただきますわ。ですから今日はもう、お引き取り願えます?」
 中岩の肩を揺り動かすと、彼女はううんと唸ってゆっくり体を起こした。そしてキョロキョロと辺りを見回す。晶の抉った中岩の眼球は、いつの間にか何事もなかったように元に戻っていた。いつもながら、いつ治っているのか、はたまた治しているのか、なぜ治るのかが分からなかった。
「中岩様。早急に“お仕事”をさせていただきますわ。ご安心を」
「……? そう。ならいいんだけど、なぜ私は倒れてたの?」
 晶に眼球を抉られた前後の意識が途切れているようだ。美帆は『またいつも通りだ』と、疑問符を顔に浮かべながら、不思議そうに晶を見つめた。当然ながら、晶からの答えどころか反応もなかった。
「とても興奮なさっておいででしたから、血が急激に頭へ上ったがゆえの昏倒かと。時が来るまでご自愛くださいね、そのお体と心……“御霊”を」
 含みのある綾弥子の言葉。そして御霊とは?
 彼女の真意は分からない。分からない事だらけで、美帆は考える事にも酷く疲弊していた。
 中岩は言われるがままに退室し、美帆たちは彼女を見送った。

 今まで綾弥子らの裏の仕事を見てきて、分からない事ばかりではあるものの、分かっている事が一つだけある。
 それは嘆願者自身が、綾弥子たちのいう“汚いモノ”であったなら、追い返した後で嘆願者自身を殺してしまうという事だ。しかし嘆願者が恨む相手、つまり標的の者が“汚いモノと定める卑怯な者”であった場合、相手先に出向いて闇に紛れて殺してしまうのだ。よって、結果的に嘆願者の願いを叶える形になっている。
 嘆願者の恨む相手を暗殺に出向く場合。その時、不思議と嘆願者たちの身内や関係者には出会わない。鍵のかかっているはずの扉も、晶が苦もなく開けてしまい、そして切れ味鋭い小さな銀色のナイフ一本でさっさと事を済ませてしまう。
 晶が特異なのか、それとも綾弥子が特異なのか、美帆には判断できない。どちらも怪しい事この上ない。しかし晶だけは、無表情無感情な中にもどこか、美帆に対して奇妙な温かい感情を垣間見る事ができるのだ。
 どういった心情から、そう接してくるかも分からない。だが、この茶館で、住み込みで働いている限り、頼れるのは自分と晶だけなのだと、無意識下での自己防衛本能が働くのか、そう感じていた。



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