黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     四

 以前と同じように、動きやすい地味な洋服に着替えた美帆は、晶が呼びにくるのを部屋でじっと待つ。
「あたしは何もできないのかな? あたしの言葉は、人を動かす事はできないのかな?」
 自問自答を繰り返し、美帆は大きくため息を吐く。悪いのは自分ではないと分かっているが、それでも自身の力不足が悔やまれる。
 その時、入り口の扉がコンコンとノックされた。
「美帆。準備は出来ていて?」
 綾弥子だった。
「は、はい!」
 美帆は慌てて扉を開ける。そして綾弥子と晶の姿を見て黙り込んだ。いつも通りの彼女らの姿を見て、何も言えなくなったのだ。
 綾弥子は晶に殺人を示唆するのだろう。
 晶は手際よく、ナイフで標的を切り刻むのだろう。
 それらを何も言えずに、自分はただ見ているしかできないのだろう。
 美帆は胸が苦しくなって、きゅっと両手で胸元を押さえた。
「じゃあ早速行くわよ」
 美帆の様子などお構いなしに、綾弥子が先陣を切って歩き出す。美帆は綾弥子に付いてゆき、そして後ろに晶が並ぶ。美帆を挟む形で、彼女らは時茶屋を出た。

 野瀬から聞いていた磯田の家は時茶屋からかなり歩いた場所にあった。碁盤の目のように広がるこの町に似つかわしい、角ばった木造の家だった。
 以前と同じように、晶が鍵など物ともせずに、門扉と正面玄関の扉を開く。
「晶くんは鍵開けができるの?」
 晶は一瞥くれただけで答えてくれる素振りはない。美帆は疑問を胸にわだかまらせたまま黙り込むしかなかった。
「さて。磯田さんはどこにいるのかしらねぇ?」
 そう言いつつも、綾弥子の歩みは迷いがない。廊下を土足で歩き、まっすぐ奥の部屋を目指している。
 野瀬から、磯田の家の間取りなどは聞いていなかったはずだ。以前も綾弥子は、迷いなく標的の部屋へ辿り着き、そして晶が凶行に及んだ。
 それら疑問を問いただしたい気持ちをぐっと堪え、美帆は磯田に掛けるべき言葉を頭の中で反芻する。何度も何度も。

「ここね」
 綾弥子は腕を組み、晶の方を向いた。晶はこくりと頷き、その扉を開く。
 室内は洋風の作りだった。花柄の壁紙に女性らしさを感じ、そんな部屋に磯田と思しき女性が寝台ですやすやと眠り込んでいる。こちらの気配にはまるで気付いていないようだった。
 相手は眠っている。綾弥子や晶にとっては仕事がやりやすく、美帆にとっては説得がしにくいという状態だ。美帆は彼女を起こすつもりで、大声を出すために息を大きく吸い込んだ。しかし綾弥子が素早く美帆の口を押さえる。
「ぐっすり寝ているのに大声で起こすのは悪いじゃない?」
 呆れるほど穏やかな口調で嗜められ、説得しようという美帆の意識が一瞬削がれる。しかしそれは綾弥子の企みだったらしい。
 美帆が身動きできない隙を突き、晶はポケットから取り出した薄い刃のナイフを振りかざす。そのままスパリと磯田の喉を切り裂いた。
「っ! か、はっ!」
 磯田は目覚め、そして血を吐く。いや、喉の傷から吹き出した鮮血か。
 信じられないといった目で、こちらを見やる磯田。綾弥子は美帆を開放し、フフと妖艶な笑みを浮かべて磯田に近付いた。
「あらぁ、どうしたの? 驚いた顔して? あなたの薄汚い行いを粛清してあげてるんじゃない。気に入らないわ、その眼差し」
 綾弥子が嘲笑すると、磯田は逃げ出そうと腰を浮かす。しかし布団に足を取られて大きく体勢を崩した。
 晶が二度目のナイフを振り下ろすと、磯田は腕で刃を受け止めて第二刃をかわした。しかし晶のナイフは切れ味鋭く、彼女の腕を深く切り裂く。そのまま間髪入れずに彼女の喉めがけてナイフを突き刺した。
 喉に食い込むナイフの刃。白目を剥いて崩れ落ち、磯田は絶命した。

 美帆は両手で口元を覆って、イヤイヤするように首を振った。
「綾弥子さんも晶くんも酷い……!」
 美帆の目から涙が溢れる。
「綾弥子さん! あたしはあたしの考えで、相手に説得を試みていいって仰ったじゃないですか! なのに邪魔をするなんて……」
「一切手出ししないとは言ってないわ。どうしてもというのなら、私を振り解いて好きにすれば良かったじゃない。私はあなたの口に手を添えていただけ。体は自由に動かせたはずよ」
 あっけらかんと自分を正当化する綾弥子。美帆は声を詰まらせて泣き出した。
 自身の無力さや策略の浅さに打ちひしがれるしかなかった。綾弥子に張り合おうなど、美帆には何年も早すぎたのか。涙が止めどなく流れる。
「酷い……どうしてこんな酷い事を平気な顔してできるんですか?」
「あら、酷いのはどちらかしら? 汚い心を持った者を粛清する事の方が大事だと思うのだけれど」
「だからって、殺す事ないじゃないですか」
 美帆が綾弥子を責めている間に、晶は死体に何かしていた。おそらく何かの隠蔽工作だろう。
「終わった」
「そう。じゃあ帰りましょうか。夜が明けたら野瀬さまはもう一度お店にいらっしゃるから、報告しないとね」
 磯田を殺したとしても、野瀬の作品はもう磯田作として流通している。今更「自分の作品だった」と声を大にして訴えたとして、誰が野瀬を信用するだろうか。それは彼も口にしていた事だった。そして野瀬は、磯田を殺して満足するのだろうか。
 あの純朴な青年は、綾弥子らの行動をどう思うのか、どう捉えるのか。朝になってみないと分からないが、決して納得しないような気がしていた。
 汚い者は粛清するという綾弥子たちの考えは、万人に受け入れられるものではないと美帆は感じていた。だからこそ、それを知る自分がどうにかしなければと考えていたのだ。
 用事を済ませた二人は静かに部屋を出て行く。美帆は重い体を引きずるようにして、磯田の家を出て行く綾弥子と晶を追った。



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