黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     三

 美帆が綾弥子たちの裏の仕事を手伝うようになり、少々間が空いた。
 さざなみも立たない何気ない毎日が繰り返され、すっかり気が抜けていたある日、時茶屋に一人の青年が花韮(ハナニラ)の小さな花束を抱えてやってきた。むろん美帆はそれが嘆願者だと気付くのが遅れ、いつも通りの明るい声で「いらっしゃいませ」と挨拶した。
 青年は少々面食らった様子だったが、ここが茶館である事を思い出したように、「ああ」と曖昧な返事をしてきた。
 さっそく席へ案内しようとしていた美帆を押しのけ、綾弥子が青年の前へと歩み出る。
「ようこそ、“特別なお客様”。お待ちしておりました」
 綾弥子の言葉を聞き、美帆はビクリと体を硬直させた。

 例外なくいつも通り、奥の休憩室に青年を案内した綾弥子は、青年に座布団を勧めて自分も膝を折って畳の上に腰を下ろす。
 青年は「どうも」と言って座布団へと腰を下ろした。そして陰鬱なため息を漏らす。
 ここへ来るという事は、何か深い悩みを抱えているはずだが、かなり意気消沈しているようだ。美帆には彼の体が、一回り小さく見えていた。
「お客様、お名前から伺いましょうか」
「は、はい。俺は野瀬(のせ)達生(たつお)といいます。新人ですが作家をしています」
 野瀬は花韮の花束を傍へ起き、クッと唾を飲み込む。意気消沈しているだけでなく、かなり緊張しているようだった。当然だった。
「ではお話を伺いますわ、野瀬さま」
 綾弥子は淡々と会話を進め、晶はいつも通り彼女の後ろに立ったまま控えている。美帆は体を小さくして部屋の隅で膝を抱えていた。
「実は……俺の処女作が盗作されたんです。いえ、盗作なんてものじゃない。俺の作品をそのまま筆名だけ変えて別の作家に発表されてしまったんです。一生懸命書いた作品で、両親にも応援されてたのに。俺、悔しくて……悔しくて、どうにか作品を取り戻したくても、もう後の祭りで、どうにもならない。それが悔しいんです」
 野瀬は深く項垂れ、「悔しい」を連呼する。
「心中お察ししますわ。それで盗作した別の作家というのは?」
「磯田(いそだ)祥子(しょうこ)という、女流作家です。彼女は俺の作品作りにも協力的で執筆中もいろいろと励ましたりしてくれたりしました。でもまさかこんな汚い真似をされて裏切られるなんて思ってもいなかった。盗作が発覚してから問い詰めたら『今は女流作家こそ売れるのだから、あなたが発表するより私の名前で売りだした方が流行する』と」
 青年の目は赤くなり、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気だった。作家としてまだまだ経験の浅い彼は、その作品に対して並々ならぬ愛着を持って執筆していたようだ。だからこそ、綾弥子たちを頼って磯田に仕返しをしたいと願ったのかもしれない。
「彼女の言ってる事は理にかなっているかもしれない。でも俺だって必死に作品を書いたんだ。それを鳶が油揚げを掻っ攫うように持っていかれるなんて、あまりにも酷い仕打ちだと思いませんか? 俺は、俺は……!」
 野瀬はついに男泣きに泣き出してしまった。ぐいぐいと袖で目元を拭い、引き詰まった声で嘆願してくる。
「磯田を懲らしめてもらえませんか? こちらにお願いすれば、恨みを晴らしてもらえると聞いてやってきたんです。どうかお願いします。どうか……」
 綾弥子は妖艶な笑みを浮かべたまま、くいと眼鏡のつるを押し上げる。野瀬は黙って綾弥子を見つめていた。
「そうですわね……では真意を確かめさせていただきましょう」
「真意?」
 晶が無言のまま、野瀬の正面に膝をつく。そしてスッと手を彼の眼前に翳した。すると野瀬の瞳から光が消え、心ここにあらずといった様子に変化した。まるで意識を失う寸前のように、ふらふらと体が揺れている。美帆はとっさに助け起こそうとしたが、伸ばされた綾弥子の腕に行く手を遮られてしまった。助けは必要ないという事なのだろう。

 そこからの光景は不気味で不思議だった。
 嘆願者からの訴え、願いを聞き、そして──晶が嘆願者の目を、そのしなやかな指で抉る。そしてぽっかり空いた穴を覗きこんで、嘆願者の言葉の真意を確かめるのだ。血が噴き出す眼球痕の何を見ているのかは分からない。凄惨にして残酷な瞬間だ。
 美帆にはそれが耐えられず、顔を逸らして強く目を閉じてしまう。そんな彼女の様子を、綾弥子はクスクスと笑いながら眺めていた。
 そして晶が真意を見極めると、嘆願者の傷は消えている。以前の嘆願者である日向もだったが、この野瀬も同じだった。晶が離れると、抉られた目は元に戻っており、傷跡など綺麗に消えてしまっている。
 目を抉るなど、手当をしてすぐ治るという行為ではないだけに、美帆には晶のその行為が不思議でならなかった。まるでまやかしか魔法にでも掛けられているような気分になった。

「真実」
 晶は普段の言葉使いと変わらず短く答え、野瀬から離れて綾弥子の背後へと移動した。野瀬はその場に倒れて意識がまだ戻っていない。そしてやはり、目を抉られた痕跡は消えていた。
「盗作されて、問い詰めれば開き直られて、可哀想な坊やね。心は純粋で純朴。残すべきキレイなモノという訳ね」
 綾弥子は指先をペロリと舐め、フフと笑った。まるで獲物を見つけた肉食獣のような様子に、美帆の背筋に冷たいものが流れた。

 少しして、野瀬がむくりと起き上がった。
「あれ? 俺は?」
「野瀬さまは少し興奮されていましたので、極度の緊張から意識が朦朧とされたのでしょう。気分が優れないのなら、もう少しお休みになっておきますか?」
「そうですか。すみません、恥ずかしい所を見せてしまって」
 野瀬は僅かに頬を染めて頭を掻く。こうした照れ笑いを浮かべると、なんとも愛嬌のある顔立ちになると、美帆は心に思った。
「あの、それで俺の望みはどうなりますか?」
「ええ。近く執行させていただきます。安心してお待ちくださいな」
 綾弥子が承諾したという事は、また新たな殺人を犯すという事だ。
 こんな愚かしい真似はいつまで繰り返さねばならないのか。説得するなら今しかない。美帆はキュッと胸元を押さえる。そして意を決して野瀬に語り掛けた。
「野瀬さん」
「な、なんでしょうか?」
 美帆の行動に、綾弥子も晶も何も言わない。静観しているだけだ。
「復讐なんて虚しくなりませんか? 確かにデビュウ作を盗作された事は辛い事かもしれませんが、次を目指して新しい作品を書けばいいんじゃないかと、あたしは思うんです。今の悔しさをバネにしたら、次の作品はきっとすごく良い物になるんじゃないかって」
「君に何が分かる!」
 野瀬は声を荒らげて美帆を強く睨み付ける。今にも飛び出してきそうなほど、迫力のある大声だった。
「俺があの作品にどれだけ心血注いだかも知らないで、簡単にそんな事は言わないでくれ! 俺は常に負けて引っ込んでいろと、君は言うのか? 磯田に盗作され続けろと言うのか!」
「ごっ、ごめんなさい!」
 あまりの野瀬の剣幕に、美帆は首を竦めてぎゅっと目を閉じる。
 そして恐る恐る瞼を開くと、野瀬は顔を赤くしたまま口を真一文字に引き結んでいた。もう美帆とは会話してくれないであろうという事は、彼の表情で分かった。
「野瀬さま。うちの者がご無礼を。どうかご容赦ください」
 綾弥子がこの隙を待ち構えていたかのように、詫びる素振りを見せる。綾弥子に詫びられ、野瀬の怒りは一旦治まったらしい。
「磯田の事、お任せしても大丈夫なんですね?」
 疑惑の瞳で野瀬は綾弥子を見つめる。
「それに関してはお任せください。秘密裏に行動させていただきますので、野瀬さまは吉報をお待ちください」
「お願いします」

 それからごく簡単な打ち合わせとして、磯田の家の場所や、報酬について話し合った。
 ところが報酬は彼の持ってきた花韮でいいと告げると、彼は不思議そうな顔をして、鞄から封筒を取り出して見せる。中身は現金だったが、綾弥子は丁重にそれを断った。
「報酬を受け取ってもらえないんですか?」
「私どもの報酬はこのお花で充分ですわ。欲に塗れた薄汚い金品などいただきません」
 綾弥子はきっぱりと、現金での報酬を断った。
「しかしそれでは対価が見合わないでしょう?」
 まだ腑に落ちないといった様子で、野瀬は封筒を綾弥子に差し出す。綾弥子は受け取らないという意志を示す意味で、両手を背後に組んだ。
「野瀬さま。私どもに依頼するのでしたら、私どものやり方や約束事に従っていただきませんと、ご依頼を無かった事とさせていただきますよ?」
「それは困ります! もし俺が磯田を貶めたなんて噂を立てられたら困る!」
 野瀬は慌てて封筒を引っ込める。そして綾弥子の機嫌を伺うように、卑屈な態度になった。
「どうかお願いします。俺の無念を晴らしてください」
「ではお花をいただきますわね」
 そう言って綾弥子は花韮の花束を受け取り、満足そうに頷いた。

 ひと通りの話が終わって、野瀬はすっと立ち上がる。そしてさきほど言い争った美帆に一瞥くれると、その後は彼女を見ないようにして部屋を出て行った。
 野瀬を怒らせてしまったが、悪い事をしたとは思わない。一人でも綾弥子たちの手から救えるのなら、との思いが美帆の心に強く根付いていたから。
 そして今回も、誰も救えないのではないかと自責の念に駆られた。
「美帆。明日の夜、行く」
「はい……」
 晶に促され、美帆は項垂れたまま短く返事をした。




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