黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


   1→12 替わる


     一

 記憶の中に現れた綾弥子と晶は、少女の手から篝火花の花を受け取る。綾弥子は篝火花の花を指先でクルクルと回して妖艶な笑みを浮かべた。
 彼女の黒いワンピースを背景に、白い篝火花は綾弥子の指先から放たれる小さな遠心力で花弁が揺れ、千切れそうになっている。
「うふふ。あなた、とっても醜いわ。自分の幸せだけを願って、家族を妬み、彼らの死を請う。自分の手は汚さないままに。そういうの、とっても汚れて穢れてキタナイわぁ」
「い、いきなりなんなの? 自分の幸せを願っちゃいけないの? 悪いのはお父さんやお母さんたちの愛情を独り占めする弟じゃない!」
「全て真実。だから汚い」
 晶がスラックスのポケットから、小さなナイフを取り出した。そしてパチンと刃を引き出す。
 はっと美帆は息を飲む。晶の持つナイフが何の意味を持っていたか、なぜそのナイフに既視感を抱いたのか、ようやく気付いたからだ。あのナイフこそ、美帆の命を、今までの嘆願者たちの命を奪い取ってきたナイフだったと気付いたのだ。

「や、やだ! あたしを殺すの? 殺してってお願いしたのは弟なのに! あたしじゃないよ! 相手を間違ってるよ!」
 晶は無言で少女に大股で歩み寄り、いつもと変わらぬ見事な手さばきで、サクリと彼女の喉を切り裂いた。
 初めて彼女が綾弥子と晶の裏の仕事を手伝った時、晶のナイフを見て既視感を、恐怖や不快感を抱いたのは、その同じナイフで己の命を奪われていたからだった。

 美帆は発狂したように、ただひたすらに叫んでいた。声にならない声で。自身の運命を呪いながら。
 自分は晶に殺されていた。なのになぜ、生きてあの茶館で働いていたのか。
 茶館での毎日は、はっきりと記憶に残っている。けれど故郷の事、家族の事は何も覚えていない。それは晶か綾弥子が自分の記憶を操作したものなのか。それとも、自分もあの黒渦と呼ばれる振り子時計のまやかしに操られてしまっていたのか。
 何も分からない。
 一切何も分からない状態で、あまりに惨たらしい全ての結論だけを強引に、強制的に見せられ、植え付けられた。
 途中経過が何も分からないのだ。これほどもどかしい事はない。悩む事、苦しむ事、考える事を拒絶されるほど、もどかしく不快極まりない事などない。
 全身の皮膚と肉の間に砂が挟まっているように、痒く痛くうずくのに、掻き毟る事も悶える事もできない。ただただ意味なく叫ぶ事しかできない。いや、声を出して叫ぶ事さえ拒否され、できないでいる。
 誰かが自分の言動の全てを掌握している。自身の意志など無関係に、誰かに、おそらく黒渦と呼ばれるあの振り子時計に、言動の全てを握られ、操られている。
 モノに操られている。美帆も、晶も、綾弥子も。異質なモノに、操られ、動かされ、生かされているのだ。

 少女の掻き切られた喉から、ひゅうひゅうと息が漏れている。血だまりの中から苦しげに呻き、それでも請い、求める。
「助け、て……タスケテ……お願、イ」
 手に付着した“血液の汚れ”だけを執拗に気にして、晶は足元に横たわる少女の声など聞いていない。
 そんな彼のすぐ傍で、綾弥子は興味津々といった様子で、少女を見つめる。
「ふぅん。助けてほしいの? 命が惜しいの? でもあなたを助ける価値、無いわよね? だってあなたは“ヨゴレテ”いるんだもの。“キタナイ”の」
「助けて、助け……」
 血だまりの中から懇願する少女は、血に塗れた手を伸ばす。救いを求めて。

 美帆は戦慄した。このやり取りを覚えているのだ。いや、今まで忘れていたのだが、実際目の前でその情景が再生され、湧き水が溢れ出すように思い出したのだ。
 自分は生まれたばかりの弟を、家の跡継ぎになる男の赤ん坊を可愛がる両親を妬ましく思い、自分から両親の愛情を奪った弟を疎ましく思い、自分を見つめ顧みてもらえないならと、彼らの死を願った。思春期の少女の気まぐれや癇癪とも言える、微細な気持ちの落差に巻き込むように、他人の、身内の死を願ったのだ。
 これほど身勝手でどす黒く汚れた欲望など、他にあろうものか。
 そんな仄暗い欲望を見逃すような、晶や綾弥子、あるいは黒渦の振り子時計ではない。
 振り子時計が無意識化で魅せる、妬みや嫉妬といった、負を連想させる花言葉を持つ花を嘆願者に持たせ、そしてその元へ、晶と綾弥子を引き寄せる。あるいは招き寄せられる。
 嘆願者の言葉から、晶によってより醜い方を見極められ、殺されるのだ。
 御霊を吸い取り、晶の寿命を延ばすために。晶が永遠ともいえる生を望むゆえに。病弱な体を妬み、生に強く執着するがゆえに。
 淀み、歪んだ輪廻が幾度も幾度も繰り返される。それは振り子時計の黒い渦となって、刻まれてきた。あの古時計の文字盤の黒い渦は年輪などではなく、無限に奪ってきた命の数だったのだ。

 黒渦──人の御霊を喰む、あるいは強制的にCLOSE(終わり)にさせる、忌まわしき恐ろしき意志を持つ振り子時計。

 自らも嘆願者だった──
 その事実に、思わず吐き気をもよおす。自分に後ろ暗い所はないと、清廉潔白に生きてきたはずだと、何もかも忘れさせられて時茶屋で働き、ちっぽけな正義感で晶や綾弥子の行いを改心させようとしてきたというのに、自らがこんな黒い欲望を剥き出しにして、彼らや黒渦を呼び寄せていたとは。
 弟は生まれたばかりで手が掛かるのだから、両親の関心がそちら寄りになるのは当然なのに、それを自分ばかりが不幸だと決めつけ、三者もの死を願うとは。晶や綾弥子が「汚れている」と言うのも頷けるではないか。

 他者に死をもたらし、自らは生き永らえるという手段はいただけないが、晶の気持ちも分からなくはない。
 労咳=結核などという質(たち)の悪い疫病を患い、誰からも見放され、そして一人、蔵に閉じ込められるという境遇は哀れみを誘う。余命幾ばくもないゆえに、生きたいと強く願う気持ちも理解できる。
 しかしそれはあまりにも利己的で身勝手な願いだった。この世ならぬ“振り子時計の力”を使い、世の条理を狂わせる、あまりに浅はかで卑劣な、忌まわしき行いだった。

 味などない、つるりとした舌触りの、ひんやりした外見からは想像できない、焼けつくように熱い、他者の命。それが──御霊。
 御霊を喰めば延命できる──そう、美帆自らも死の間際、晶に御霊を喰ませてもらっていたのだ。

 彼は生に執着するあまり、事の良し悪しがあやふやになってしまっているのだ。
 だからこそ振り子時計の提示してきた、正気の沙汰ではない甘言に惑わされてしまったのだろう。
 こうなるとやはり、あの振り子時計は何なのか、詳しく調べなくてはならない。物怪や付喪神ならば、それ相応の対処が必要だ。

 そうと決まれば、今、この状況を一刻も早く脱却せねばならない。今は──晶が綾弥子の御霊を喰み、その光景を見て、美帆の脳裏に自分と晶の過去の記憶が一瞬で流れこんできた、という所で、時が止まっているはずだ。
 体が動かない。実体が無いような気がする。そんなものはただの甘えだ。美帆はそう自分に言い聞かせ、渾身の力で視線を動かそうと、体を起こそうと、奥歯を食いしばった。
 晶や黒渦を正せるのは、全てを知った自分しかないのだから。そう必死に自分自身を鼓舞した。




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