黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


    三

「あんな子、いらない」
 すぐ背後で声がして、美帆は振り返る。いや、振り返ったというより、意識をそちらへ向けたのだ。今、自分はおそらく、実体のない意識だけの存在だと、薄々感付いていたから。
「神様。いえ、悪魔でも死神でも誰でもいいです。あの子を殺してください。お父さんもお母さんもいりません。あの子と一緒に殺してください。あたしの前からいなくなってほしいんです。あたしを幸せにしてください」
 何の前触れもなくいきなり残酷な願いを口にする少女の姿を見て、美帆はまたもや仰天した。その少女は自分自身だったのだ。
「あの子は泣くだけで、いつでもお父さんとお母さんの愛情を自分のものにできる。だけどあたしが泣いても返って怒られるだけ。お姉ちゃんでしょって。お姉ちゃんだったら何もかも我慢しなくちゃいけないんですか? そんなのおかしいです。あたしが大好きで大事だって小さい頃は言ってくれたのに、あの子が生まれてから、あたしはずっとひとりぼっちです。だからあの子を殺してください。あんな子、あたしの弟だなんて認めない」
 弟? 自分には弟がいたのか? いやそもそも、この少女は自分の姿をしているが、本当に自分なのだろうか?
 自分の過去を思い出そうとするが、急に頭が割れそうに痛む。何も思い出せない。故郷の事、家族の事。何も。何も。そしてもう考えるなと言わんばかりに、真っ白な霧が広がり白い絵の具に塗り潰される。
 いつかの時と同じだった。あの時は冨田に故郷の事を聞かれて、過去の記憶が何かに塗り潰されたように薄れて思い出せなくなっていた。
 今回も同じだった。過去を思い出そうとすればするほど、記憶の海は白く大きくなって全てを海底へと沈み込ませてしまう。
 それでも今回は、無理やりにでも思い出さなければならないと思った。だから、自らその真っ白な記憶の海に飛び込んでいく自分を想像した。

 目の前の少女は相変わらず、純粋で残酷な願いを続けている。両親が憎い、弟が憎い、自分を取り巻く環境が憎いと、何度も何度も。
「殺してください。あの子とあの親たちを。あの人たちが死ねば、きっとあたしを悪く言ったりいじめる人はいなくなって、あたしは幸せになります。あたしは幸せになりたいんです。あたしはもうひとりで生きていけるんです。ひとりの方がずっと幸せだから」
 少女はそう願い、着物の袖から一輪の花を取り出した。象牙色の篝火花(シクラメン)だ。
『花! いけない!』
 美帆が、少女の意図に気付いた時にはもう遅かった。少女の背後に一組の男女が現れる。彼女がよく知る、黒いワンピース姿の綾弥子と、白いシャツに濃紺のスラックス姿の晶だった。
 綾弥子は以前と変わらぬ妖艶な笑みを浮かべ、背後に佇む晶は、無感情で細い唇を引き結んで綾弥子の様子を窺っている。
 綾弥子は一歩歩み出し、片手をそっと少女の前に突き出した。

「こんにちは。“特別なお客様”。あなたの望みを叶えにきたわ」




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