黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     二

 ボソボソと囁き合う誰かの声が聞こえる。大人の男たちの、声。
「坊の奴、労咳(ろうがい)(※結核)だってな」
「なんだって? 労咳っていや、同じ部屋の空気吸ってるだけでも感染するんだろ? それじゃあ使用人である俺らも、同じ屋根の下にいるんじゃ、いつか伝染(うつ)って血を吐きながらのた打ち回るんじゃないか? 嫌だぜ、俺は。死にたくねぇ」
「大丈夫だ。旦那様が坊を蔵に閉じ込めたってよ。治るまでだって言ってたが、ありゃ閉じ込めて見殺しにする気だな」
「うへぇ。旦那様は怖ぇなぁ。坊も災難だ」
「坊に姉さんがいたのが幸いだぁ。姉の方に、外から跡継ぎとして婿を取る気らしいぜ。俺たちの仕事はなくらならねぇよ」

『なに、これ? どういう事? 坊って誰?』
 美帆は見知らぬ男たちの言葉に眉を顰ませる。
 誰の事を話しているのか。労咳になったのは誰なのか。一体いつの会話なのか。自分の経験だったのか。誰かの過去だったのか。
 たったこれだけの会話では、何も分からない。
 しかしこの男たちが、病になった『坊』と呼ばれた者を影から嘲り蔑ろにする、酷いやり取りだという事は理解できた。
 小さな嫌悪感を露わにすると、今度はまた別の記憶が流れこんできた。

「死にたくない。労咳だなんて……どうして僕が」
「生きたい……生きたい……生きたい……」
「誰か助けて、助けて。助けてください」
「なんでもします。僕を助けてくれるなら」
「神様でも仏様でも誰でもいい。妖(あやかし)でも鬼でも悪魔でも……」
 重たい咳が混じる切実な願いを繰り返す声には聞き覚えがあった。
『晶くん?』
 声に出して呼びかけてみるが、声帯が震える気配がない。声に出したはずなのに、自分の耳に自分の声が響いてこなかったのだ。
 まるで実体がないかのようだ。美帆は自身の手で体に触れてみようとしたが、指一つ動かす事ができなかった。いや、手や指という感覚すら曖昧で、自分の意識と繋がっていないかのように感じられた。
 しかも自分はそこにいてこの状況を見ているのに、存在自体が希薄なもののように感じられた。幽霊にでもなっている気分だった。

「誰? そこにいるのは誰? 誰でもいい。僕を助けて」
 晶の声に呼応するかのように、コチコチと時計の振り子の音が聞こえ始める。晶と対話するように、振り子の音が晶の言葉に呼応する。
「……黒渦? それがキミの名前?」
 ここでもまた黒渦か、と、美帆は興味を惹かれる。そしてじっと耳を澄ませて彼の言葉を聞いた。今、彼女は“聞く事”しかできなかったから。
「……御霊、を、喰む? それってどういう事?」
 晶らしき人物は、胸に吐いた血の痕跡を押さえながら、蔵の隅にある大きな振り子時計に擦り寄っていく。まるで餌に導かれる小動物のように。
『晶くん……誰と話してるの?』
 時計の振り子の音はますます大きくなる。彼には振り子の音がはっきりとした“声”として認識できているようだが、美帆にはコチコチという振り子が振れる音にしか聞こえない。そして美帆が発した疑問の声は晶に届いていなかった。
 やはり自分はこの場に存在しないのかと、諦めかけた時だ。
「そう……悪い大人を殺して、その御霊を浄化したものを喰めばいいんだね? 御霊を喰めば、僕は生きられるんだね? できるよ。僕、やれるよ。それでずっと、たくさん、生きられるなら」
 吐血した襟元を袖で拭うと、袖にも血が付着した。
「汚れる……血は、汚い。僕の血でみんなが労咳に感染する。だから僕は汚い。穢れてる。汚れてる。排除される。だから粛清される。そんなの、嫌だ」
 彼の口から粛清という言葉を聞き、美帆は自分の考え違いを悟る。黒幕は綾弥子だと思っていたが、晶こそが黒幕ではなかったのだろうか? 晶が綾弥子を操っていたのではないだろうか?
 過去の姉弟のやりとりを思い出しながら、美帆な目の前の光景を黙って眺める。
 咳き込みながら這い進み、晶は古い振り子時計に縋り付いた。
「父さんも母さんも、姉さんだって僕を裏切って見捨てた。僕が最初に喰む御霊は……この三人の御霊だね。それで僕はずっと永遠に生きられる」

 彼の吐露と過去の記憶を見、美帆は仰天した。自分の考えを遥かに凌駕する事実に度肝を抜かれた。
 晶に結核患者であったという過去があり、そして他人の命を喰みながら、長く生き延びてきたという事実に。一体どれだけ長く生き永らえてきたのかは分からない。結核を“労咳”と呼んでいた時代はどれだけ昔だったか。健康に育ってきた自分には、思い出すための知識も経験もない。
 とにかく晶は、美帆の知る時より遥か過去から、あの姿で生き永らえてきたのだ。他人の魂──“御霊”を喰みながら。
 しかも他人の魂を食らうという方法を提示したのは、あの古い振り子時計だとは。時計に物怪(ぶっかい)か付喪神(つくもがみ)でも取り憑いていたのか。あるいは時計が妖になったのか。それは分からないが、晶が『黒渦』と呼んだ振り子時計の示す甘言に唆されたのは事実だ。
 すべての根源は綾弥子ではなかったのか? これではまるで、晶が黒幕ではないか。いや、綾弥子や晶をも利用した、あの振り子時計か。
 人ではなく、モノが根源だったという事実に、モノが人間を操って、他者の魂を浄化と称して食い潰していた事実に、美帆は戦慄していた。

「御霊……僕の命をつなぐ御霊。ねぇ、喰ませてよ、早く……」
 見たこともないような恍惚の笑みを浮かべ、晶は振り子時計にピタリと頬を寄せた。
 硝子戸にもう一つの晶の顔が映り込む。それは美帆の知る、仏頂面で何事も淡々とこなす、無感情な少年のそれだった。その硝子の向こうの少年は小さく口元を歪めて笑った。
 これから起こる出来事を揶揄するような、彼らしくない笑みだった。
 美帆は呆然と彼を見つめている。すると今度は別の“声”が聞こえてきた。



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