黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


   2→1 屠(ほふ)る


     一

 二つの死体が転がる部屋から漏れだす高らかな嘲笑。綾弥子だ。
「汚れてるわよね? ねぇ、汚れるってどういう気持ち? 死にそうになるってどんな気持ち? キタナイのよねぇ? だってすごく見苦しいもの。すごくヨゴレテいるんですもの。晶の大嫌いな“ヨゴレル”って、どんな気持ちなの?」
 狂ったよう笑う綾弥子が、問い掛けを繰り返す。傷口を押さえながら、晶はグッと唇を噛んだ。
「寄らないで。触らないで」
「寄るわ。触るわ。だって晶が面白いんだもの」
 綾弥子が笑いながら、クシャクシャと晶の髪を乱す。屈辱を受けるように、晶はただただ綾弥子の行為に耐え、唇を引き結んで俯いている。
 美帆は息を詰まらせ、意を決して綾弥子を背後から羽交い締めに抱き留めた。そして晶から引き剥がそうと力を込める。
 身長差はあるが、僅かに晶から綾弥子を引き離せた。なんとか綾弥子の手が晶に届かない距離だ。これで多少は晶も安心するだろう。
「やめてください、綾弥子さん! 晶くんは怪我人なんですよ? それに中岩さんと揉めた時の物音、ご近所に聞かれちゃってるかもしれないじゃないですか! ここは一旦、晶くんを連れて帰らないと! 見つかったら警察に捕まっちゃうんですよ!」
 晶から綾弥子を引き剥がしたのち、美帆はすぐさま晶の背に腕を回す。
「晶くん、しっかりして! 今、連れて帰ってあげるから」
「触らないで」
 晶は美帆を拒絶するように、彼女の手を振り払った。だが美帆はそれでも彼の腕を自分の肩に回そうと手を延ばす。
「そんな事を言ってる場合じゃないよ!」
「触ら……触るな!」
 今まで聞いた事もないような声音で、晶は美帆の介助を全力で拒否した。驚いた美帆は思わず目を見開いて竦み上がる。
 自らが大怪我をするという、こんな状況に陥ってまでしても、晶が他人との接触を嫌がる理由が分からなかったのだ。もはや潔癖症という単語で一括りにできないほどの、極度の接触嫌いと言ってもいい。彼も綾弥子と同じく、頭のどこかの配線がおかしくなっているのかもしれないと、美帆はうっすらと感じた。

 晶が口元に滴る血をグイと手の甲で拭う。そのまま血に汚れた手を見て、秀麗な表情を歪めた。
「キタナイ……僕が汚れてる? 穢れ……ヨゴレたくない……もう……」
 自らの血を、中岩の血を、木原の血を、忌々しげにシャツの袖に擦りつけて拭おうとする。しかし血痕は広がるばかりだった。
「晶くん! おなか、早く止血しないとダメだよ!」
 美帆が再び晶に近寄ると、晶はグッと手の平を美帆の眼前に向けて広げ、彼女が近寄る事を無言で拒絶した。
「晶くん……」
 意識が朦朧としてきたのか、晶はブツブツと口を動かし、何か言っている。
「御霊……殺してすぐは浄化されてな……化しないと……“黒渦”に喰ませて……僕が喰んで……ダメだ、間に合わない……」
「な、何を言ってるの? 黒渦って何? 綾弥子さんの事じゃなかったの? 浄化とか、御霊とか、意味分かんないよ。晶くん」
 美帆は涙ぐんで、晶を心配して声を掛ける。しかし彼の耳には届いていなかった。自らの言葉に酔うように、晶は傷口を押さえてブツブツと独り言を繰り返している。
「晶? 痛いの? 汚れてるわよぉ?」
 美帆の背後から、狂喜の笑みを浮かべた綾弥子がひょいっと顔を覗かせる。すると晶は綾弥子を見上げ、僅かに口角を上げた。

「……あった。浄化された御霊。“替わり”も、ある」
 それまで屈辱と痛みを堪えて表情を顰めていた晶が、まるで宝物を見つけたかのごとく、ニタリと嫌な笑みを浮かべた。

 すっと手を伸ばし、晶は綾弥子の胸ぐらを掴んで引き寄せ、眼鏡を毟り取った。簪で纏めた彼女の髪がハラリと崩れて、背に艷やかな黒髪が広がる。
 綾弥子は目を丸くして、掴まれた胸ぐらを凝視している。晶はハァハァと肩で息をしながら、今まで一度として見た事もない、醜悪に歪んだ笑みを浮かべた。
「何するの? 私も汚れちゃうじゃな……」
「御霊、もらう。もう“このアヤコさん”は終わりだから」
 晶は目を細めて小さく笑い、綾弥子の眼球を白く細い指で抉った。

「ア、アアアアッ!」
 声にならない悲鳴をあげ、綾弥子が抉られた目を押さえて悶絶する。だが晶は綾弥子を離さない。その光景を間近で見て、乱暴に抉られた綾弥子の眼球痕から飛び散った血を浴びた美帆も、思わず悲鳴をあげていた。
「イヤアアアッ! 死にたくない! 死にたくない! アキラァァァッ! お願い晶、助け……アアアッ! アキラァァッッ!」
「御霊……浄化された御霊っ、僕のもの! 全部、全部!」
 晶は暴れる綾弥子を押さえつけ、まるで接吻でもするように、抉り取った綾弥子の眼球痕から血を──いや、立ち昇る靄(もや)のようなものを啜っていた。

 コクコクと喉を揺らして、アヤコだったモノの“御霊”を喰む晶。

「あ、晶くん! 綾弥子さんになんて事!」
「死なない。死んでたまるか。僕は永遠に……生き……っ!」
 姉弟とは思えぬ凄惨な情景を前に、美帆の脳裏に歪(いびつ)な思考が流れこんできた。自らの記憶と、誰かの記憶とが絡み合い、混ざり合っているかのような、異質な記憶だった。




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