黒渦-CLOSE- 仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語 大正浪漫風混沌系サスペンス 町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」 美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える 彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事 だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった―― |
四 静まった室内。喉を切り裂かれて転がる二つの女性の死体。そしてナイフの刃を腹に食い込ませて、唇の端から血を滴らせている晶。 ふうふうと、苦しげな吐息が彼の唇から漏れる。 「あきら? 晶!」 綾弥子が声を荒らげて、晶に駆け寄る。 「……」 晶は無言のまま、美帆を見た。美帆は小さく首を振り、手に付着した血を見る。 「あたし……じゃない。あたしは晶くんを止めようとして!」 ほんの少し、いつもと違った些細な事故だった。 晶を止めようと美帆は飛び出したが、素早く中岩の首を切り裂いた晶のナイフは、彼が逆手でそれを握っていたために、美帆がぶつかった衝撃で自らの腹部を刺してしまったのだ。運が悪かった、当たり所が悪かった、としか言い様がない。 「し、止血! 止血しなきゃ! 晶くんシャツ脱いで!」 美帆が駆け寄ると、晶は血塗れの手を突き出して、彼女の接近を拒絶した。 「触らないで。近付かないで」 晶はガクリと膝をつき、肩で息をしながら美帆を拒絶する。自らの傷が鮮血を溢れさせシャツを汚しているというのに、晶は誰かに触れられる方を拒絶した。まるで己以外が全て、彼の言う“キタナイモノ”であるかのような振る舞いだった。 数秒の沈黙が辺りを支配したのち、ふいに綾弥子が低く笑った。フフと、クスクスと、低く、小さく笑った。そして胸を逸らして大きく天を仰ぐと、クイと眼鏡のつるを押し上げつつ、大きくアハハと笑い出した。実の弟である晶を嘲笑し、穢らわしいようなモノを見る目で声をあげて笑い続ける。 「あらぁ? 晶、随分ヨゴレているわね? 血でグチャグチャ。汚いわぁ」 「綾弥子さん? 今はそんな事、言ってる場合じゃ」 「アハハ! ウフフ! 晶が汚れてる。血に塗れてる。穢れてるわぁ!」 壊れたように綾弥子が晶に嘲笑を浴びせる。狂気染みた笑い声に、美帆はゾクリと背筋が凍るような錯覚を抱く。 弟が怪我をして、なぜこの人は笑っていられるのだろう? しかも流れ出る血を見て穢れているとも。 これほどの出血をしている彼を見て、心配ではないのか? どういう神経をしているのだ? 「晶が汚れてる。キタナイわぁ」 「あ、綾弥子さん! 今はそういう事を言ってる状況じゃないですよ!」 美帆が食い下がろうと、綾弥子は嘲笑をやめない。完全に狂っているとしか思えない。美帆は得も言えぬ恐怖に、ジリ、と思わず後退してしまう。綾弥子が恐ろしくて仕方なかったのだ。 「ねぇ晶。汚れるってどんな気持ち? 二度と汚れないんじゃなかったの? 血って汚いわよね? ドロドロで、グチャグチャで、洗っても洗ってもこびりついてる。紅くて黒くて不吉で、すっごく嫌な色よねぇ?」 「……」 晶は腹部からナイフを抜き、シャツの上から強く抑えた。指の隙間から、ドクドクと溢れる鮮血。ナイフによる裂傷や流血は、これまで嘆願者たちや標的の死として幾度も見せ付けられてきたものだが、晶が、自分と親しき者がその対象だと思うと、美帆は気が遠くなりそうで頭が真っ白になってしまった。 「ねぇ、晶? 晶が汚れちゃった。ウフフ。晶、死ぬの? 血で汚れて死ぬの? 死ぬってどういう気持ち? ねぇ、晶?」 ハッと綾弥子を見上げる美帆。今のセリフから、綾弥子は死というものを理解していないのではないかと感じたのだ。 「綾弥子さん……晶くんが怪我して何とも思ってないんですか?」 「ウフフ。そうねぇ……血で汚れてキタナイ、とかぁ? アハハ!」 間違いない。綾弥子は死を理解していないのだ。だから晶を、中岩や木原、それにこれまで殺してきた者たちを見て笑えるのだ。美帆は確信した。 綾弥子は──狂っている。 |
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