黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     三

 中岩の自宅は小洒落た住宅街の中にあった。その一つの邸宅の扉を、晶はまた苦もなく開けてしまう。
「あの、綾弥子さん。中岩さんの事、やっぱり考え直してもらえませんか? こんなの間違ってる」
「汚いモノは粛清するの。綺麗にするの。それのどこに考え直す要素があるの? 間違いだっていう理由は? その考え方だってあなたの利己的な考えの一つじゃないの?」
 逆に真顔で問い返され、美帆は黙り込む。晶も綾弥子の向こうでコクリと頷いていた。

『本当にこの人たちは、自分たちの行為に疑問や罪悪感を抱いていないんだ』
 改めて、そう悟る。

 自分がやろうとしている事が、力及ばず意味のない事ならば──では矛先を変えてやればもしかして──嘆願者や殺害目的の相手を諭そうとしないで、諭す相手を変えてみたならば──
 様々に思考を巡らせて、美帆はその答えを見つけ出す。二人の姉弟の後ろ姿を見ながら、彼女はきゅっと拳を握り締めた。

 中岩の邸宅は中層階級の者たちが多く住まう住宅街の中にあった。決して贅沢ではないが、立派な門構えである。
 門扉の脇にある郵便受けにはもう本日の新聞が配達されており、美帆たちが訪れた時間は早朝である事が分かった。
 いつものように晶が門扉を両手で押して開け、すかさず綾弥子が中へと滑りこむ。美帆と晶も数呼吸遅れて彼女に続いた。

 靴も脱がずに邸宅へ上がり、綾弥子はまるで自分の屋敷内を歩くかのごとく、迷いなく奥へ奥へと進んでいく。そして一つの部屋の前で立ち止まり、襖を開けた。
 部屋の真ん中に無造作に敷いた布団で眠り込んでいる、がっしりとした体格の女性。中岩ではないので、彼女が秘書の木原なのだろう。
「晶、やりなさい」
 綾弥子の指示に、晶が素直に動く。そんな彼の前に、美帆は飛び出し、両手を広げた。木原を庇うように、だ。
「やめて! 晶くん!」
 木原を起こすが如く、美帆はわざと精一杯の大声で晶を制止した。
「美帆っ! あなた……!」
「う、ううん……」
 美帆の声で覚醒したのか、木原は眠そうに何度も目を擦りながら上体を持ち上げ、そしてこちらの様子を見て目を丸くした。当然の反応だ。
「……! な、何なの? 泥棒? 先生、先生! 怪しい人たちが!」
 襖で仕切られた奥の部屋に向かって、木原が声を荒らげて叫ぶ。そして自らは起き上がって身構えるように両腕を突き出す。
「美帆! 余計な真似を!」
 綾弥子が舌打ちし、木原を取り押さえる。だが細身の綾弥子の体を、木原はいとも容易く投げ飛ばした。彼女は中岩を護衛する役も担う、柔術の有段者だったのだ。武術など扱えない綾弥子は無様に受け身も取れずに畳の上に転がされる。
「うっ、ごほっ!」
 綾弥子は強く投げ出され、胸を押さえて咳き込む。背中を強く打ち付けたためらしい。
 美帆にとって、彼女はまるで痛みを知らない人形のようだと感じていたため、この人間らしい様子が非常に珍しく写る。同時に、自分と同じ人間なのだと安心していた。

「どうしたの、木原さん?」
 襖が開き、中岩が浴衣の襟を抑えてやってくる。そして綾弥子と晶の姿を見て形相が変わった。
「どういう事なの、あなたたち!」
「やりなさい、晶!」
「ダメ! 晶くん!」
 綾弥子の鋭い叱責と静止の声を張り上げる美帆。室内は大混乱となった。

 晶は無表情のまま、ナイフを振り翳して中岩や木原に素早く斬りかかり、綾弥子はどちらかだけでも取り押さえようとする。美帆はその場に蹲って、自分に対する危害が及ばないか怯えながら、ひたすらに「やめて」と、繰り返す。室内はまさに阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
 柔術有段者の木原が応戦するも、ナイフを翻す晶から距離を取る。闇雲に彼女と中岩を取り押さえようとする綾弥子の動きを掻い潜り、木原は晶のナイフを叩き落とそうと試みる。
 一進一退の攻防が繰り広げられ、室内がバタバタと激しく騒がしくなった。

「先生! 危ない!」
 晶の刃が中岩を捉える。その間へ、木原が自らの体を押し込んだ。
「ぐ、う……」
 肩に食い込む晶のナイフ。晶はつまらなさそうにナイフを引き抜いた。そして返す手でスパリと木原の喉を切り裂いた。喉から鮮血を吹き出しながら、人形のようにゴトリと倒れる木原。まだ息はあるが、切り裂かれた喉からの出血は夥(おびただ)しく、頸動脈まで達しているようだった。
「木原さんっ?」
「フフッ! 抵抗してくれるのも面白いわぁ」
 綾弥子は先ほど投げ飛ばされた時に落ちた眼鏡を拾い、眼鏡のつるを耳に引っ掛け、クイと端を押し上げた。そしてレンズの枠の上から中岩を覗き見ながら、紅い舌をペロリと出した。

「まぁ大変ね。さぁ大変だわ。もう誰もあなたを守ってくれないわよ? どうするのかしら? どうしたいのかしら? フフッ!」
 いたずらが見つかった子供のような、無邪気で穢れのない微笑み。子供が虫を指で潰していたぶり殺す時のような、無邪気で悪意のない黒い笑顔。
 天真爛漫な綾弥子に悪魔が取り憑いた。
「どういう事よ! 私は田殿を殺してくれと頼んだのよ! 相手が違うじゃない!」
 当然、中岩は反論をぶつける。そして事切れている木原の遺体を見て、両腕を擦った。幾ら自分の秘書とはいえ、殺された遺体を見るのは恐ろしいらしい。凛々しい彼女ですらそうなのだから、純真な美帆はもっと恐ろしさを感じていた。いや、感覚が麻痺しているため、もう恐怖を恐怖として感じていなかった。ただ、嫌悪感だけが美帆の心に燻っていた。
「だって、あなたは醜いんですもの。汚れて穢れて汚くて。生かしておく価値、ぜーんぜんないんですもの」
「あなた、もしかして田殿に先に雇われていたの?」
「いいえ」
 綾弥子がもう一度、クイと眼鏡を押し上げた。
「田殿は先に殺しちゃったの。だってあなたより汚かったんですもの。あんな汚いモノは初めて見たわ。死に様もすごぉく醜かったわよ、アハハ!」
「だったらなぜ、私まで襲うのよ! 話が違うわ!」
「さっきも言ったじゃない。あなたも汚いから! ウフフ! 汚いモノは粛清されなきゃいけないの! 分かるかしら?」
 愉快そうに高らかに笑う綾弥子と、無表情の晶。彼が手に持つナイフの先端からは、木原の血が滴り落ちている。飛び散ってしまった返り血を浴びたのか、ポツポツと紅い花を頬や白いシャツに咲かせている。
 それすら不快らしく、時折、彼はグイグイと袖で頬の汚れを擦っていた。

「やめて……もうやめて。もう誰も傷付く姿なんて見たくない」
 美帆はうわ言のように繰り返し、両腕を擦って怯えている。
「さぁ、覚悟を決めて。大丈夫。あなたは田殿に弄ばれて自害した。そういう風にしてあげるから。そうだ。遺書とか書いてみる? それくらいの時間は待ってあげるわよ」
「意味が分からない! 私は……!」
 中岩は一歩後退る。だが晶も一歩、前へと進む。そのままナイフを逆手に振り上げた。
「やめて! もうやめて!」
 晶の手を、これ以上汚させたくない。美帆は無我夢中で飛び出していた。



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