黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     二

 田殿の事務所は、夜中だというのに、煌々と灯りを焚いていた。まだ中に人がいるという事だ。
 耳を済ますと微かに聞こえる女の嬌声。好き者の田殿は、どうやら夜伽(よとぎ)の女を連れ込んでいるらしい。
 美帆は若く穢れを知らないため嫌悪感から、両腕を擦りつつ身震いした。それでも自分の役割は嘆願者や殺害目的の者を改心させる事だからと、何度も心の中で決意を繰り返す。
 今回の場合は田殿の行動を反省させ、中岩に侘びさせる事ができれば成功だろう。そう考え、田殿を説得するための言葉を頭の中から探し始める。
「晶」
 綾弥子に促され、晶は事も何気に扉を開いた。やはり鍵など掛かっていないかのような、カラリと鳴る引き戸。
「な、何だ、お前たちは!」
 キャアと騒ぐ半裸の女を抱いたまま、服の乱れた田殿らしき中年の男へ、晶は無言で近付いてゆく。そしてポケットから取り出したナイフの刃を引き出し、サクリと田殿の喉を切り裂いた。美帆が言葉を発する暇もなく。
「キャアアア!」
 返り血を浴びた女が悲鳴をあげて逃げ惑う。すると奥の部屋からこれまた、衣服の乱れた男が二人、慌てた様子で飛び出してきた。どちらが誰かは分からないが、彼らが田殿の側近、道岡と藤田らしい。
「田殿さん!」
 片方の男が血まみれの田殿を見て声をあげる。
 晶はすぐさま、ナイフを振り上げて側近の二人目掛けて大股で歩き出す。
 その様はまるで、美帆に一切の口を挟ませないために急いでいるかのように映った。美帆は慌てて口を開く。
「ま、待って! えと……わ、悪い事はやめてください! 中岩さんに謝ってください! そうしたら……!」
 あまりにも頼りない、震え声の説得。「そんな台詞なら、子供だって言えるんじゃない?」と、綾弥子の視線には嘲笑が混じっている。
 室内の灯りに照らされた銀色のナイフと、田殿の出血を見た一人が、言葉にならない声で叫びながら、晶の腕を掴む。晶は目を細め、その腕を振りほどいた。
「触らないで」
 短く言い、その男の喉を正確に斬り裂く。パクリと割れた喉から血が飛び散ったが、晶はまるでその軌跡を予測していたかのごとく、身を捻って避ける。彼の一連の動作には、まるで無駄がなかった。全てを予め知っているかのように。
「き、き、貴様、何を!」
 残る一人も、晶は一切の躊躇無くナイフを喉目掛けて振り切った。
 彼の背後、美帆と綾弥子の間で、田殿の相手をしていた半裸の女が、目の前で起こる惨劇に、気が狂ったように喚き散らしている。そんな彼女に、綾弥子が歩み寄った。そして顎を指先でクイと押し上げる。
「あなた、うるさいわ」
「ヒグッ! こ、殺さないでぇ」
 返り血と涙で汚れた顔で、彼女はそう嘆願してくる。
「そうねぇ。あなたは本来無関係だったんだけど」
 綾弥子の背後に立つ晶。
「血。汚い」
 血と涙で汚れた彼女を、晶は小さく吐き捨ててナイフで喉を突き刺した。彼女は揺らぐ視線だけで胸に流れ落ちる自らの血を見下ろし、声も発てずにショックで絶命した。
「汚い血を浴びちゃったから、あなたも汚いわ。ごめんなさいね」
 綾弥子が愉快そうに笑い、彼女の顎を押しやった。女は壊れたマネキンのように床に転がり、喉からドクドクと血を吐き出していた。
「あら、教えてあげたのに聞いてないのね。汚い上に失礼な人」
 綾弥子がアハハと狂喜染みた笑い声をあげ、晶はナイフの血を、脱ぎ捨てられた田殿のシャツで丁寧に拭い、刃を仕舞う。

 殺人という重大な凶行を行った後だとは思えぬほど、酷く淡白であっさりとした事後処理。やはり二人に罪の意識はないのだと、美帆は改めて思い知らされた。
 この姉弟にどうして罪の意識はないのか? いとも容易く、あっさりと人の命を奪う。人に危害を加える行為には、知恵や腕力など必要なのではないか? それなのに、この姉弟は本当にあっさりと、無抵抗な人形を相手にするかのように、命を奪い去る。
 美帆は力無くその場に座り込んだ。綾弥子と晶の凶行を止められなかった自身の不甲斐なさと無力さに、この姉弟の罪の意識のなさに、一人打ちのめされていた。

「そうだ。奥にこの二人がこんな格好でいたって事は、まだ誰かいるわよねぇ?」
 道岡と藤田の遺体を見ながら、のんびりとした綾弥子の言葉に、美帆は凍りつく。そして立ち上がり様に叫んでいた。
「逃げて! 窓から外に逃げて!」
「晶! 逃がさないで!」
 美帆の悲鳴染みた声と、綾弥子の鋭い指示が重なる。
 奥の部屋でガタガタと音がして、だが晶は再びナイフの刃をパチンと伸ばして奥の部屋へ。
 急いで彼を追う美帆と、悠然と構えた綾弥子。
「キャアアア!」
 晶は一人の女の喉を切り裂き、片手でもう一人の女の服を掴んでいた。返り血が飛ぶ中、晶は服を掴んでいた女の喉を、スパリと切り裂く。僅かな返り血が晶のシャツに飛んだ。
 返り血を浴びてしまった事に、晶は不愉快そうに口をへの字に曲げる。
「間に合ったわね?」
 喉から空気の漏れる音がする女の傍にしゃがみ込む綾弥子。そして乱れた髪を指先で摘んで持ち上げた。
「まぁ、醜い。血、涙、鼻水、グチャグチャで醜いわ、あなた」
 可笑しそうに笑う綾弥子の背後で、晶はポケットから取り出したハンカチーフでゴシゴシとシャツの汚れを拭っている。しかし汚れは広がるばかり。
「晶くん! この人たちは無関係だったんでしょ! どうして!」
「見たから。僕たちを」
「見たからって、元はといえば、こんな事をする晶くんと綾弥子さんがいけないんだよ! これ以上、どれだけ罪を犯せば気が済むの?」
「美帆、騒がないで。もう夜なのよ。夜中に大声出さないの。誰か来ちゃうでしょ」
 人を殺めるという自分たちの凶行より、隣近所や野次馬の心配をする綾弥子に、美帆は愕然とした。
「酷い。酷いよ……」
 美帆は涙ぐみ、両手で顔を覆った。

 綾弥子は事務所の炊事場から包丁を持ってきて、田殿の傍に投げ捨てる。そして彼のシャツに溜まった血だまりを落として、さも凶器であるように工作する。また、側近二人の汚れていない服の端を掴み、ビリリと破った。
「さて、と。これで田殿と側近の仲違いに見えるでしょう。後は中岩と木原ね。二人はどこだったかしら?」
「取れない」
 晶は神経質に、まだしつこくシャツの染みを拭っている。
「そのくらい、帰ってからシャツを脱いで捨てればいいでしょう? 次の二人はどこに行けばいるのか聞いてるのよ、私は。答えなさい、晶」
 少々苛立った様子で綾弥子が晶に問う。また彼女の感情に乱れが生じてきたらしい。
 先ほどは殺した女に茶々を入れて、無邪気に散々遊んでいたのに、もう苛立ちの感情に包まれている。まるで多重人格のようだった。
「中岩の自宅」
「そう。じゃあ行くわよ」
 美帆を置いて、さっさと事務所の外に出てしまった綾弥子と晶。美帆は気持ちばかりに両手を合わせ、田殿の死体に小さく頭を下げた。
「あたしに勇気も力もなくて、助けられなくてごめんなさい」
 そう祈り、詫び、美帆は二人を追った。
 感情はもはや恐怖や怯えの域を超え、感覚が麻痺しかかっていた。



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