黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


    二

「……大丈夫?」
 目の前に晶がいる。いつもどおりの、感情の起伏に乏しい無表情で。だが僅かに視線に戸惑いの感情が絡まっている。

 晶の怪我は? とも思ったのだが、目の前にいる晶は、糊をきかせた白いシャツと濃紺のスラックスに革靴。店に立つのと変わりない姿だった。どこも怪我をしている様子はない。
 嘆願者の目を抉る時のように、晶の怪我も無くなってしまったのだろうか? そう考えるのが、納得はできないが、最も納得できる答えのような気がした。
 傷を治すのも、あの黒渦がしていたのだろうか? それも調べてみたい。
 彼女はそう思いながらそっと体を起こした。大丈夫、もう自分の体が感じられる。意志だけの存在ではない。
「大丈夫よ。ちょっと立ちくらみしただけだから」
「そう」
 とっさに立ちくらみだと漏らした事が、なぜか疑問に感じられた。が、実際立ちくらみのようなものだったのだろう。体を起こして立ち上がった。相変わらず極度の潔癖症である晶は、汚れたくないとばかりに、手を貸してもくれない。
 踵を鳴らして先に歩いて行ってしまった晶を追おうと、壁に手をつく。その手はひんやり冷たいものに触れた。
 グルグルと黒い渦を巻く文字盤が特徴的な、古い振り子時計だった。その文字盤の硝子扉に触れてしまったのだ。
 黒渦と呼ばれるこの時計を調べなければならない。それを思い出し、ぐっと顔を文字盤に近付ける。
「何してるの?」
「ええ。鏡の代わりに顔を見ようと思っただけよ」
 またもや、疑問符が頭に浮かぶ。自分は硝子に映る顔を見ようとしたのか?
 カチリと、針が通常とは逆に時を刻む。すると晶がこちらに歩み寄ってきて、僅かに口元を緩ませる。
「しばらくは僕らも、黒渦も大丈夫。八人分の御霊、喰ませたから」
「そうね。あれは貴方にとっても私にとっても、すごいご馳走だったわ」
 やはり八人もの命が奪われてしまったのかと、意気消沈する。が、なぜかフフと笑い、無意識に眼鏡のつるをつまんで押し上げていた。

 え? と、再び疑問に思う。今、考えている事と全く違う言葉を口にしていた。行動も、自分のおこなえる行動ではない。自分は眼鏡など掛けておらず、裸眼のはずなのだから。

「お店、早く準備しよう」
「そうね、晶くん」
 晶は振り返り、感情の読めない表情で小さく首を振る。
「晶でいい」
「そうだったわね、晶」
「そうだよ。アヤコさん」

 愕然とした。今、彼はこちらに向かって「アヤコさん」と言った。そして自分も頷いていた。
 どういう事か、まるで理解できなかった。状況説明を求めようと、声を振り絞るように疑問の言葉を口にする。
「ねぇ、晶。私とあなたは二人きりの姉弟。これからもずっと一緒よね?」
『違う! こんな事を言いたいんじゃないわ!』
 懸命に自分の意識を掘り出そうと模索するが、“綾弥子として”の意識にそのまま美帆の意識は侵食されてゆく。

 檜垣美帆として、自分は……美帆、は。ミホ……否。ア、ヤ、コ……。

 振り子時計の針は、ひたすらに御霊を喰んで浄化し、晶におこぼれを喰ませ、失われるはずだった命を与え、時を刻み続ける。文字盤の黒渦は晶が生き永らえてきた年月を示して、これからも増え続ける。そして美帆は、晶にとって姉のアヤコとしてこれから生きていくのだ。
 もともとの、美帆の知っていた綾弥子は晶に御霊を喰まれて消えてしまった。そして本来の美帆の存在は、黒渦の振り子時計と晶によって抹消、あるいは粛清されてしまったのだ。
 アヤコとなった美帆の言葉に、晶は一瞬だけ振り返り、目を細めて小さく呟く。
「……うん。もう美帆はいない。黒渦が喰んだから。だから僕と“アヤコさん”、二人だけだよ」
 晶の言葉を聞き、綾弥子は満足そうにクスリと笑う。その瞳の奥に、もう美帆はいなかった。

「でも……次の“アヤコさん”が見つかるまでだけどね」
 綾弥子には聞こえないような声音で、晶は喉の奥で笑った。含みをもたせ、低く、フフと、静かに笑った。

 茶館に繋がる扉を開け、眩しい朝日と最初の客に出迎えられる。
「やぁ、アヤちゃん、晶。今日も美味い珈琲を頼むよ」
 常連の八百屋の主人、冨田はいつもの馴染みの席で新聞を広げる。
「あれれ? そういや美帆ちゃんはどうしたの? 休みかい?」
「ええ。あの子ねぇ、急に故郷に帰っちゃったの。もう“いない”のよ。だから今もこれから先も、私と晶の二人だけよ」
 綾弥子はいつもと変わらぬ妖艶な笑みを浮かべ、定位置であるカウンターの席に腰を下ろした。そして晶の入れた芳醇な香りの珈琲を口に含んだ。
「そうかい。残念だね。じゃあ晶、今日も旨い珈琲を頼むよ」
 素っ気ない返事をして、冨田はいつもの席でいつものように持参したクシャクシャの新聞を開いてのんびり記事を瞳で追いかける。

 ──何事もなく、今日も“日常”が始まり、巡る。黒渦と晶と共に、綾弥子という存在はおぞましい輪廻を繰り返しながら。


                                   


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   これにて「黒渦-CLOSE-」完結です。
   章タイトルの「ささやかなしかけ」にお気づきでしょうか?
   妙な章タイトルだったのには秘密があります。
   ネタばらしはしませんので、ぜひ考えてみてください。
   わかった方は、ニヤリとしてください。
   最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。



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