翼が見た灯り ちっちゃな天使とちっちゃな男の子とのちっちゃな冒険。 彼女の想いは伝わるの? 彼の想いはどこにあるの? |
5 彼にかけた魔法は効いた。彼の記憶から、あたしの事、今日の事は全て消えているはず。もう彼があたしの事を思い出す事はない。 ──天使は下界を見守る事が仕事で、決して下界の者と関わってはいけない。 天界の掟。天使たちが、絶対に守らなければいけない掟。その意味、今、分かったわ。 お別れが寂しいの。悲しいの。胸が切なくて、苦しいの。 天界と下界の時間の流れは違う。出会ってしまったら、言葉を交わしてしまったら、その瞬間にもうその人とはお別れの覚悟をしなくちゃいけない。一期一会を大切にしたくても、天使はそれすら適わない時間の中を生きる。だから天界の者より遥かに短い時しか生きられない者と関わる事は、たくさんのお別れを経験しなくてはいけないという事なの。 そういった辛くて苦しい感情から、特別な時間を生きるあたしたち天使を守る方法こそ、大天使様が定めた掟だったの。大天使様は下界の人間たちだけでなく、あたしたち天使をも守ってくださっていたの。 堅苦しい掟なんて少しくらい破ってもいいなんて思ってたけど、それはあたしの身勝手で短絡的な考え方でしかなく、彼と出会って……今、ようやくその掟の本当の意味を、重要性を理解した。大天使様の御心を、大天使様の優しさを、大天使様の教えの意味を、彼と出会う事で、心を引き裂かれる事によって痛感した。 コートニスの姿が見えなくなるまでその背中を見送って、あたしはその場に蹲った。胸が苦しくて、切なくて、涙で視界がグチャグチャになって、あたしは袖をゴシゴシと目元に擦り付ける。誰もいないから……泣いてもいいよね? 今のあたしは人間を見守る天使じゃなくて、大好きなお友達とお別れした、ただの女の子でいいんだよね? そんなあたしの傍に、誰かがふわりと降り立った。顔を上げて確かめなくても、気配だけでそれが誰かは分かる。 「……ごめんなさい大天使様……あたしは勝手な行動をして、天界の掟を破りました。どんな罰でも受けます」 大天使様は神々しい光に包まれていて、ご尊顔は見習いのあたしには見えない。だけどそのオーラは紛うことなき、あたしたちの父であり、主あるじであり、尊敬する創造主のもの。 俯いたまま、ただただ自分で心を締め付けて、反省と後悔をするあたしの傍に立つ大天使様の、長いローブや髪、大きくて立派な翼が風に揺れている。 「辛い経験をしましたね」 大天使様は身勝手な行動をしたあたしを責めるどころか、優しく語り掛けてくださる。 「悪いのは……あたしです……罰を与えてください」 涙がぽたぽたと膝に落ちる。 「罰、ですか。そうですね……。あなたに一つ、お話をしましょう」 サワサワと草原の草が揺れる。あたしの服や、大天使様のローブも揺れて、大天使様の慈愛に満ちたお声が風に溶けて流れる。 「人間に恋をした天使は、天界から落ちるのです。本人が意識しているか、していないか、それは当人になってみないと分かりませんが、恋という道を見つけた天使は、その運命に導かれ、天界から落とされるのです」 恋? あたしにそんなつもりはない。コートニスは違う世界のただの友達で、それ以上の感情なんてあたしは……。 「あなたは恋をし、天界から落ちました。いえ、まだ恋というには程遠い、淡くて脆い、陽炎かげろうのような儚い想いかもしれない。けれどあなたの心には、一人の人間の名が強く刻み付けられました。そしてあなたも“己の名”を得ました」 名前……エイミィの事……? 「あなたは罰を与えて欲しいと、私に言いました。でも私には、あなたに罰など与える事はできません。なぜならあなたはすでに、天界の掟を破った罰を、その身に受けています」 え? 罰をもう受けている? でもあたしにそんな自覚はない。体は痛くもないし、頭だって正気……だと思う。 「……あなたはもう、天界へ戻れません」 大天使様のお言葉を聞いて、あたしは息を飲んだ。全身が震え、思わず両腕を擦る。そして恐る恐る背中の翼を見て、小さく羽ばたいてみた。 あたしの意思で動く翼。まだ、飛べるよね? 飛べるなら、天界に帰れるよね? だけど大天使様が天界へ戻れないと仰るのは……戻ってはいけないという罰なの? 「恋をして、天界から落ちた天使は、もう二度と天界へ戻れないのです。それこそがあなたが運命から課せられた罰です」 そんなの……そんなの、イヤ。あたしは一人前の天使になって、大天使様のお力になりたいの。大天使様のお力になる事が、天使として生まれてきたあたしの存在意義であり、あたしの全て……だから。 ──ううん……だった、から……? あたしの心に刻まれているのは、大天使様への忠誠。だけどもう一つ。彼の──名前。 「あなた自身がまだ分かっていなくとも、私には分かっています。純粋なその想いを持ち続け、そして再び彼に会いなさい。気持ちを告げなさい。天界へ戻れないのならば、地上に残り、想いを遂げなさい。それが天界から落ちた天使に課せられた、罰に対する償いとなります。あなたの道を、あなたの足で歩みなさい。エイミィ」 あたしは驚いて大天使様を見上げた。ご尊顔は光で見えないはずなのに、あたしに微笑んでくださっているように見えて、あたしは堪らず、声をあげた。 「──ッ!」 だけど声は出なかった。喉の奥がヒリヒリ傷んで、何度声を出そうとしても、ひゅうひゅうという空気だけが漏れる。大天使様が戸惑われたように長い髪を揺らす。 「……名を得た代償に、声を失いましたか……おや? “力ちから”も、ですね。あなたはまだ一人前の天使ではなかったのに、力を使い過ぎました。そのような状態で、地上で人と交わり過ぎ、人の“色”に染まってしまったのやもしれません」 そんな……声を失って、天使としての力も失って、どうやってコートニスに気持ちを伝えればいいの? あたしはさっき、コートニスの記憶を消したわ。だからコートニスはあたしの事を覚えていない。 それじゃ彼に会いに行ったとしても、あたしがエイミィだって事も、彼への気持ちも、何一つ伝えられないわ! 彼はあたしを覚えていないんだもの! 「……エイミィ。天界から落ちる事の意味は分かりますか?」 あたしは首を振る。 「天使でなくなったという事です。恋を知り、想う者と生きたいと願う事は、天使という役目を捨てるという意味なのです。あなたは天界から落ち、彼と出会い、彼に恋をしました」 冷たい風があたしの頬を打つ。 「私が定めた掟を破り、あなたは運命から罰を課せられました。天使でなくなり、そしてまだ人でもないあなたは、ひどく儚く脆い存在といえるでしょう。あなたは運命に従い、その翼ではなくその足で、歩まなければならない。想いを成就できなければ、願いが叶わなければ、あなたの存在は──」 大天使様のお声がどんどん小さくなっていく。それだけじゃないわ。そのお姿が、夕闇の群青色に溶け込んでしまうかのように、透けるように見えなくなっていくの。 あたしはもう天使でなくなった。だけど人でもない。儚い、脆い、“エイミィ”という名を持つだけの、希薄な存在。 どうなってしまうというの? 大天使様、あたしは、あたしがコートニスへの想いを遂げられなければ、どうなってしまうというんですか? どんどん聞こえなくなっていく大天使様のお声を、一生懸命聞き取ろうとする。だけどもう、大天使様のお声も、お姿も、あたしにはほとんど認識できなくなっていた。 天界から落ちて、あたしは……天使でなくなった……の? 「……ッ!」 ふいに胸が締め付けられるように息苦しくなった。喉を抑えて空気を貪るけれど、何かに体が圧迫され、呼吸が出来なくなって、体が動かなくなって、視界が白く霞み始める。気配だけの大天使様が何か仰っている気はするけれど、それももう全く聞き取れない。 重たい瞼を懸命にこじ開けると、透き通った艶やかな桜色の唇が動いているのが見えた。 「──い──ま──は──ね──む──り──な──さ──い──」 眠る? そっか……あたしは天使としての力を使い過ぎて、天使でなくなったから、消耗してしまった体力を回復させなきゃいけないのね。 天使としての……てんし? あれ……“てんし”って、何? あたしは崩れるようにその場に倒れた。意識が遠のいていく。記憶が混濁して、闇に溶け込んで、交じり合って、何が現実か夢か、判断できなくなってきた。それどころか……。 ……分からない……分からないわ。あたしの傍にいるのは、誰? あたしは誰の姿を、瞼の奥に見ているの? あたしは……何者、なの? 瑞々しい青い草のにおいが鼻孔を擽る。薄れゆく意識の中で、キラキラ輝く町の灯りを見た。 霞む視界の中でキラキラ輝く、町の灯り。綺麗な、たくさんの、灯り。“つばさ”が見ていた、命の灯り。 そうだ……思い出した。この灯りをまた一緒に見たいんだ。“彼”と、一緒に。だから──会いに行くの。次に目が覚めたら、一番に会いたい彼の所へ……。 |
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