翼が見た灯り

ちっちゃな天使とちっちゃな男の子とのちっちゃな冒険。
彼女の想いは伝わるの?
彼の想いはどこにあるの?


     4

 思いっ切り走ってきたので、あたしもコートニスも息が切れている。だけどそんなあたしたちの様子をあざ笑うかのように、辺りはどんどん暗くなってくる。もうあんまり時間はない。暗くなる前に、彼の顔がまだちゃんと見える間に……。
 向かい合って、あたしはコートニスの両手をしっかりと握る。
「コートニス。今日一日、あたしのワガママに付き合ってくれてありがとう!」
「い、いえ。僕も楽しかったです」
 あたしが早口でお礼を言うと、コートニスははにかむように口元を綻ばせる。
「だから最後にあたし、コートニスに素敵な思い出をプレゼントするわ。ううん。あたしの気持ちだから受け取って」
「え? あの……僕はそんな大したことは……」
 あたしは数回深呼吸して心を落ち着け、ゆっくりと──背中の翼を羽ばたかせた。
「えっ、わ……わっ!」
 あたしはコートニスの手を取ったまま、ふわりと空へと舞い上がった。

 本当はね。あたし、やっと一人で飛べるようになったばかりだから、誰かと一緒に飛ぶのは上手くないの。それが飛べない人間だったら余計に大変。だって手を離したら落っこちちゃうし、怪我したり死んじゃったりするかもしれないでしょ。
 でもあたし、最後にどうしてもコートニスと一緒に空を飛びたかったの。今日出会えた、仲良くなれた、その記念になるような、特別な思い出を作りたかったの。
「わっ、わっ……エイミィさんっ!?」
 自分の体があたしに手を引かれる事によって浮かび上がり、彼はバタバタと足をばたつかせて慌てふためいている。そんな彼に、あたしはとびっきりの笑顔を向けた。
「大丈夫。絶対手を離さないから。だからあなたもあたしの手を離さないで」
「……エイミィさん? その羽根飾り……」
 彼の空色の目が、羽ばたくあたしの翼を捉えた。あたしはこくんと頷く。

「うん。あたしね、天使なの。天界からやってきた、天使の卵なの」
 正体を、明かした。

 驚いて、ただでさえ大きな目をまんまるにして、コートニスは小さく口を開いたままあたしを見つめている。
「いつも天界から下界を見てた。人間の生活する世界はキラキラしてて綺麗だな、素敵だなって、いつも思ってた。ほら見て」
 あたしが視線を下へ向けると、コートニスもあたしにならうように、何にも触れていない足元の、遥か下の町を見る。
 あかね色と群青色の混じった色に染め上げられた町に、人間たちが生活している証である灯りがポツポツと輝いている。それはキラキラした小さな宝石みたいにいっぱいに散りばめられていて、天界から見えるこの時間のこの景色が、あたしは一番好きだった。
 だからどうしても、コートニスと一緒に見たかったの。

 声もなく眼下に広がる──きっとこの先、彼が見たくても見られない光景を──ただじっと魅入っているコートニス。あたしも同じキラキラの灯りを見つめながら、囁くように今のあたしの、素直な気持ちを声に乗せる。
「綺麗だよね……あたし、この景色、大好き。だからあなたにも見てほしかった。コートニスと一緒に見たかった」
 驚いてるのか、怯えてるのか、感動してるのか、彼は何も言わない。だけどそんなの気にしない。あたしはコートニスと一緒にこの景色を見たかっただけだもの。
 あは! コートニスにお礼だなんて言ったけど、結局最後もあたしのワガママに付き合せちゃっただけだよね。
コートニスはあたしの事、ちょっと呆れちゃったかな? 彼みたいなのんびりした子に、あたしの言動は忙しなくて目まぐるしいかもしれないもの。でも自分と違う世界に生きる〝違うモノ〟だからって、怖がってないならどう思われててもいいわ。
「高い所、怖い? もう降りる?」
「……あ、いえ……もう少し……見ていたい、です」
 コートニスが下を向いたまま、あたしの手を強く握ってくる。
 あたしは一生懸命羽ばたいた。少しでも長く、彼とこの景色を見ていたかったから。コートニスとの思い出を、もっと強く心に刻み付けておきたかったから。
 空の上の風は冷たかったけど、でも繋いだ手はあったかい。コートニスの不器用で控えめな優しさと同じくらい……あったかい。
 ──ねぇ、コートニス。あたしは今日の事、絶対に忘れない。もうあなたには会えないから……あなたの事は忘れないよ。約束する。

 あかね色は群青色にどんどん塗り潰され、あたしはゆっくりと地上に降りた。コートニスは腰が抜けたのか、呆けているのか、ペタンと草の上に座り込んでぼんやりしている。
「コートニス」
「……は、はい?」
 あたしが呼び掛けると、コートニスは一瞬驚いたように身を竦ませたけど、座ったままあたしを見上げてきた。
「あたしも帰らなくちゃ」
 お別れを意味するって、きっとコートニスは理解してない。
「……エイミィさん」
「なぁに?」
 コートニスは立ち上がり、何かを言い掛けるけど、口籠る。そして頬を赤くして、俯いて、物言いたげな上目使いであたしを見る。
「なに? はっきり言ってよ」
 もう一度促すと、コートニスはやっと辿々しく言葉を紡いだ。
「あ、あの……また、連れていって、ください。もっと見たいです……空からの、町の姿。キラキラしてて……僕、すごく感動してしまって……だけどエイミィさんと一緒に……もう一度……ぜひ……」
 きゅっと胸が苦しくなる。
「できないの。ごめんね」
 できるだけ平静を装って答える。
「あたしは天使で、あなたは人間。本当ならあたしたちは関わっちゃいけないの。こうやって向かい合って、手を繋いで、話したりしちゃいけないの。あたしとコートニスは違う世界に生きる者同士だから」
「で、でもエイミィさんは今、こうして僕と……」
 焦った様子でコートニスが声を震わせる。
「うん。だからね。今日一日のコートニスの記憶をあたしの魔法で消すわ。あたしと会った事も、いっぱいお喋りした事も、一緒に空を飛んだ事も、あなたはみんな忘れちゃうの。でも一つだけ約束する」
 あたしはずっと握ったままだったコートニスの手を離す。彼のぬくもりを失った手は、ひんやりした風にさらされて一瞬で指先まで冷たくなってしまう。

「あなたはあたしを忘れても、あたしはあなたを忘れない」

 草原の草が風に煽られて、サワサワと音をたてる。あたしたちの髪や服を揺らす。じわりとコートニスが涙ぐんで唇を噛んだ。
 そんな顔しないでよ。本当に泣き虫ね、コートニスは。あたしだって辛いよ。コートニスと一緒にいた時間、本当に楽しかったから。
 あたしはゆっくり手を胸の位置まで上げて、彼の記憶を消すための魔法の準備をした。だけどその手を、コートニスが乱暴に掴み取った。
 記憶を消すために発動しかけていた魔法が消失する。
「ど、どうしてそんな言い方するんですか! ぼ、僕はエイミィさんを忘れたくないです! だって僕はっ! 僕、は……えと……だから……あなたのこと、天使だってこと、誰にも言いません。今日のこと、絶対誰にも喋りません。だから時々でいいです。時々でいいですから、また……一緒にお話ししてください。僕と会ってください。……僕は……エイミィさんのこと忘れたくないです! もっとエイミィさんと一緒にいたいです!」
 あたしは驚いて息を飲む。気弱なコートニスがこんな事を言うなんて、思ってもいなかった。嬉しい。だけど──。
「……ごめん、ね。天界の掟は破れない。あたしは天使だもの」
「嫌です! だって! だって僕……僕は!」
「あたしは天使で、あなたは人間なのよ! あたしとあなたは違う世界に住んでるの!」
 あたしだってコートニスともっと一緒にいたいよ! もっといろんな所に行って、お喋りして、思いっきり笑いあいたい。同じ時間を共有したい。だけどそれはできない事なの。あたしは天界に帰らなきゃいけないの。

 天界の掟なんて破ってしまいたい。コートニス一人にあたしの正体がバレたからって、天界にも大天使様にも何の不都合もないに決まってる! だけど……だけどあたしがこのまま天界に帰ったら、もうコートニスと会えないの! それは変わらない、変えられない事実なの! 彼を悲しませるくらいなら、彼の記憶を消して、あたし一人が彼を覚えていればいい。それが一番、コートニスのためになるの!
 必死に自分に言い聞かせて、自分に都合のいい言い訳で彼の気持ちを拒絶して、あたしは天界の掟なんか投げ出したくなっている、いけない感情を押し殺し、一気に魔法の紋章を描き出し、コートニスの精神に叩き込んだ。
「エイミ……ッふぁ……」
 雷に打たれたようにビクッと体を痙攣させ、コートニスの空色の瞳から光が失われる。ゆらゆらと揺れる彼を見ると、何も映らない瞳が虚空を見つめていた。
 ──彼の意識を一時的に乗っ取ったわ。そして今日一日の記憶を強引に削り取った。今の彼は、術者であるあたしの命令に従うだけの傀儡かいらいのようなもの。
「……そのまま後ろを向いて帰って。無事に帰ったら術は解けるようになってるから。目が覚めた時、今日の事は何もかも忘れて、誰にも会わなくて、何もなかった事になるの。あなたの今日は、特別な事が何もなかったの。いつもと変わらない一日に塗り替えられたの」
 すぅっと一度だけ、深呼吸する。そしてあたしの術によって自我を失った彼を見つめて、ちょっとだけ涙ぐんで、お別れを告げた。
「……じゃあね。さよなら、コートニス」
 ゆっくりと丘の上の大きな建物──彼に教えてもらった、彼を待つ人がいる冒険者組合の建物を指差すと、コートニスはあたしに背を向けて、覚束ない足取りで歩き出した。

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