翼が見た灯り ちっちゃな天使とちっちゃな男の子とのちっちゃな冒険。 彼女の想いは伝わるの? 彼の想いはどこにあるの? |
2 「えっと……この市場には、いつも姉様たちと買い物に来ます。少し向こうに商店街もありますが、大抵のものはこちらでも揃いますし、金額も安いので」 果物を売る露店。お肉やお魚を売る露店。反物や服や雑貨を売る露店。いろんな露店が集まって、市場という小さなコロニーが形成されている。 ふぅん……確かに人間が生活するのに必要なものを買うお店が集まっていたら、町中をあっちこっち歩き回らないで便利かもね。天使にはそういうものは必要ないから、露店で売ってるものも、露店自体も珍しくて、あたしは感心しながら周囲を眺める。 あたしは興味津々で周りを見てたんだけど、喋るのも忘れて黙っている事に彼は不安を覚えたようで、遠慮気味に声を潜めて問い掛けてくる。 「あの……つまらないですよね。市場なんて、どこの町にもありますし……すみません。僕ひとりでいることが多くて、誰かと一緒に遊べるようなところ、あまり知らなくて」 「そうでもないわ。あたしが住んでるところにはこういう場所が無かったから、いろいろ珍しくて楽しいわよ」 「それならいいのですけれど……でもあまり楽しそうには見えなかったので……あっ、す、すみません。不躾ぶしつけにお顔をジロジロと……」 そんなにつまんなそうな顔してたのかな? 「ええっと、そうだ。あたしこんなに人間の多いところって初めてだから、ちょっとびっくりしてただけなの。不安にさせちゃってごめんね」 あたしが笑って見せると、彼もようやく表情を和らげた。 「それなら良かったです」 一人じゃつまらないっていうのもあるけど、案内役がいないとどこに行けばいいのか全然分からないんだもん。だってあたし、生まれてから下界に降りてきたのなんて、今日が初めてなんだもの。 「あ、えっと……の、喉、乾きませんか? も、もし良かったらお昼ご飯、とか……その……もう随分陽が高くなってますし……」 彼がすごく遠慮しながら、だけど妙にそわそわしながら問い掛けてくる。 「いらないわ。そんなの時間がもったいないじゃない。早く次の場所を案内してよ」 即答するあたし。だって本当に喉なんて乾いてないし、おなかだって空いてないもの。天使は飲食なんて必要ないのよ。食べろって言われたら食べられない事はないけれど、でも命を見守る天使が、別の“生物の命”を食べちゃうのはちょっと……ねぇ? 「そう、ですか……」 彼は両手を胸の前で合わせて落胆したように視線を落とす。するとグゥと、皮袋か何かを引き絞るような音が聞こえた。 「え?」 「あっ……ご、ごめんなさい! 違うんです!」 彼が顔を真っ赤にして、両手で恥ずかしそうに頬を抑える。あ、そうだった。この子はあたしと違って普通の人間だったんだ。 「あなた、おなか空いてるの?」 「い、いえっ! そうじゃなくて……っ! 僕、そういうつもりでは……」 必死に否定するけど、耳の先まで真っ赤になった彼の様子と、あたしの疑問に素直に肯定の意を知らせるおなかの音が、彼の言葉をはっきり嘘だと表している。 「クスッ! あはは! そんな遠回しに言わなくても、普通に誘ってくれれば付いて行ったのに。いいわよ、何か食べたいんでしょ。付き合ってあげる」 「す、すみません……」 おかしな子。なんで「おなか空いた」って言うくらいで、そんなに恥ずかしがるのかしら? 「じゃあ、あたしは本当におなか空いてないから……飲み物だけね」 「は、はい分かりました。僕もあんまりたくさんは食べられないので、露店で何か軽いものを買いますね。あ……お、お金は僕、ちゃんと持ってますから大丈夫です!」 ああ、そっか。人間は何か品物を手に入れるには、対価としてお金っていうものが必要なんだっけ。人間の世界のルールって面倒くさいわね。 彼に案内された露店で、彼はパンに野菜とハムとチーズを挟んだものを、あたしには果物を絞ったジュースを買ってくれる。お水で良かったのに、とか言ったら彼はしょげちゃうかな? うふふ。果物さん、あなたの“命”をちょっとだけいただくね。 この食べ物や飲み物を買った露店の横に広げてあるシートに並んで座って、彼にとっては昼食を、あたしにとっては特に必要のない休憩をとる。 天使は見た目が人間と大して変わらないから、人間のフリをするのはそんなに苦にはならないんだけど、余計な事を言っちゃわないか気を使うのが大変かな? でも市場の人間の様子をぼんやり見てるのもちょっと楽しいかも。 この子みたいな耳が尖った北方の人間や、褐色の肌の東方の人間、小柄で小人みたいな西方の人間。いろんなたくさんの人間たちが、忙しそうに、賑やかに楽しそうに、市場を右へ左へ行き来している。誰もあたしの事なんて気に留めてない。 うんうん、これなら予定通り、彼の記憶だけを消せば安心して天界に帰れそうね。 あたしはにこにこしながら、甘いジュースを飲む。 「あの……すごく今さらなんですけれど……お聞きしてもいいですか?」 遠慮気味なもどかしい問い掛け。彼って引っ込み思案みたいだから、ちょっと話をするにもすごく遠回しな言い方をするのよね。直球で質問できないのかしら? でも今度はなんだろう? おなかがいっぱいになったから、眠くなったとか? ここで帰るなんて言われたらちょっと困るんだけど……。 首を傾げると、彼は両手の指を絡ませてもじもじしながら、おずおずと口を開く。 「えっと……お名前、聞いてもいいですか? ずっと聞きそびれてしまっていて……」 あたしは口籠ってしまった。 だってあたしには“名前”がないんだもの。あたしだけじゃない。天使には、個体識別用の名前なんてものは存在しないの。 大天使様は全ての天使や天使見習いの存在を認識してくださってるし、特定の天使を呼び寄せるにしても、その天使の頭に直接声を響かせてくださるの。仲間同士で呼び合うにも、“あなた”や“私”で充分通じるんだもの。だからお互いを呼び合うための“名前という識別記号”は必要ない。 そういった理由から、あたしは彼の質問に答えられずにいた。あたしの動揺に気付かないまま、彼ははにかむように笑って片手を胸元に置く。 「僕はコートニスと言います。姉様や親しい方はみなさん、コートという愛称で呼んでくださってます」 彼の自己紹介を聞きながら、あたしは思案する。あたしは彼を呼ぶのに不都合を感じてなかったけど、彼が名前を教えて欲しいというなら偽名を考えた方がいいかしら? 媚びる訳じゃないけど、意地悪だと思われて置いて行かれても困るもの。 「……あたしの名前、ねぇ……」 「はい。お呼びするのに不便だと思って。あっ……で、でもご無理にとは言いません。あなたとはさっき会ったばかりですし、その……急に困りますよね。すみません、僕……つい調子に乗ってしまって」 彼──コートニスはたどたどしく指を絡ませ、頬を紅潮させる。 「その……ぼ、僕は……本当はすごく人見知りするんです。で、でも……あの……あなたはなんだか親しみやすくて、ついお喋りになってしまって……えっと……僕の好奇心でいろいろ詮索されるのって、お嫌ですよね。僕、気になったらつい余計なことに首を突っ込んでばかりいて、いつも姉様たちにご迷惑を……」 「コートニスを誘ったのはあたしなんだから、そう卑屈にならなくていいわよ」 礼儀正しいを通り越して、引っ込み思案が過ぎる。内向的で社交性が低くて、だけどあたしと同じで好奇心は人一倍強い。かなり面倒臭いわ、この子。 だけど……面白いじゃない。こういう人、天界にはいなかったもの。 コートニスの控えめで不器用な親切は、時々もどかしいけど心地よくて、一緒にいてすごく楽しいよ。一言話すにもびくびく怯えてばかりの彼を安心させてあげたいし、やっぱり偽名、考えよう。あんまり適当だとふいに呼ばれた時に分からなくなっちゃうから、何か天使にまつわる言葉とか。でも直接的過ぎると、正体がバレたら厄介だから。 ええと……たしか、西方には“天使草”って俗称の花があったはず。それの正式名称はたしか──。 「エイミィ」 そう、エイミィフラワー。 この名前なら、直接的にはあたしが天使だって分からないだろうし、あたしも頭の中で自分とすぐに結び付けられる。 「エイミィさん……ですか?」 コートニスは指先を頬に当て、あたしの“名前”を復唱する。そしてにこりと微笑んだ。 「素敵なお名前ですね。たしか西方にだけ咲く、珍しいお花と同じですよね? エイミィフラワーでしたっけ」 あたしは内心ギクリとして、手にしていたコップを落としそうになる。な、なんなの、この子? なんであたしの考えた事をそのまま言い当てちゃうの? 彼の言った通り、エイミィフラワーは西方にしか咲かない珍しい花で、この子の故郷である北方では絶対お目にかかれない植物よ。そんな珍奇な、それこそよほどの植物マニアしか知らなさそうな事を、なんでこんな子供の彼が知ってるの? 「天使草ともいいますよね。エイミィさんのお洋服の羽根飾りと相まって、本当に天使さんみたいで素敵だと思います」 えっ、と驚いて、あたしは思わず自分の肩越しに背中を見る。 わわっ……翼、出しっぱなしだった! 魔法で見えなくするの、忘れてたわ! だってコートニスとぶつかった時、魔法を使っている暇はなかったんだもの! でもコートニスは服に付いてる羽根飾りだと思ってるみたいだから、そのまま勘違いで話を合わせておかないと、今更魔法で消したら怪しまれるわよね? 市場には他に人もいるし、消すところを見られたら厄介だし。 「か、可愛いでしょ!」 「はい。とても」 どうとでもなれ! という気持ちで苦し紛れにわざと翼を自慢してみる。でも本物だと気付かないで! 内心冷や冷やするあたしだったけど、彼はニコニコしながら翼を褒めてくれた。あたしはさっさと話題を変えようと、コップをその場に置いてコートニスの腕を引っ張った。 「ね、ねぇ! あれは何を売ってるお店なの?」 とっさに適当な露店を指差す。コートニスはあたしの指先を辿り、コクンと頷いて膝の上に両手を乗せて微笑む。 「はい。あれは西方の鉱山で取れる珍しい鉱石を売っています。宝石ほどの価値はありませんが、独特の輝きや趣おもむきに味わいがあって、収集する方は多いですよ」 「そうなの?」 「ええ。エイミィさんは西方の方かたではなかったのですか? 僕、てっきりお名前がエイミィさんとおっしゃるので……」 うっ、墓穴。 「ええーっと! じゃああっち! あっちのあの建物は何?」 あたしは慌てて、今度は少し遠くに見える、高い建物を指差す。高い塔に黄金色こがねいろの鐘が吊り下げられていて、十字を円で縁取ったオブジェが塔の先に……って、あ。 「は、はぁ? ええと……あの建物見たままの教会、ですけど……エイミィさんは教会に礼拝されたことがないのですか?」 やんっ、これも失敗! 大天使様を祀まつる場所なのに、大天使様ごめんなさい! 「あ、あたしの事はどうだっていいの! ほら、えっと、もっと楽しい場所を……」 まくし立てるように、コートニスの前で両手を振っていると、あたしの背後から突然、馬の嘶いななきが聞こえた。あたしは振り返り、コートニスは首を伸ばす。 重たそうな荷馬車の車軸が壊れて、馬を繋いでいる大きな金具が馬の体や足を圧迫して、馬は激しく嘶いていた。周囲には大勢の人が集まってきて、どうにか馬を転倒した荷馬車の下から引っ張り出そうとしている。 「わ……あの馬、痛そう……」 「あ、あのエイミィさん、少し待っていてください! なるべく早く終わらせますから!」 「は? 終わらせるって何?」 あたしが驚いてコートニスを見ると、コートニスは慌てた様子で人垣を掻き分け、騒ぎの中心へと入っていく。あたしは不安になり、彼を追い掛けた。 コートニスは倒れた荷馬車の側にしゃがみ込み、馬を圧迫している連結金具をいろんな角度から眺めて状況を把握しようとしている。そんなコートニスをよそに、周囲の大人たちは力づくで、馬を荷馬車の下から引っ張り出そうとしている。 「無理に引っ張らないでください! 金具がお馬さんに刺さっちゃいますから! これ分解しても大丈夫ですよね? なら僕が外します!」 コートニスはキョロキョロと周囲を見回し、落ちていた細長い金属の棒を掴んで、びっくりするくらい手際よく、荷馬車を繋ぐ金具を分解して外していく。 「これ使えるか?」 「はい、ありがとうございます! お借りします!」 金属のボルトを外す時に使う工具を受け取り、コートニスはうんうん唸りながらボルトを緩めようとしている。そんな彼に、周囲の大人たちが手を貸し始めた。コートニスはテキパキとみんなに指示を飛ばして、だけど手元は着実に連結金具を分解していってる。 「ここが外れれば……あ、今です! お馬さんを引っ張ってあげてください!」 数人がかりで、馬が怪我一つなく荷馬車の下から引っ張り出される。コートニスはふぅと息を吐き出して、工具を傍にいた人へと返す。 「ありがとうございました。助かりました」 「凄いな、チビちゃん? 大の大人でもあんな手際よく連結金具は外せないぜ」 「え、あ……あの……あの……ごめんなさい! で、出過ぎた真似をしてすみませんでした! じ、じゃあ僕はこれで……」 コートニスは真っ赤になってあたしの方へと走ってくる。そしてあたしを見付けると、逃げるように手を引いてその場から立ち去った。 驚いた……あんなあり合わせの適当な道具で、複雑に折れ曲がった連結金具を簡単に外しちゃうんだもの。見た目によらず、すごく手先が器用なのね。 |
1|top|3 |