翼が見た灯り

ちっちゃな天使とちっちゃな男の子とのちっちゃな冒険。
彼女の想いは伝わるの?
彼の想いはどこにあるの?


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 アイタタタ……。
 あたしの背にある小さな翼の羽ばたきなんて、イタズラ好きな風の妖精が起こした突風にはまるで太刀打ちできなかった。一生懸命羽ばたいたけど、途中で流れに逆らうのはやめちゃった。だってチラリと見えた〝外界げかい〟の様子がとっても面白そうだったんだもの!
 天界と下界の境界でふらふらと一人で遊んでいたあたしは、人間ではなく天使なの。まだ見習いだけど。一人前の天使になるためのお勉強をサボって遊んでいたあたしを、からかうように巻き起こった突風に体が絡め取られ、あたしは天界から外界まで落っこちた。
 天使はその背に一対の翼を持っているから、高い所から落ちても人間みたいに怪我したりしないわ。でも痛みは同じように感じるの。
 石畳の上に盛大にお尻から落っこちて、あたしは涙目になってジンジンと痺れる手足とお尻を擦る。
 天使は人間たちを見守るのが仕事だから、その姿を見られちゃいけない掟がある。幸いあたしが落っこちた場所には誰もいなくて、たぶん落っこちる姿も誰にも見られてない。
 あたしの不注意と風の妖精のイタズラが原因の事故だけど、黙って下界に来ちゃっただなんて大天使様に知られたら……きっと怒られるわよね?
 早く帰らなくちゃ。
 でも……うーん。こっそり帰っても無駄かな? だって大天使様は全ての天使や天使見習いの行動を見ていらして、何もかも把握していらっしゃるの。きっとあたしの事ももうご承知になってるわ。早く天界に戻って、おとなしくごめんなさいして叱られよう……。大天使様はお優しいから、ちゃんと反省してごめんなさいすれば、きっと許してくださるわ。

 あたしはのろのろ立ち上がる。まだちょっと足が痺れてるけど、翼はちゃんと動く。大丈夫。飛べるわ。
 翼をパタパタと羽ばたかせようとした時、路地の向こうから硬い石畳を革の靴底が蹴る軽やかな足音が近付いてきた。大変! 人間かしら?
 さっさと飛んで逃げればいいのに、あたしは焦って慌てちゃって、どこか物陰に隠れようと右往左往する。そうこうしている内に、ドシンと背中に誰かがぶつかってきた。

「きゃっ!」
「わっ!」
 あたしは前につんのめり、後ろから来た誰かは尻餅をつく。驚いたあたしはつい声を荒げて叫んでしまったの。
「痛いじゃない! どこ見てるのよ!」
「す、すみませんごめんなさい! 急いでいたのでちゃんと前を見ていませんでした! あのっ……え、えと……すみませんっ! とにかくこっちへ!」
「えっ? なに?」
 あたしはその子に手を掴まれ、路地の端に積み上げられた樽の影に引っ張り込まれる。そのままその子は口元に指を立て、シィーッと「静かに」のポーズ。事情はよく分からなかったけど、有無を言わせない勢いに飲まれたのか、ついおとなしく従ってしまった。

 バタバタと、複数の騒がしい足音が近付いてくる。
「こっちの路地に逃げ込んだよな?」
「遠目だったからよく分からなかったが、もう一つ向こうじゃなかったか?」
「じゃあそっちだ! 逃がすなよ!」
 何だか不穏な会話を交わす人間の男たち。そして足音はまた遠ざかっていった。
 あたしを樽の陰に引っ張り込んだその子は、青い大きな帽子をサラサラの蜂蜜色の髪に乗せた、すっごく小柄な男の子。一瞬女の子かと勘違いしそうなくらい見目の可愛らしい子だったけど、あたしは天使だから、人間の性別なんて隠しててもすぐ分かるのよ。
「……ふぅ……」
 彼は男たちの気配が完全に消えたのを確認して、安堵の息を漏らした。どうやら彼にとっての危機は去ったようね。
 あら? この子……よく見たら、北方の人ね。髪の隙間からナイフみたいに尖った耳が見える。じゃああたしが落っこちてきたこの場所は、世界中から様々な人種が集う、中央大陸にある町の一つなのね。
 大きな中央大陸には、この子みたいな耳の尖った人間や、あたしたち天使の使うような〝魔法〟を行使できる人種がいる。いろんな人種の人間が集まって、それぞれに〝国〟という領土を作って暮らしていて──魔物なんかもいるけど、まぁ、おおむね平和な大陸ね。
 同族同士の国に分かれて暮らしてはいるけど、特にいがみ合ってる訳じゃないし、どちらかといえば持ちつ持たれつの国交があって、天界から見ている限り、助け合って仲良く暮らしてるように見えるわ。
「ううん……もう少し隠れていた方がいいかな……?」
 用心深く樽の向こう側を確認しながら、彼はブツブツ独り言。
 あら、あたしの事はまるで無視? この子の勝手な都合で不平を漏らす暇も与えずにこんなところに引っ張り込んでおいて。あたしはちょっとムッとして、声のトーンを落として口を開く。
「……ねぇ、ちょっと?」
「はい? ……あっ! す、すみません!」
 彼は慌ててあたしの手を離し、顔を真っ赤にしてペコペコと頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! 僕の個人的な問題に巻き込んでしまって、ご迷惑をお掛けしてしまって……えと……あのっ、本当にごめんなさい!」
 そういう風に作られた人形みたいに、何度も何度も頭を下げる彼の様子がおかしくて、あたしはつい、ぷっと吹き出してしまった。
「え、あの? 怒って……ませんか?」
「あははっ! 全然。むしろおかしいわ。あなたの様子が」
 確かに何かの問題に巻き込まれたんだろうけど、でもこういうのって、緩ゆるやかに退屈な毎日が過ぎていく天界にはない刺激的な出来事だから面白くって。

 ……って、あ! あたしったら、うっかり人間と喋っちゃってる!
 どうしよう……あたし天使なのに、人間に見つかっちゃうなんて。このまま慌てて天界へ逃げ帰っても、大天使様は全てお見通しよね? きっと怒られるだけじゃ済まないかも。
 そうだ! こうなったらこの子の記憶を魔法で消して、うやむやにしてしまえば。幸いあたしの姿を見たのはこの子だけだし!
 不思議そうな顔であたしを見つめている彼。彼の空色の大きな瞳に、一人で百面相しているあたしの顔が映ってる。
 えっと……うんと……急いで天界に帰っても、きっと大天使様にすっごく怒られるよね? だって大天使様は全ての天使の行動を見ていらっしゃるから、きっとこの様子ももうご承知のはずだわ。だったら同じ怒られるなら、急いで帰らなくても、もうちょっと下界を見物して楽しんじゃってから帰っても同じ事よね? 最後にこの子の記憶を魔法で消せば、あたしが人間界にやってきた痕跡こんせきは残らないもの。他の大勢の人間だって、小さなあたしの姿なんて、そんなに気に留めないだろうし。
 よし、決めた! 天界てんかいの掟は大事だけど、でもちょっぴり破っちゃおう!
 あたしはニッコリと笑って彼に詰め寄る。
「ねぇ! あなたはなぜ、あの人たちに追われてたの? それって面白い事? 楽しい事?」
「お、面白くなんてないですよ! あの人たちは人さらいで、僕を誘拐しようとしていたんです。あの、えと……こ、こういう人通りの少ない裏路地などでは……ごく稀に人さらいが出るんです。町の自警団のみなさんも見回りしてくださってますが、あまり努力の甲斐なく残念ながら、町の外の荒廃地区スラムなどでは人身売買はまだ撲滅には至ってないようなので」
 ずいぶん物騒な事を、事も何気にさらりと言う彼。しかもなんか小難しい言葉を使って大人ぶっちゃって。
「誘拐されそうになった当事者なのに、随分のんきに状況分析してるのね」
 訝しげに彼を見ると、彼はほんのり頬を染めて肩を竦める。
「はい。もう七回目なので慣れちゃいました」
「……それって慣れる慣れないの問題じゃないと思うけど」
 この子、見た目はおとなしそうだけど、けっこう胆が据わってるというか、神経が図太いのかも。
 言葉使いは丁寧だし、物腰もなんとなくいいお家のお坊ちゃんって感じだし、それなら身代金目当ての誘拐とか何回も遭遇して、毎回運良く逃げ出せたり、うまく助けられたりして、状況に慣れちゃったっていう言い分も理解できない事はない。やっぱり変だけど。
「でも慣れてしまったのは事実ですし……あっ! だ、大丈夫です! いつもちゃんと撒まいて誰も付いてきていないのを確認してから帰ってますので、姉様たちにはご迷惑をお掛けしないように気を付けてます。あ、でも今回は……その……あなたを巻き込んでしまいましたけど……すみません」
 しょんぼり肩を落として、彼は申し訳なさ気にあたしを上目使いに見る。
 天使に〝年齢〟という区切りはないけれど、あたしの見た目は人間になぞらえるなら、まだ子供。たぶんこの子と同じくらいの年齢か、ちょっとお姉さんかな?
「そうね……じゃああたしに申し訳ないって思うなら、ごめんなさいしてくれる?」
「あ、はい! 本当にご迷惑をお掛けしてしまって、申し訳ございませ……」
「そうじゃなくて!」
 あたしは彼の手を引っ張って、樽の影から勢い良く飛び出した。
「ゴメンとかそういう言葉なんかいらないから、この町の楽しい場所や賑やかな所を案内してよ! あたし面白い事、大好きなの!」

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