砂の棺 if 叶わなかった未来の物語

「砂の棺」完結後の、「誰か」が思い描いた、
叶わなかった未来の幸せな幸せな物語。
北の町・ミューレンでのカルザスとレニーの日常。
そして新しく出会う人たちとのふれあい、事件。


     6

「クッ……あなたなんかがいるから、パルチェットは……!」
 ヒステリックに叫ぶ女が、レニーの頬を鋭く平手打ちした。レニーは甘んじてそれを受け入れる。
「あなたのせいで、パルチェットの人生は滅茶苦茶にされたんだわ! あなたのせいで!」
 彼女は再び、レニーの頬を打つ。
「あなたなんて……あなたなんて……!」
 三度《みたび》手を振り上げた彼女の腕を、部屋に飛び込んできたマクソンが掴んだ。
「やめないか、姉さん!」
 マクソンが女を、実姉であるレトラを叱責する。
「離しなさいマクソン! この人さえいなければ、わたくしのパルチェットは、あんな酷い目に遭わなかったのよ! こんな人を庇うのっ?」
「レニーさんは悪くありません!」
 ホリィアンがレニーとレトラの間へ割って入った。
「いいんだ、ホリィ。本当に悪いのはおれだから」
 憔悴しきった表情で、レニーは力なく答えた。
「どこの馬の骨とも知れないこんな人に、気高いミンウ家の長子であるパルチェットの人生を滅茶苦茶にされて、母親として黙ってられないわ!」
「いい加減にしないか!」
 マクソンがレトラを怒鳴りつける。
「姉さんこそ、都合のいい時だけ母親面《づら》か? パルをうちに預けて、自分は好き勝手に遊び放題やってるだけだろう!」
「遊んでいる訳ではないわ! ミンウ家にふさわしい紳士を捜しているだけです!」
「それを世の中では、子供を放り出して遊んでいるというんだ! 自己満足な道楽も大概にしろ!」
「マクソン! それが姉に対する口の利き方ですか!」
 マクソンとレトラが醜い言い争いを繰り返している。ホリィアンの堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にして! お父さんも叔母様も、今はそんなことで言い争ってる場合じゃないでしょう? 叔母様、レニーさんはパルを助けてくれたのよ? あのまま見つからなかったら、パルは殺されてたんですよ! 命があっただけでも良かったと思えないんですか?」
「お黙りなさい! 穢らわしい下賤の者に、いかがわしく嬲《なぶ》られて、命があっただけ良かったですって? あんな年端もいかない子が、こともあろうに薄汚い男に玩具《おもちゃ》にされて、その親がどういう気持ちか理解できないというの?」
「分かりません! 分かりませんけど、でもパルは誰も恨みません! 当事者であるパルが憎むことをしないなら、周りの大人がとやかく言うことはないんじゃないですか?」
 レトラがキッとホリィアンを睨む。ホリィアンも負けじと奥歯を噛み締めた。
「パルチェットはまだ子供なの! だから状況を理解できないの! なら、親であるわたくしが代わりに出るところへ出るのは当然でしょう!」
「さっきお父さんにも言われてましたけど、こんな時だけ親の威光を駆るつもりですか? 育児放棄してるような叔母様に、パルの代弁をする権利なんてありません!」
「さすがは、浅ましい階級の男と恋仲になるような子ね。口だけは達者なこと!」
「姉さん、ホリィまで貶すつもりか!」
「誇りあるアイル家の血統に、異国から来た訳の分からない男との血を混ぜようだなんて、マクソン、あなた気でも触れたの? あなたの小生意気な娘は、下賤の男に誑かされているだけでしょうよ!」
「カルザスさんまで悪く言うなら、わたし、承知しませんよ! あとレニーさんをぶったこと、ちゃんと侘びてください! レニーさんは何も悪くないんですから!」
「ああ! 穢らわしい! 我が弟もその娘も、裏で何を考えているか分からない男に誑かされているのよ! わたくしはあなた達の思考なんてまるで理解できないわ!」
「出て行け! もうあなたを姉などと呼びはしない! アイル家とミンウ家は、今この時をもって絶縁する!」
「ええ、清々するわ! 二度とこんな家の門をくぐるものですか! 誰か! 馬車の準備を! それからパルチェットを連れてきて!」
「パルは今、治療中です! 動かせません!」
「パルをあなたに渡すつもりなどない! パルは正式に、我が家で引き取る!」
 ホリィアンは気丈に振る舞い、マクソンは心底憤怒している。
「マクソン。あなたがなんと言おうと、パルチェットの母親はわたくし。わたくしだけがパルチェットを自由に出来る権利があるの。正しき血統が、法がそれを証明しているわ」
 ホリィアンが悔しそうに唇を噛む。
「……すみません……でした……謝って済まされないけど……すみません……」
 レニーが掠れた声でレトラに謝ると、彼女は彼を蔑むように睨んで、ふんと鼻を鳴らした。そのまま無言で部屋を出ていく。
「姉があんなわからず屋だとは……レニー君、すまない」
「すみま、せん……マクソンさんにもご迷惑をかけて……おれは……」
「レニー君はパルを助けてくれたのだろう? それだけでも充分だ」
「でも……おれがいなければ……」
「ホリィ、レニー君に客間を使って休んでもらいなさい。間もなくカルザス君も戻るのだろう?」
「はい。レニーさん、こっちへどうぞ」
 ホリィアンはレニーの手を取った。レニーは彼女に手を引かれるまま、客間へと案内される。
「レニーさん、今はとにかく休んでください。ね?」
「ホリィ……」
「あ、着替えも必要ですね。何か探してきます」
 パルの傷口から出た血で汚れたレニーの服を見て、ホリィアンは着替えのことを思い付く。
「……パルの心の傷は一生残ると思う。大人に対して、強い恐怖心を抱いて、人との関わりを怖がるようになるかもしれない。おれ、パルの人生を滅茶苦茶にした。おれ、どうしたらいいのかもう、全然分かんないよ……」
「……ペドなんとかっていう性癖の人は、その……多いんですか? わたし、初めて聞く言葉で……」
「潜在的なのは結構いると思う。でも行動に移すまでやれる奴はそう多くないはず。後ろ暗い性癖だと理解してるだろうし、周囲の目があるから」
 ホリィアンは困惑したように、口元に手を当てた。
「パルは女の子みたいな容姿だったから、それに一人でいたから、目を付けられたんでしょうか?」
「ペドフィリアに性別は関係ない。子供であることだけが重要なんだ。抵抗できない子供に欲情して、自らのどす黒い欲望のはけ口にして……その子が痛みや嫌悪で泣き叫ぶと、余計に薄汚い快楽を見出すんだ」
「ひどい……」
「……おれも、ね……昔……七つの時に、初めて知らない男に……強姦されたんだ」
 ホリィアンが息を飲む。
「だからパルの気持ちはよく分かる。どんなに怖かったか、どんなに傷付いたか、自分のことみたいに分かっちまうんだ。だから……辛い。辛くて……胸が痛い」
「レニーさん……」
 ホリィアンがポロポロと涙を零した。
「わたし、なんて言っていいのか分かりません……お辛かったでしょうとか、怖かったでしょうとか、そんなありきたりなことしか……」
「ホリィが代わりに泣いてくれるだけで、おれは嬉しいよ。パルだってきっと……」
「お嬢様!」
 レニーの言葉を遮って、客間のドアが勢いよく開いた。そしてメイドが駆け込んでくる。
「どうしました?」
「パルチェット坊っちゃんが……またいなくなりました」
 ホリィアンとレニーが顔を見合わせる。そして慌てて部屋を飛び出した。
「また出ていったのかしら? さっき治療が終わったばかりなのに」
「まさかまだおれを捜そうと?」
「ありえます!」
 二人が玄関に向かうと、何か引き摺るような血痕が廊下に続いていた。血痕は廊下の脇に置いてある、大きな花瓶の陰まで続いている。
「……パル?」
 ホリィアンが声を掛けると、小さくしゃくり上げるか細い声が聞こえた。まだ外には出ていなかったらしい。だがそれは、彼が傷の痛みに堪えられず、その場で喘いでいたとも考えられる。
「パル。心配したのよ。急にいなくなって」
「お、ねえちゃん……パル、あいたいの……レニーにあいたいの……」
 苦しい程、胸がぐっと締め付けられるレニー。そこまで彼は自分のことを……。
「でもあえないの。パル、いたいいたいで、きたなくなっちゃったってママがゆうから……レニー、パルがきらいって……」
 ホリィアンが言葉に詰まる。パルを心身共に傷付けたのは、フィックスだけではない。

 ──実の、母親も、だ。

 実の母親ですら、傷付いた彼の純粋な心を、心無い言葉で引き裂いた。
 レニーは意を決し、花瓶の陰を覗き込んで膝をついた。
「パル」
「きゃっ!」
 パルがレニーの姿に驚き、悲鳴をあげる。
「おれはパルを嫌いになんてならないよ。パルがそうやって、自分で自分を悪く言う方がおれはイヤだな」
 極力優しい声音で、彼は小さな友人に囁きかける。
 潤んだ大きな瞳に映る自分の姿を見つけ、その瞳の持ち主が、どれほどまでに自分の存在を待ち望んでいたのかを思い知る。
「……でも……でもパルね。きたなくってわるいこになったってママがゆうの。パル……わるいこじゃないもん……わるいこじゃないってレニーゆってくれるから、あいにいこうとしたの。まっくらでこわくなってたら、しらないおじさんがつれてってくれるってゆったの。でもおじさん、パルにいたいこととかきもちわるいこととかして、レニーにあわせてくれなかったの」
「うん……」
 今はただ、語らせる。たどたどしくも、精一杯の言葉で思いを伝えてこようとしてくれるから。
「パル、いやってゆったの。そしたらおじさん、おこってパルをたたいたの。それから……すごくいたくてわかんなくなっちゃって……おぼえてない……ぐすっ……パル、わるいこだから……だめなの?」
 レニーは目を細め、パルを愛しげに見つめる。
「ねぇ、パル。おれ、パルに触っていい? 抱き締めていい? 今、パルは大人に触られるの、すごくイヤだろ? 怖いだろ? だけどパルはたった一人でがんばった。だからおれはパルを褒めてあげたいんだ。でもパルが大人が怖いなら、このまま向こうに行くよ」
「……ぐすっ……こわ、い……」
「じゃあ、ホリィなら怖くない? ママなら?」
 パルはレニーを見上げ、愛らしい顔を涙でぐしゃぐしゃにしたまま、両手を延ばしてきた。
「レニーがいい!」
「おいで、パル」
 レニーはパルの体をしっかりと抱き締め、泣きじゃくる彼の頭を優しく何度も撫でてやった。
「がんばったね。えらかったね。こうしておれのところに戻ってきてくれて、本当にありがとう。それから……怖い思いをさせてごめんね」
「レニー……こわかっ……ひぐっ……えぐっ……」
 もう彼を離したくない。レニーは腕の中で泣きじゃくる儚い天使を強く、優しく抱き締めた。
「パルチェット!」
 レトラとマクソン、そしてアイシーがやってくる。ホリィアンにパルの失踪を告げたメイドが、彼らにも報告したのだろう。
「パルチェット、その者から離れなさい! そんな穢らわしい者と……」
「いやっ! レニーがいいの!」
「パル。ママと帰るんだ。ママもパルをすごく心配してたんだよ? ママと一緒に帰って、怪我を治しておいで」
「いやー! だってママ、いっつもパルをひとりにするもん! だっこしてくれないもん! パルはママとかえんない! ママきらい!」
「ワガママ言うな! 言うことを聞け!」
 このまま手放したくないという気持ちを無理やり押し隠し、レニーはパルを叱りつけた。
「パル。約束したよな? パルの新しい宝物を探そうって。でもパルが怪我したままじゃ、宝物なんて探せない。だから今はママと帰って、怪我を治しておいで。次こそ約束、守りに行こう」
 今、この手を離せば、もう二度とパルには会えない。それは分かっていた。パルと交わした約束も嘘になる。レトラはそれほどまでにレニーを嫌悪しているのだ。もう二度と、この天使と会わせてもらえるはずなどない。
 だがレニーには、この手を離す以外の選択肢はなかった。それしか許されないのだから。
 シーアを失ったあの時と同じか、それ以上に……心は張り裂けそうだった。
「レニー……パル、きらいに……」
「嫌いにならない。絶対に。おれはパルが大好きだよ。だから、今はママと……帰るんだ」
 そう言い含めると、パルは再び大声で泣き出した。そしてレニーから離れ、レトラの元へと歩いていった。傷が痛むのか、両手でその身を抱え、足を引きずりながら。
「……じゃあね、パル……」
「帰りますよ、パルチェット」
 レトラは傷だらけのパルの手を引き──そう、素足のパルが辛そうに歩いているというのに、抱き上げもせず──カツカツと踵を鳴らして、玄関のドアを開けて出ていったのだ。


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