砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


  生まれ変われるならば

     1

 空は青く澄んでいて、豊かに繁る木々と、輝く水面を湛える湖が見える。何かの遺跡だったのか、崩れ落ちた壁や倒れた柱なども見える。それらは全て黒い岩でできていた。
 ここは一体どこなのだろう? 夢か現実か。このような自然豊かな風景は、全てが砂に覆われたウラウローにはない。
 だが……俺はここを知っている気がする。
 ぼんやりとした頭を覚醒させようとして、俺は視界の隅で動くものに気付いた。そちらへ目をやると、動くものは重そうな荷物を抱えた子供だった。その子供の背後には、見たこともない生物が迫っている。
 狼のような四足の、そして獰猛な牙を剥き出した双頭の獣。まるで太古にいたという魔物のようだ。あのような獣はウラウローにはいない。だが今、俺の目の前にいる。目の錯覚ではあるまい。極稀に発見されるという生き残り、というものだろうか? だが発見されるのは、腐乱した死体か化石化したものばかりだったかと記憶しているのだが。
 ふと俺の脳裏を一つの言葉、いや記憶している一つの単語がよぎる。遥か太古に滅亡したという、魔導帝国エルスラディア。魔法という不可思議な能力を操る、魔導師という者たちが作ったといわれる文明だ。
 実在したのかどうかは定かではない。具体的な記録などなく、語り部や詩人の歌の中にその名を残すだけの、幻の帝国なのだから。
 そのエルスラディアならば、魔物という化け物が存在してもおかしくはない。しかしウラウローでは魔物などという生物は、存在し得ないはずなのだが……?
 古代魔導帝国エルスラディア……もしやここはエルスラディアなのか? 双頭の獣は実際に俺の目の前にいる。夢を見ているのか、もしくは俺がエルスラディアにいるとしか考えられんではないか。
 俺は傭兵カルザスと共に、砂漠の国ウラウローにいたのでは……?
 カルザス! そうだ、俺とカルザスは暗殺者のシーアと対峙しておって……死んだのか? 死んだという実感はないのだが……いや。むしろ実感があれば、きっと生きているのだろうが。
 ……妙だ。俺は今、カルザスの中にいるのではない。何となくカルザス以外の者の目を借りているような、慣れ親しんできたカルザスの目で、目の前の光景を見ているのではないといった、奇妙な違和感を抱いていた。
 もう何年も俺はカルザスと共に歩んできたのだ。自分が憑依している体が、カルザスであるかそうでないかぐらいは感じ取る事ができる。
 奴の存在を感じぬという事は、やはりカルザスは……。
 カルザスの気配は感じぬし、むろんシーアの姿もない。ならばもう少し俺のできる範囲で現在の状況を把握せねばなるまい。
 先ほどの、双頭の獣に追われていた子供はどうなったのだ?

「来るなぁ!」
 子供特有の甲高い声が響き渡る。無論そんな声で獰猛な獣が怯むはずもない。
 くすんだ灰色の髪に、赤みの強い紫眼。そして白い肌は、明らかにカルザスたちウラウローの民とは違う。よく見れば着ているものや剥き出しの腕や足には、無数の傷がある。幼い子供なだけに、僅かな出血でも痛々しく見えるものだ。
「……あっ!」
 子供が突然立ち止まる。その足元は切り立った絶壁だったのだ。いつの間にやら朽ちた遺跡の屋根へと登ってきてしまっていたようだ。
 子供が振り返り、すぐ側まで迫った獣に向き直る。そして恐怖に歪んだ表情で、その場へと座り込んだ。獣は子供に喰らい付こうと、大地を蹴る。
 いかん! このままではあの者は……。
 俺は無意識の内に、子供の元へと瞬時に移動していた。
 む? ……“俺が”……か?
「失せろ。下等なる生物」
 俺の視界に突然飛び込んでくる獣。だがそれは一瞬で消えて霧散した。
 双頭の獣とあの子供の周囲には、何事もなかったかのように静寂が訪れ、心地よい風が吹いていたのだ。
「……なぜ呼ばぬ? お前の声を、私が聞き逃すとでも思うたか?」
 俺が言う。いや、俺でなく、俺と体を共有する者、俺の憑依している者が言ったのだ。
 やはりそうだ。おれはカルザスではない別の者に憑依してしまっている。それが誰なのかは……まだ分からん。
「は、はい。ごめんなさい……」
 俺の言葉に、子供は俯いて素直に詫びる。

 カルザスが殺され、死んでしまったから、俺は別の者と体を共有する事になったのではなかろうか? そうまでして俺は生きなければ……いや、何かを知らなくてはならんのだろうか?
 思考を巡らせ、不吉な仮定に気分を害する。カルザスが死ぬなど……。
 あの男は温厚そうな外見にそぐわぬ、思い込んだら俺の言葉も聞かずに突っ走るといった短所もあるが、俺を一つの人格として認めてくれるような、そんな懐の深き心優しき面もあったのだ。カルザスとならば、うまくやっていけると思っていた。俺も奴を気に入っていたのだ。そんな奴を失ったとは、にわかに信じたくはない。
 だが今の俺は、カルザスでない誰かに憑依しているのは間違いない。もう少し現在の状況を知りたい。

「私の側から離れる時は、行く先を告げてからにするがいい。捜し出すのも骨が折れる」
 俺の憑依している者が、腰を屈めて子供の頭を撫でる。
 この者はこの子供の親なのだろうか? それにしては子供は随分と萎縮し、他人行儀な素振りだが……。
「あ、あのっ……水鏡の中から泣き声が聞こえたんです。助けてって言ってるように聞こえて……だからおれ……」
 子供が抱いていた荷物をそっと差し出す。その荷物とはボロ布に包まれた赤ん坊だった。酷く窶れ、血色も悪く、泣き声すらあげていない。死が目前に迫っているのは誰の目にも明らかだった。
「もう動けなくって、泣く元気もなくて、でも放っておいたら死んじゃうって思って、えっと……えっと……」
 子供は必死に言葉を探している。だがそれだけしか思い浮かばなかったらしい。完全に口篭もってしまった。
「……下界は飢餓や疫病が流行《はや》っていると聞く。それゆえ捨てられたのだろう。その者にも死相が見える」
「助けてください! お願いします!」
 子供は幼児を抱き、深く頭を下げる。
「お前が私に無断で下界へ赴き、お前が勝手に拾ってきた者を、なぜ私が助けねばならん?」
「俺には助けられないからです。でも俺は、アイセルに助けてやるって約束しました。だからお願いします!」
「アイセル?」
「こいつの……おれの弟の名前です。おれが考えました」
 この子供はずっと幼児を抱えて獣から逃げていたのだ。幼児とはいえ、人一人抱えて走り回っていた腕は相当疲労しているはずだ。だが幼児を決して手放そうとしない。大した根性だ。
 子供は俺に向かって、いや、俺の憑依している者に向かって、幼児を助けろと言っている。死が目前に迫った幼児をだ。
 俺が憑依している者には死にかけた者を救えるような力があるのか? そんな魔法のような力など……。

 魔法……?

 そうか……エルスラディアならば……魔法を操る魔導師ならば、そのような真似ができてもおかしくはない。
 しかしエルスラディアは、実在したにしろ、架空の物語にしろ、遥か太古に滅んでいる事になっておるのだ。むろん魔導師も。魔法の力など、俺やカルザスのいた時代には存在しないのだ。
 俺が怪訝に思っていると、俺の憑依している者は小さく笑った。
「……名までつけておるとはな」
 苦笑すると、子供は強い意思を秘めた目で、じっとこちらを見据える。まるで見えぬはずの俺が見透かされているような、そんな息苦しさを感じるような錯覚を起こす。
「おれ、ちゃんと面倒見ます! アイセルが元気になったら、マリスタ様の手伝いもきちんとするように言います。だから……」
 ふむ。俺が憑依している者はマリスタというのか。やはりカルザスではない……か。
「下界の者に、私の私物を荒らさせる訳にはいかん。私とお前は下界の者と関わる事は許されぬ」
「でもアイセルは泣いておれを呼んだんです! おれにはアイセルの声が聞こえたんです! マリスタ様に聞こえなくても、おれには聞こえる声でおれを呼んだんです!」
 強く叫び、子供は幼児を……アイセルを抱き締める。
「おれにはまだアイセルを助ける力はないけど、助けるって約束したんです! 死んじゃうアイセルを助ける事はできないけど、生きてるアイセルならおれ、助けられるんです!」
 駄々を捏ねているようにしか思えん屁理屈で、だがこの子供は自身の強い信念をもってして、しつこくマリスタに食い下がる。その意思はやはり強い。
「アイセルを助けてください。お願いします」
「……よかろう」
 幾度めの子供の陳情だったか。俺、いやマリスタはついに折れた。
 マリスタがアイセルに手を翳すと、微かな虫の羽音のような音がどこからか聞こえた。すると死人の色をしていた肌に赤みが差し、苦しげな寝顔は安らかになり、生きる者が放つ輝く光が見えるようになる。
 俺が憑依している者、マリスタという者はやはり魔導師なのだろう。常人にこのような真似ができるはずがない。
 滅んだはずのエルスラディア……実際には滅んではいなかったのか? そして魔導師たちも。
「アイセル。お前は今この時より、私の弟子となり、アーネスの弟となった。共に参れ」
「ありがとうございます、マリスタ様!」
 アーネスと呼ばれた子供が嬉しそうに笑みを浮かべ、幼児の頭を撫でる。
「戻るぞ、アーネス、アイセル。私に下界の風は合わぬ」
「はい! 行こう、アイセル」
 俺の憑依している者、マリスタはアーネスの手を取り、空を見上げる。そして俺は我が目を疑った。
 巨大な黒い岩が浮かんでいるのだ。いや、ただの岩ではない。大きな屋敷や、木々、池まであるのだ。それはまるで富豪の持つ広大な邸宅や敷地を、そのまま切り取って空へ浮かべたようだと説明した方が分かりやすいか。
 しかも不思議な事に、マリスタたちの足は地についておらんのだ。空を飛ぶように浮かび、その邸宅がある巨岩へ、屋敷のある、空に浮かぶ地へと降り立つ。
「アーネス。魔導師はこの天空の地でしか生きる事を許されぬ。他は全て崩壊し、我が屋敷しか残ってはおらんが、このエルスラディアだけが、我らの住むべき地なのだ。もう無闇に下界へ降りるでないぞ」
「は、はい」
 アーネスはアイセルを抱いたまま、素直に頷く。
 そうか……思い出した。エルスラディアの別名は天空都市。空に浮かぶ魔導師たちの楽園。しかし俺の目に写る光景は楽園と例えるには程遠い。
 それなりに広大ではあるが、マリスタのものらしき屋敷が一つきりで、後は何もない小さな庭園。先ほどのマリスタの言葉や屋敷の様子から察するに、他の魔導師はいないようだ。他の天空都市にいるのか、それとももういないのか。
 そういえば、マリスタは全て崩壊したとか言っておったな。マリスタたちを残し、他の魔導師は滅び、魔導帝国エルスラディアも徐々に崩れ落ちていったという事か?
 今後はカルザスでなく、俺はマリスタと共に生きろという事なのだろうか?
 俺はカルザスにそうするように、マリスタに声を掛けてみようと意識を集中させた。
 刹那、激しい頭痛に見舞われ、俺の集中が乱れる。体はマリスタのもので、俺としての実体はないはずなのに、なぜだか俺の意識や全身を伝うような強烈な痛み。俺は叫びそうになり、そのまま意識が彼方へと遠のいていった。

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