砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


     3

 気配を殺し、部屋の隅のクローゼットの陰に隠れていると、何とドアでなく、外に面した窓から室内へと侵入してくる人影があった。
 人影は面倒臭そうに覆面を外し、高く結い上げていた髪を解く。窓から差し込む月明かりに、銀色の長い髪は幻想的に輝いた。そのまま浅く一息吐き、腰に手を当てて斜に構え、こちらに顔を向けてふっと口許を歪めた。

「……ふぅ……ねぇ。いつから分かってたの?」

 女だと偽っていない時の……シーアの声だった。
 いつも見かける体型の分からないゆったりした白いローブではなく、体に密着した黒い服に黒い皮手袋。元々華奢だとは思ったが、思わず眉を顰めてしまうほど異様に細い体つき。か細い腕には、あの暗殺者が持っていた短剣がいつの間にか握られている。
「隠れていたんですけど、気付かれましたか」
 カルザスが姿を現すと、シーアはおかしそうに嘲笑する。
「力技しか知らない傭兵なんかが必死に気配殺したって、おれにはすぐ分かるさ。本気で気付かれたくないってなら、本物の死体になる事だね」
「それはちょっと困ります。死んでしまうと、あなたを捕まえられませんから」
 部屋の隅にあるランプに火を入れて、シーアは振り返る。気を抜いているようにも見えるが、短剣を手放していない。つまりいつでも臨戦体勢を取る事が可能だという事なのだろう。
 奴の間合いに入ってはいかんぞ、カルザス。
「もう一度聞くわね。それで……私の正体はいつ気付かれちゃったのかしら?」
 女として振る舞っている時の艶っぽい笑みを浮かべながら、ハスキーな甘い声で問い掛けてくるシーア。
「ついさっきです。シーアさん、僕の肩を押しましたよね? あの手の感触と、香木の匂いがあなたと同じでした。珍しい香木を使っていて、裏目に出ちゃいましたね」
 そんな些細な事でシーアが暗殺者であると結論付けたのか? 単に共通点が多いだけだという可能性は考えなかったのだろうか。
 もっとも……カルザスの導き出した答えは正しかった訳だが。
「あら、そんな事で? でも私の判断ミスね。血の臭いを消すための香木で正体を悟られちゃうなんて。普通の男の人って、そういうものに興味も知識もないと思ってたわ」
「僕、関心のある事に関しては記憶力、凄くいいんですよ」
「うふふ。それって、私に興味を持ってくれてるって事? 嬉しいわね」
 長い髪を掻き上げ、シーアは目を細める。
「でも残念ね。もう少し鈍い坊やなら……長生きできたのにな!」
 シーアの微笑が狂気の笑みに豹変し、視界から消えたと思った瞬間、カルザスの目前にまで奴が迫っていた。本能的に身を引いていたのだが、それは正解だった。
 空を裂くシーアの短剣が、薄明るいランプの光を帯びて、真横に空間を切り裂く鈍い光の残像を残す。
 澄んだ紫の瞳は狂気に彩られ、美しい歌を紡ぎ出していた唇には、不敵な笑みが浮かんでいる。カルザスを慕い、朗らかに微笑んでいたシーアの姿はそこにはない。獲物を殺戮する事だけを悦びとする……残虐な悪魔が一人いるだけだ。

 闇雲、手当たり次第、そういった言葉が相応しいだろう。当てる事に集中しておらんのか、むやみやたらと短剣を振り回し、カルザスに詰め寄ってくるシーアに、カルザスは防戦一方だ。
 しかしよくよく観察してみれば、適当に短剣を振り回しているようだが、的確に急所を狙う一手を組み込んできておる。だからこそカルザスは下手に手出しできず、防戦のみになってしまっておるのだ。
 だがカルザスも、いつまでも防戦に徹している訳にはいかんと感じたのだろう。
 俊敏さでは明らかにシーアより劣っているが、そう簡単に負けるような奴ではない。半ば捨て身で僅かな隙に剣を振り、シーアの短剣を弾いた。
 甲高い音を立てて床に転がるシーアの短剣。
「降参してください」
「誰が!」
 短剣を弾き飛ばされたシーアがぐっと身を屈める。そのままシーアを押さえ込もうとしたカルザスだが、横っ面に衝撃を受け、一瞬だが意識が遠のいた。シーアに拳で頬を打たれていたのだ。
 すぐに体勢を立て直したカルザスだが、続け様に放たれたシーアの蹴りに腹部を庇う。だがシーアは容赦なく、カルザスの腕に蹴りを入れてきた。
 あの細い体のどこに、このような力があったのかと目を疑う俺とカルザス。非力そうな外見だが、シーアの放ってくる蹴りや拳は重く、体の芯に響くようだった。
「……ック……ククッ……」
 シーアの口から含み笑いが漏れる。カルザスを嘲笑っているのか? 
 鋭い膝蹴りに何とか耐えるが、すぐに真一文字の手刀が放たれる。それを防いだかと思えば、逆手側から腹部に低い肘打ちだ。奴の体術はとんでもなく俊敏で、まさに電光石火。短剣で対峙していた時より更に防戦に手一杯となり、とても反撃できるような隙を見出せない。先ほどより確実に手数が増えておるのだ。
 だがこれがカルザスの実力なのだろうか? 普段の奴を見ている限り、俺にはもう少しできる男かと思っておったのだが……まさかシーアはカルザスの剣技を上回る体術を会得しておるのか?
 しかし、くそ……こいつは剣術よりも体術を得意としていたのか。カルザスは過去に体術を得意とする奴とは戦った事がほとんどない。どう相手すればよいものやら……。
 拳を打ち込まれた腕は痺れ、指先が震えている。徐々に剣を握る事すらままならなくなる。
「か、観念なさい!」
 突き出された拳を篭手でいなしながら、カルザスはその腕を掴む。そのまま渾身の力を込め、反動をつけてシーアの体を壁へと叩きつけた。
 鋼の長剣を軽々と振り回すカルザスの腕力で、硬い壁へと体を叩きつけられたのだ。女子供や軟弱な者なら、運が悪ければ骨折くらいするだろう。暗殺者であるシーアとて、女装のためにだと思われるが、あの華奢な体だ。骨折まではしなくとも、衝撃で昏倒でもしてくれる事を願うしかない。
 床に崩折れるシーアだが、意識はあるようだ。小刻みに肩を震わせている。息が切れている訳ではなく、痛みを堪えていると判断してよいのだろうか?
 ようやく剣を構え直し、ゆっくりとシーアに近付くと、シーアはのそりと体を起こした。口の中を噛んだのか、唇の端から血を滴らせ、体を持ち上げようと、ぎこちなく腕を曲げる。
「動かないでください。おとなしく拘束させていただければ、これ以上の攻撃はしません」
「……ッククク……あはは……」
 カルザスの言葉を無視して、シーアは壁に手をついて立ち上がろうとする。その姿に、カルザスは眉を顰めた。
 焦点の定まらない瞳は幻影を見るかのように虚空を漂い、まるで自分の身に走る痛みが快楽であるかのように、恍惚の笑みを浮かべているのだ。ゾクリと、カルザスの背筋が凍る。
「シーアさん……?」
「……痛いなぁ……あは……痛いよ……手加減、なしか? 酷ぇよなぁ……あははっ……は!」
 ゆっくりと立ち上がり、壁に寄り掛かって俯く。しかし呼吸は一切乱れておらん。

 ──来る! 退《ひ》け、カルザス!

 唇から滴る血を拭おうともせず、シーアは顔を上げる。その瞳には、全てを圧倒するかのような殺意が燃え上がっていた。
「殺、ス……ッ!」
 身構えもせずにシーアはカルザスの懐に飛び込み、剣を持つ手に手刀を入れ、同時に腹部に鋭く膝蹴りを叩き込んできた。それらを一呼吸も終わらぬ内にこなしてしまったのだ。まさに目にも止まらぬ、と表現すべきだろう。
 カルザスは剣を弾かれてしまい、丸腰だ。
「……っ!」
 カルザスが声をあげる間もなく、素早くカルザスの喉に爪をたてるシーア。指で喉を突き破ろうとでもいうのだろうか?
 必死に抵抗し、シーアを振り解くが、掠めるような蹴りに一瞬気を取られ、次に来た衝撃でカルザスは大きく体勢を崩す。
 信じられんような角度から叩き込まれた膝蹴りの痛みを堪えていると、関節を狙った次の攻撃が待ち構えている。僅かでも逃れようと身を引けば引くほど、シーアの攻撃は熾烈さを増すのだ。
 こやつ、全身が武器なのかっ?
 足払いを食らって転倒したカルザスだが、これは体勢を立て直すいい機会になる。
 片腕で床を叩いて反動をつけて体を転がし、上体を起こそうと腕を突っ張った瞬間、いつの間に詰め寄られたのか、全体重を乗せたシーアの踵がカルザスの右腕に落ちた。
 たまらず悲鳴をあげるカルザス。
 肘から先の感覚がない。これは完全に腕を折られたかもしれん。
 武器もなく、利き腕を折られ、しかも相手は暗殺者だ。俺もカルザスもこのような場所で、このような形で、短い生涯を終えてしまう事になるというのか?
 シーアがカルザスの自由を奪うように、胸に片足を乗せて比重を掛けてくる。そして嘲笑しながら腕の激痛に歪むカルザスの顔を覗き込んできた。
「あはは……意気がってた割には手応えないね。でも結構、健闘した方かな、おれに手傷を負わせられたんだからさ」
 シーアの手には短剣が握られている。先ほど落としたものだが、いつ手に取ったのか、俺には分からなかったし、知ろうとも思わん。あれは一体何人の血を啜ってきた短剣なのだ?
 ティケネーが惨殺される様子が頭の中にフラッシュバックする。胸を抉り、腹を抉り、血と臓物を撒き散らして狂喜する暗殺者の姿が鮮明に蘇る。あれに切り裂かれるかと思うと、ゾッとするどころの話ではない。
「……あは……はは……あんたの事……嫌いじゃなかったよ……」
 シーアの表情から、相手を見下すような冷笑と非情な殺意が消えた。泣き出す寸前の子供のような表情になり、酷く呼吸が乱れ始める。先ほどはあれだけ激しく動きながらも一切乱さなかった呼吸だが、喘ぐように空気を貪り、荒く息を吐き出している。
 途惑うかのように眉間に皺を寄せ、目を細めるシーア。奴を見上げ、カルザスは言葉もなく唇を噛む。
「どうし……て、気付いたんだよ!」
 そう叫んだ刹那、強烈な殺意がカルザスに浴びせられ、短剣が振り下ろされた。覚悟を決め、カルザスは目を閉じる。
「ック……クク……あはは……」
 意識が闇の底へ沈んで行く中、シーアの嘲笑だけが遠くに聞こえた。

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