砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


   闇の中の深紅

     1

 月は欠け、風がないので雲の流れは遅い。闇に潜む者たちが、建物の暗き影に乗じて動き出すには、絶好の機会となった。
 傭兵ギルドから斡旋された仕事は、この町の商人、ティケネーの身辺警護。ただし夜間のみ五日間という制限付きだ。
「昼夜逆転の仕事もようやく今日で終わりですよ」
 カルザスは欠伸を噛み殺しながら、囁くような声音で言う。周囲に人はおらんから、俺に言ったのだろう。
 ──今日で最終とはいえ、気を抜くなよ。
「分かっています」
 しんと静まり返ったティケネーの屋敷内に、怪しい気配は何一つ感じられない。だからこそ、ますます気を抜けない状況だな。
 依頼人であるティケネーはベイの町ではかなり有名な男らしい。
 商人たちの間では、交易に関しての鋭い勘と卓越した手腕で敏腕商人として語り草になっているようだが、一般の者たちには強欲守銭奴と影で囁かれる程の憎まれっぷりだそうだ。
 カルザスの父親とどこか似ていると思うのは、俺だけではないようで、あまり他者を個人的な感情で選り好みしないカルザスも、ティケネーの言動に対して、ごく稀に渋い顔をする。成功した商人という者はなぜか似てくるもののようだ。
 だがティケネーの人間性を個人的に好もうが好まざろうが、仕事である限り何を言われても耐えねばならん。五日間という契約期間だけ辛抱すれば、その前に何があろうと、後から何が起ころうと、こちらの知った事ではない。
 そう割り切れる仕事である分、傭兵とは気楽な商売だ。
「風が出てきましたね。ようやく雲が流れてくれます」
 カルザスは立ち上がって注意深く周囲を見回す。
 夕刻、見知らぬ傭兵が屋敷にやってきた。きっとカルザスと入れ替わりに雇った、明日からの護衛なのだろう。
 傭兵を長期で雇わない理由は、ティケネーの用心深い性格からくるものだと推察される。確かに長期で雇い入れ、場に馴染んだ傭兵は、家人の皆が接しやすく頼み事もしやすくなるという利点がある。しかし慣れからくる油断で、とんでもないミスを犯すものだ。
 俺がティケネーの立場だったとしても、よほど気に入った傭兵でもいない限り、同じように短期間という期限を設け、複数の傭兵を入れ替えつつ雇うであろう。

 夜空の雲の流れを見つめていたカルザスが、ふいに剣の柄に手を伸ばした。
「……空気の流れに乱れがありました」
 そう言うが早いか、屋敷の中に戻り、迷わずティケネーの寝室に向かう。
 昔からカルザスは勘が良かった。まさに勘としか説明できんような閃きを頼りに行動し、何度も奇跡のような出来事を俺に見せつけてきた。ある時は盗賊の奇襲を傭兵仲間と共に未然に防ぎ、ある時は砂漠に落とした宝石を見つけろという依頼人の無茶な依頼に、ほんの半日で目的の宝石を見つけ出してきた。カルザスとは、そういった不可思議な魔法のような閃きという能力を稀に発揮するのだ。
 今も俺には分からん不穏な何かを感じ取ったらしい。ティケネーの寝室の前で立ち止まり、そっと聞き耳を立てる。
 ドアの向こう側から洩れてくるベッドの軋みと何かを突く音。寝返り程度の物音ではなく、外部からの強い圧力を受け続けているような音が断続的に聞こえてくる。これは明らかに中で何か異常事態が起こっている証拠だ。なにせこの寝室にはティケネー一人しかおらんはずなのだからな。
 音を発てないように静かにノブを回すと、ドアはゆっくりと開く。
 おかしい。物事の対処、特に身辺の護りには慎重なティケネーが、無防備になってしまう就寝中の寝室に鍵を掛け忘れるとは考え難い。傭兵一人雇ったからといって、このような基本的な対策を怠るような男だとは思えんのだが。
 カルザスはここで何か起こっていると確信したらしい。
「失礼します!」
 ノブに手を掛け、勢いよくドアを開け放つと、異臭と共に冷たい風がカルザスを包んだ。
 窓から差し込む暗い月の逆光に照らされているのは、ベッドの上で横になっている小太りの男に覆い被さり、両手で何かを掲げている黒い人影だった。
 小太りの男はティケネーだが、黒い人影に見覚えはない。顔が見えぬのだから、見覚えも何もあったものではないのだがな。人影は刃の薄いナイフのようなものを手にしており、何度も何度もティケネーの胸や腹にそれを突き入れ、肉を抉っているのだ。
 暗い寝室には、カルザスとティケネーの死体、そして不審者しかおらん。家人は別の棟におるゆえ、この事態にはまだ気付いておらんだろう。カルザスは声を失って立ち尽くしてしまっていた。
 ティケネーは原型が分からぬ程、体の全面を滅多刺しにされ、完全に事切れておる。だが人影はティケネーを刺す事をやめないのだ。カルザスという傭兵に、殺害現場を目撃されている今現在もなお!

「……あ、あなたは何者ですか!」
 我に返ったカルザスが、スラリと剣を抜いて声を張り上げる。
 不審な人影は、その声でようやく自分以外の者の気配に気付いたかのように手を止め、やたら緩慢な動作でベッドから降りた。だらりと下げた片手に持つナイフからは、ティケネーのものと思しき血が滴っている。
 あの様子では、あの者も相当な返り血を浴びているはず。普通の神経をした者ならば、ショックで正気を失いそうなものだ。そう……普通の神経をした者ならばな。
 その者は笑うかのように小刻みに肩を震わせ、腕を大きく振り被ってナイフを根元までティケネーのグシャグシャに掻き乱された腹に突き刺した。その反動で赤黒い血が撥ね、臓腑の一部が千切れ飛んで床に落ちる。
 う、ぐ……気分が悪い。俺に実体はないというのに、腹から酸《す》い液体が込み上げてくるようだ。
 細身で長身の男。体型からそれだけは分かったが、頭部全体を覆う黒い覆面のせいで顔までは分からん。
「あ、暗殺者……ですか?」
 暗殺者──傭兵が金を得て護衛や荒仕事などをこなすように、暗殺者は金を得て人を殺《あや》める。むろん傭兵と違い、合法ではない。
 傭兵の中にも他者を殺める者もおらんとは言わんが、そのような者はごく一部だ。ほとんどの傭兵はいくら粗暴とて、それが根っからの悪人でない限り、さすがに相手の命までは奪わん。
 暗殺者か……話には聞いていたが、実際に出くわしたのは初めてだ。
「逃がしません!」
 依頼人を殺されてしまった事は重大な失態ではあるが、ここで暗殺者を逃がしてしまえば、カルザスはこの町で傭兵としての信用を確実に失うだろう。そうなれば他の町に移るしかあるまい。ここは何としてもあの暗殺者を捕らえねばならん。
 剣を振りかざして暗殺者を斬り付けるが、暗殺者は予想を遥かに上回る俊敏さでその太刀筋を見切る。そして挑発するかのように、剣の腹を手の甲で弾き、そのまま滑るように窓から身を躍らせた。
 まさか! ここは三階だぞ!
 カルザスが窓に駆け寄ると、暗殺者は階下の窓の桟《さん》に掴まっていた。そのまま反動をつけて軽々と隣家の低い屋根に飛び移る。何て身の軽さだ! 
 カルザスは舌打ちし、屋敷を出て暗殺者の後を追う。だが今更奴を追跡したとしても、捕らえる事は難しいだろう。あの敏速な動きと身軽さだ。おそらくはもう……。
 ──見失ったな、カルザスよ。
「どこかで息を潜めてこちらの出方を窺っているだけです!」
 悔しげに唇を噛み、カルザスは周囲に不審な気配がないか、躍起になって探る。だがそのように頭に血が上った状態で気配を探ったとしても、闇に紛れた暗殺者を見つける事などできようはずもない。むしろ暗殺者と剣を交えずに済んで、命拾いしたのではないか?
 ──強情はよせ。ティケネーの屋敷に戻り、追跡の失敗を報告しろ。依頼も御破算だ。
「目の前であんな凶行が行われたんです! 諦めきれませんよ!」
 壁に拳を叩きつけ、カルザスは剣先を下げる。そんなカルザスの耳に、微かな足音が聞こえた。
 凄んだ表情のまま振り返り、その勢いのまま剣を突き付けるカルザス。
「きゃっ!」
 カルザスの突き出した剣に驚いたのか、無様に尻餅をつく人影。その者は両手で口許を押さえ、体を震わせてこちらを見上げている。
 怯えた表情でカルザスを見上げているのは、あの銀髪の詩人、シーアだった。
 薄暗い月明かりの下で、互いの姿を認識したのは、カルザスもシーアもほぼ同時だったのだろう。
「カルザス……さん?」
 慄《おのの》く弱々しい声音がシーアの口から洩れる。
「シーアさんですよね……?」
 シーアの表情から緊張が解け、安堵のため息を吐きながら立ち上がってローブの砂を叩く。
「いきなり怖い顔して剣を突き付けてくるんですもの。通り魔か何かだと思ったわ」
「いえ……あの……すみません」
 カルザスはすっかり毒気を抜かれ、剣を鞘に収めて頭を掻く。
「あの……すみません、驚かせてしまって」
 再びシーアに頭を下げるカルザス。
「本当に驚いた。でもいいわ、カルザスさんなら」
 シーアはにこりと微笑み、乱れた髪と肩に掛けたショールを整える。足元には奴の荷物であろう皮の袋が落ちておる。
 しかし妙だな。
 こんな誰もが寝静まる真夜中に、女が一人でうろついているなど。酒場とて、とっくに閉まっている時刻のはずだ。
「シーアさん。真夜中に女性が一人で出歩くなんて危険ですよ」
「ええ、分かってるんだけどね……どうしても寝付けなかったのよ。真夜中だからこそ、誰もいないから安全だと思ってたんだけど。考えが甘かったかしら?」
 おどけるように肩を竦めるシーア。確かにそれも一理あるな。誰もおらんからこそ返って安全とは、考えたものだ。
 シーアと出会い、毒気を抜かれ、カルザスも暗殺者の追跡を完全に諦めたらしい。肩を落とし、ため息を吐く。
「この辺りに危険な者が息を潜めているかもしれません。シーアさん、なるべく早く帰った方がいいですよ」
「ふぅん? ……そうだ、なんだか妙に怪しい人ならさっき見かけたけど」
 シーアは唇に指先を当て、肩に掛けたショールをもう片方の手で押さえて首を傾げる。
「怪しい人……? シーアさん、その不審者、どちらへ向かいましたかっ?」
 カルザスはシーアの腕を強く掴んで詰め寄る。ショールが落ち、シーアは痛みのためか表情を歪めた。
「痛いっ!」
「す、すみません。僕、その人を追ってるんです! どんな人でしたか?」
 カルザスが手を離すと、シーアは腕を擦りながらショールを拾い上げる。
「い、いきなりぶつかってこられただけだから、ちゃんと顔を見てないわ」
「それでも構いません。どちらへ向かったんですか?」
 シーアはショールを自分の肩へと掛け、ゆっくり振り返る。
 ん? あの硝子細工の耳飾りを外しておるな。まぁ、夜間の散歩にめかし込んでも仕方ない。その時、ふっと甘い香りが鼻を衝く。香木だか香水だかを身にを付けておるのは、女としての最低限のたしなみなのだろうか?
「よく覚えてないけど……たぶんあっちよ」
「助かります。それでは気をつけて帰ってください」
「ええ、カルザスさんも……あまり無茶はしないようにね」
 シーアをその場へ残し、カルザスはシーアの指し示した方角に向かって走り出した。

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