砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


   宿怨

     1

 窓枠にピンで取り付けられた、皮を貼り合わせた風砂避け。その隙間から白い光が差し込んでいる。どうやら夜が明けたらしい。
 深夜に目を覚ましたシーアと見張りの交代をし、仮眠を取っていたが、こうも瞼の上に直接日光が当たっていては、眩しくておちおち眠ってなどおれんな。
 カルザスは体を起こし、両肩をほぐすように軽く肩を回す。
「……あれ、シーアさん?」
 見張りをしていたはずのシーアの姿がない。もしやふらふらと出歩き、ジェレミーか暗殺者たちに、かどわかされたのではあるまいな。
 カルザスは剣を手にして、そっと部屋のドアを開けた。すると微かに音楽が聞こえた。ハープのようだな。シーアか?
 鐘楼の上部には、古い鐘が見える。ラクアの人々に刻を告げる鐘だ。梯子が……あるな。ここだろうか?
「登ってみましょうか」
 シーアを捜さねばならん。当然だろう。それにハープの音は上から聞こえる。
 カルザスは古い梯子に手を掛け、ゆっくりと昇る。この折れそうなほど凄まじい軋み音が不安感を募らせる。途中で折れて落ちたりせんだろうか?
 白色の朝焼け……今日も暑くなりそうだ。早朝だというのに、じりじりと照り付けてくる日差しはかなり強い。
 砂の混じった風は乾いておる。先日雨が降ったというのに、もう乾ききった風が舞っておるとは。広大な砂漠に吸い込まれた水は、一体どこへゆくというのだろう? 各地の水源となるため、ウラウローの地下に染み渡っておるのだろうか? 砂漠の国ウラウロー……草木の生えぬ不毛の地。エルスラディアの落下によって生まれた地。
 梯子を登りきった先、鐘のすぐ脇には、人が腰掛けられる程度の段差がある。本来は鐘の補修や点検の足場にするためのものだ。そこにシーアは腰掛け、昇る太陽を見つめながら、ハープを爪弾き、歌っておったのだ。
「こちらでしたか。危ないですよ、そこ」
「おれなら大丈夫」
「ハープの音って、案外響きますよ。暗殺者さんたちに、僕らの居場所を教えるような事になりませんか?」
「分かんないよ、そんな事」
 シーアはハープを奏でる手を止め、それを壁に立て掛けた。片膝を抱え、目を細めて彼方を見つめている。
 物憂げなその横顔は、陳腐な表現だが、まさに天使そのものだ。この秀麗な姿から、奴が暗殺者の頭目代行であるなどと、予測できる者はまずいないだろう。
「……勝手に部屋を出て悪かったね」
「それは構いませんけど」
 カルザスは梯子に手を掛けたまま、シーアの隣に膝をつく。身軽で並外れたバランス感覚を持つ奴のような真似など、常人では不可能だろう。さすがのカルザスも梯子から手を離す事ができんようだ。高所恐怖症というほどではないが、さすがに足場が心許ないここは、な。
「カルザスさん。聞いてもいいかな」
「はい、何でしょう?」
 シーアがカルザスの方へと顔を向ける。
「物心ついた頃からずっと、シーアと出会ってからもずっと……沢山の人を欺いて、沢山の命を奪って、暗い月の光も射さない闇の中でおれは生きてきた。暗闇の中でしか、おれは生きられないと思ってた。でも……おれは今、日の光を浴びてる。温かくて、眩しくて……目が眩むよ」
「そうですね。太陽は誰にでも平等に光の恩恵を与えてくれます」
「うん。おれにさ……この光を浴びる資格って……あるのかな……?」
 カルザスが身を乗り出してシーアの頭に手を乗せる。子供の頭を撫でてやるように。にこりと柔和な笑みを浮かべ、言葉を選ぶようにゆっくりと、一つ一つの語を区切るようにゆっくりと……幼い子をあやすが如く、不安げな表情をしたシーアを諭してやる。
「僕は今、言ったはずですよ。太陽っていうのは、誰にでも平等に光の恩恵を与えてくれますって。資格なんて必要ないです」
 シーアの表情は変わらない。だが、奴を包んでいた空気が変わった。
「そっか。良かった」
「他に質問はありますか? 何でも答えてあげますよ」
「うん、もう無いよ」
 シーアは両足を鐘楼塔の外へと投げ出した。砂交じりの風に、その藍色の長衣の裾が緩やかに靡く。
「危ないですよ!」
「……高い場所は怖くないよ」
 シーアはそう言い、目を細める。が、次の瞬間、奴は小脇に置いたハープの弦を小さく指先で弾き、うんと頷いたのち、両手で左右の壁を強く突いて塔の外へと身を投げ出していた。

 緩く描画が連続して瞼に映り込むように、カルザスの視界に舞う無数の細い銀糸。その身を支えるものを一切無くしたシーアは、風を、光を、全身に浴び、目を閉じて全ての抵抗をやめていた。

「シーアさ……ッ!」
 とっさに我が身を省みずに両腕を伸ばすカルザス。
 莫迦な! 奴は死ぬ気かっ? 幾ら身が軽いとはいえ、このような高所から落ちて無事で済むはずがあるまい!
 想像を絶する力で、カルザスの腕が地上へと引っ張られる。シーアの全体重がカルザスの腕一本に支えられているのだ。両腕は間に合わず、ただ一本の腕だけが、カルザスとシーアを繋ぎ留めている。
 カルザスに手首を掴まれたまま、シーアは顔を上げて瞼を開く。そしてその瞳を潤ませた。
「……落ちなかった……」
「お、落ちなかった? あっ……ちょ、ちょっと待ってくださ……すぐ、助けてあげますからねっ……!」
 細身で比較的体重は軽いとはいえ、カルザスと同じ背丈の人間を腕一本で支えておるのだ。その負担は予想していたものより遥かに大きい。
 奴の腕を掴み損ねた左手を壁に掛け、シーアの手首を掴んでいる右手に力を込める。カルザスの腕力は人よりは強い方だが、緊張からくる汗で、少しずつ握った手が滑ってゆく。
「……おれ……今度は落ちなかった。カルザスさんが手を差し出してくれたから……」
「僕の手を離しちゃ駄目ですよ!」
 だらりと下げていた方の手を差し出し、シーアは両手でカルザスの手を握る。奴がカルザスの腕を掴んだなら、万が一カルザスの手が滑ってしまっても、奴を落下させてしまうという事はない。奴の身の軽さなら、這い上がってこれるだろう。
「シーアさん、登ってこれますか?」
「うん」
 シーアが懸垂の要領で体を持ち上げ、段差の縁に手を伸ばして指先を引っ掛けたかと思うと、一度だけ壁を蹴り、軽やかに先ほど座っていた場所へと膝をついて着地する。いつ見ても鮮やかなものだ。
 乱れた銀髪を撫で、シーアは再び足場となる段差の縁に腰掛けた。
「はぁはぁ……な、何て事をするんですか、あなたはっ! もし僕が間に合わなかったら、どうなさるおつもりだったんです?」
 シーアは目許を指先で拭い、笑みを浮かべる。
「落ちなかったの、初めてだよ」
「僕の話、聞いてますか? 怒りますよ!」
「カルザスさんは、絶対おれを助けてくれるんだろ?」
 確かにそういった約束はしておったが……無茶苦茶だな。まるで自殺するかのような行動、いつも何時も止められるとは限らんではないか。
 カルザスが口籠もると、シーアはいつものようにカルザスの袖を掴んで目を細めた。
「あの夢では必ずおれは落ちるんだ。誰も助けてくれなくて、一人で凄く高い所から落ちてしまうんだ。でも……カルザスさんの手は、おれの手を掴んでくれた」
「……それって、僕を試したんですか?」
 思わず仏頂面で不満を口にするカルザス。シーアは首をゆっくりと振る。
「そういう風に捉えられても仕方ないけど、助けてくれるって、信じてたから」
 何も言えんようになってしまったカルザスに、シーアは柔らかな笑みを投げ掛ける。
「ちょっと、違うな。助けてくれるって、信じたかったんだ」
「あのですね、シーアさん。何度も言わせないでください。僕は、契約を交わした依頼人は必ず護ります。それが傭兵ですから」
 眉間に皺を寄せ、カルザスはシーアを睨み付ける。そうだ。少し強く言い聞かせてやらねばならん。俺もカルザスも、お前の事を本気で心配してやっているのだ、とな。
 だがシーアはその言葉に、僅かだが表情を曇らせておる。
「……おれは依頼人、だから?」
 俯き、シーアは片膝を抱える。
「そう、だね。ただの依頼人……だよな。心配させて悪かったよ。迷惑な依頼人なら……依頼は破棄していいよ。おれ、もう大丈夫だから。カルザスさんにはいっぱい助けてもらったしね。もう平気……一人で行くから……」
 その投げやりな物言いに、珍しくカッと頭に血を昇らせ、カルザスが強く唇を噛む。そして背後からシーアを強く抱き締めた。細身の体を抱き潰してやるかのように、強く、強く両腕に力を込める。
「怒りますよ、本気で」
 風に当たっていたせいなのか、シーアの体は妙に冷たい。見た目も華奢だが、抱き締めてみればその細身の体がなお、か細く頼りなく感じられる。
 この華奢な体で、よくあれだけの動きが可能なものだ。
「僕はあなたが好きなんです。シーアさんという一人の人間が好きだから、護衛を……いえ、あなたを護る事を、あなたと共に行く道を選んだのです。僕の気持ちが分かりませんか? どうしてあなたはそう、一人で生きるだとか、一人で行くだとか、淋しい事ばかりおっしゃるんですか? あなたはどこにも行かなくてもいいんです」
 どこにも行かなくていい。
 以前どこかで同じ言葉を聞いたな。カルザス以外の誰かに憑依している時だったか、自棄を起こしかけた者を宥めるために……。
「どこにも……?」
「はい。もうどこにも行かなくていいんです。僕の側にいればいいんです。それに、今後あなたに人殺しはさせません。僕、誓いますから。だからもう決して、淋しい事は言わないでください。僕には、あなた言動の全てが、死に急いでいるようにしか感じられないんです」
 確かにカルザスの言う通りだ。シーアの行動は、セムの墓前で語った言葉と明らかに矛盾している。シーアはセムと共に“生きる”と言ったのだ。だが奴の戦い方やその他の言動は、死を全く恐れぬ無鉄砲さで傍若無人そのものだ。
「死に急ぐなんて……おれは……あんたの事、信じてるよ。だって、あんたはおれに手を差し出してくれた、ただ一人の人だから」
「それならあなたも声に出して誓ってください。僕のために生きるって」
 シーアは息を飲み、口元を抑えた。
 奴はカルザスの言葉から、その本心を感じ取ったのだろう。生きる希望を失っておったセムに、シーアは今、カルザスが口にしたと同じ言葉を言ったのだ。「自分のために生きてくれ」と。
 「人殺しはさせない」とは先代頭目に殺害される間際にセムが口にした言葉だ。そして先ほどの言葉「どこにも行かないでいい」というものは、奴の言葉である事を思い出した。
 アーネス・セルト。魔導帝国エルスラディアの最後の魔導師。
 アーネスがアイセルに告げた言葉だったのだ。自分は魔導師ではないからエルスラディアにいてはならないのだろう、と詰め寄った時に、アーネスがアイセルを諭した言葉なのだ。
 ただの偶然だろうが、カルザスが続けて三度も、俺が夢で見た光景で交わされた言葉を口にするとは。それらは全て、シーアに向けられて第三者が放った言葉だ。いや、最後の言葉はアーネスがアイセルに向けて語った言葉だが、アイセルに酷似したシーアに対しても、説得としては妥当な言葉ではある。
「あ……そ、れ……おれが……」
 体の全面に回されたカルザスの腕に手を掛け、シーアが震える声音を搾り出す。
 俺は……シーアを失いたくはない。アイセルのように、俺の前からこの者を失いたくはない。俺がアーネスではないかという推理。そのような事はもうどうでもよい。俺はカルザスと同じく、シーアを失いたくはない。人として、一人の友人として、カルザスはシーアを愛している。俺もカルザスとシーアに対し、友情以上の感情を抱いている。
 “シーアを失いたくない”……それだけが、望みなのだ。
 シーアの体を抱く力を更に強め、カルザスは小さく首を振る。辛そうに肺の中の息を吐き出し、絶対にシーアをもう手放すまいと、シーアの首筋に顔を埋める。
「……嫌、なんだ……二度も弟を失うのは」
 くぐもった声が聞こえた。……弟……?
「カルザスさん?」
「お願いですから、シーアさん。もう寂しい事は言わないでください。僕の前からいなくならないでください」
「……セルト……さんなの?」
 暖かい空気が鐘楼の中を昇ってくる。
「……おれ、死なないから。ずっと……カルザスさんと一緒にいたい」
 シーアの言葉に、カルザスは頷いた。
「……はい」
「おれは絶対死なない。シーアのために、カルザスさんのために、セルトさんのために、生きるから。だから……弱音なんか吐いた事、許してほしい」
 カルザスがシーアの体を抱いたまま、再び頷いた。
「……絶対、約束ですからね……寂しい事言って……僕をいじめて泣かせるのは金輪際やめてくださいよ」
「おれのために泣いてくれたんだ」
 当たり前だ! 俺はシーアを怒鳴りつけたい気分になった。こいつはどれだけ、俺たちを困らせれば気が済むのだ。
「……北に行こう。全てはそれからだから」
「そうですね。雪を見なくちゃいけませんから」
 カルザスがシーアを離し、熱くなっておった目頭を擦る。この男が涙ぐむとは珍しい。それだけ、シーアを心配しての事なのだ。
 シーアは何度も頷き、カルザスを見つめている。が、ふいにその表情が固くなった。
「……熱い……」
「え? ああ、今日も暑くなりそうです」
「ち、違う! 下だ! 炎の熱さだよ、これ!」
 カルザスが梯子の下を見ると、鐘楼内の空気は先ほどより格段に熱くなっていた。まるで故意的に熱されたような、熱く焦げた臭いが鐘楼を登ってきていた。

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