砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


     3

 完全にシーアを見失った。
 人影がない事を確認し、通りへと降りたカルザスは、念の為に大きく迂回をしながらスラムの教会へと向かう。
「先ほどの彼は何者なんでしょう?」
 俺にそんな事が分かる訳がない。暗い夜道を歩きながら、それでもカルザスは俺に問い掛けてくる。
 スラムに入った矢先だ。奇妙な男が薄汚れた建物の壁に寄り掛かるようにして蹲っておった。酷く呼吸が荒く、病でも患っておるかのように気味の悪い痩せ方をしている。
「あのぉ……大丈夫ですか?」
 おい、カルザス。貴様は今、暗殺者に追われておるのだぞ? こんな乞食にかかずらっている暇などないはずだ。
「……あ……お酒、ですか?」
 胸が悪くなるような安酒の臭いが男の周囲に漂っておる。どうやら純粋に酒に酔い潰れているだけのようだ。
 この時間にスラムをうろついておると言う事は、貧民の者なのだろう。そんな男が安物とはいえ、贅沢な嗜好品である酒を買えるような金など持っておるものだろうか?
「何だ? 何か用か?」
「泥酔なさっていらっしゃいますね。お送りしましょうか?」
 こやつ……また余計なお節介を。どうしてこう、金にならん護衛を好んで引き受けようとするのだ?
「うるさい。金なら幾らでもくれてやる。わしは孤児院の大先生様だぞ。この町の住人なら、わしの事くらい知ってるだろう? 酒でも奢ってもらいたいのか? ああ?」
 孤児院だと? ではこの冴えない男が、シーア・セムを売り渡したというクズ大先生という訳だ。
「孤児院の大先生?」
「お前、余所者だな? わしを怒らせると、あいつらをけしかけるぞ。わしやあいつらに目を付けられて、タダで済むと思うな」
 酒が入っているせいか、口が軽くなっておるようだ。今、うまく誘導すればシーア・セムの事を聞き出せるかもしれん。カルザスもそれに気付いたようで、表情を固くした。
「あいつらとは……暗殺者の事ですね」
 いきなり核心を突くカルザス。
 カルザスの言葉を聞き、男の顔色が一瞬にして変わった。そして先ほどの横柄な態度ではなく、卑屈なものに変化したのだ。
 ガタガタと全身を震わせ、恐怖に彩られた顔は、カルザスを化け物でも見るかのようだ。地に頭を擦りつけんばかりに蹲り、上擦った声で何度も詫びている。
「ゆ、許してくれ。わしはあんたたちには逆らわない! ま、また孤児を渡せというなら孤児を渡す! だから……だからっ……」
 ウラウローの民らしく褐色ではあるが、不健康そうな血色の悪い肌の色と、落ち窪んだような目が印象的な男だ。昔はもう少しマシだったのかもしれんな。 そんな男が体を奮え上がらせ遜《へりくだ》っておると、なお脆弱で貧弱そうに見える。
「僕は暗殺者じゃありません。傭兵です。カルザス・トーレムと言います」
「よ、傭兵……?」
「少々お伺いしたい事があります。よろしいですね?」
 否と言わせん口調でカルザスは男の肩を掴む。
 どうやらカルザスはここでこの男からシーア・セムの事を聞き出す気でいるようだ。ニュートの話を再確認するつもりなのだろう。
「とりあえず、あなたのお名前を教えてください。お呼びするのにお名前を存じないと不便ですからね」
「……ホセ……だ……」
 カルザスは周囲を見渡し、他に人の気配がない事を確認した。
「率直に伺います。シーア・セムさんを……ご存知ですね?」
 ホセが大きく息を飲み、顔を背ける。歯の根が噛み合わないのか、カチカチと唇の隙間から音が聞こえる。
「引き渡せば殺されるのだと分かっていて、どうしてシーア・セムさんを暗殺者などに引き渡したのですか? 孤児院前に捨てられていた彼女はあなたが拾い、育てたのでしょう? あなたにとっては、我が子も同じではありませんか」
「わ、わしは知らん! シーアは勝手に出ていったんだ!」
 間違いない。ホセはシーア・セムを知っておる。そしてニュートの話どおり、この男があの娘を暗殺者に売ったのだろう。
「それは嘘ですね。嘘を吐いても分かりますよ。ホセ先生。孤児院の経済状態のひっ迫は同情すべきではありますけれど、でも子供たちを愛すべき孤児院の先生なのに、どうして彼女を売ったりしたんですか? お金に目が眩んだだけではありませんよね?」
 カルザスは責めるでもなく、淡々とした声音で疑問をぶつける。
「……う、裏切ったからだ! シ、シーアが親代わりとなってやった、わ、わしを裏切るからだっ」
「シーアさんが……セムさんがホセ先生を裏切る? どういう事です?」
「あ、あの娘は陰でとんでもない奴と関係を持ち、わしを、お、追い詰めた。その責任を、わ、わしの命で払えと、他の孤児たちの命で払えと脅されていたんだっ! あ、暗殺者に……脅されて逆らうような奴なんていないっ! あの娘は、わしがひ、拾い育ててやった恩を忘れ、あ、あんな男と……っ!」
「あんな男とは……当時の暗殺者頭目さんの後継ぎさんですね?」
「そ、そうだっ……あ、あんな男と情を交わし、子供たちの命を危険に晒し……今も、な、なお、わしを苦しめる。シーアは悪魔の子なんだ!」
 吐き捨てるようにそう叫ぶホセは、震える我が身を壁へと押し付ける。
「シ、シーアを見捨てる事で、ほ、他の子供たちの……わしの命が助かるならっ……悪魔の子など傍へ置いておきたくはないっ!」
 ……シーア……奴はシーア・セムが置かれた状況を知っておったのだろうか? 暗殺者に身柄を要求され、セムは……おそらくセムは、自ら孤児院を去り、その身を当時の頭目に差し出したのだ。
 あの夢でも、シーア・セムは何度も口にしていた。「孤児院のために」「他の子供たちのために」とな。我が身を差し出す事で、孤児院や他の子供たちを護ろうとしたのだろう。
「……部外者である僕が介入する事ではありませんけどね……セムさんだって相当苦しんだと思います。だからこそ……孤児院から去ろうと、ウラウローを出ていこうとしたんだと思います」
 ほう、カルザスはそう考えておったのか。
 シーア・セムがウラウローを出て、遥か遠い雪の降る国に移住する事を願ったのは、自分とシーア・ティリのためでもあるが、孤児院の事を考えての事だと。
 貧民の出であるから学はない。だが……聡明な娘だったのだ。教会へと通っていた事からも、慈愛の精神がひしひしと感じられる。貧しくとも、心の豊かな娘。そんな絵に描いたような清き心を持つ者がいたとはな……。
「あ、暗殺者などという、人ならぬ者と情を交わすなど、悪魔と同じだ!」
「……セムさんが選んだ方は、セムさんのために暗殺者である事はもちろん、他の全てのものを捨てる事ができる方なんです。セムさんが……その方の全てであり、救いの天使だったんです。お願いですから、もうセムさんを悪魔だと罵るのはやめてください」
 諭すようにそう言ったのだが、ホセは震える声音でカルザスの願いを退ける。
「シ、シーアは悪魔の子だ……」
 いくら諭そうとも、無駄である事は間違いないな。頑なにそう思い込む事で、自らの正気を保っておる。自らに架せられた罪の意識から逃れようとしておる。
 シーアが狂気に彩られる事で本来の自分を覆い隠し、残虐非道な白き悪魔へと豹変するのと同じだ。
「ホセ先生……あなたは当時の頭目さんの後継ぎさんに、お会いになった事はあるんですか?」
「ち、直接はない……だ、だが遠目に見た事はある。ぎ、銀の髪の白い肌の男だ。わ、わしを脅した暗殺者から、そ、その男は頭目の息子なのだと……」
「本気で愛し合ってたんです、お二人は。なのに引き裂かれてしまったんです」
 カルザスは俯き、長い溜め息を吐き出す。
 シーアと……いや、本名は別にあるだろう、俺とカルザスの知るシーアと、シーア・セム。互いに惹かれ合い、愛し合い、だが最も惨たらしい形で引き裂かれた。その要因の一つは……。

「二人の仲を引き裂いた、その要因の一つはお前だ……」

 俺の思考とカルザスの言葉が重なる。ホセは脂汗を滲ませながら、カルザスを見上げた。
 カルザスは口許を抑え、小さく首を振った。
「す、すみません。つい、お前だなんて酷い言い方をしてしまって。ちょっと眩暈がして気が遠くなってしまって」
 カルザスは深呼吸し、胸元を押さえる。
「僕、普段あまり怒らない性質《たち》なんですけど、今は本気で怒ってます。多分そのせいで、語気が荒くなってしまったんです。すみません」
 カルザスはホセを見つめ、小さく首を振った。この男はシーア・セムを売った金で富を得た訳ではない。我が身を締めつける呪縛の鎖を買ってしまったのだ。
「あなたをどうこうしようなんて思っていません。あなただってちゃんと、彼女を売ってしまったという罪の意識を持っていらっしゃったのは分かりましたから。セムさん一人を犠牲にする事によって、他の孤児を助けたんですよね? それ、間違いじゃないです。でも正しくはないです。それは分かっていらっしゃいますよね?」
 ホセは唇を震わせたまま、ただじっとカルザスの言葉を聞いておる。
「僕にも正しい答えは分かりませんけど、今、あなたがすべき事は一つだけです。セムさんの事を忘れないでください。一生涯。それが正しい答えを見つけられなかったあなたの罰です。逃れられない罰なんです」
「あ、あんた……わ、わしを……」
「殺しはしません。僕は暗殺者ではなく、傭兵ですから。部外者が何を言い出すのかとお思いでしょうけど、僕は全くの部外者じゃないんです。事情、知ってしまいましたから、もう関係者なんです」
 ホセに背を向け、カルザスはそっと目を閉じる。カルザスの瞼に浮かんだのはシーアの姿か、シーア・セムの墓なのか。
「あなただけが苦しんでるんじゃないんですよ。セムさんの選んだ彼は、今でも全てを背負い込んでしまっています。セムさんが命を落とした事、セムさんを愛してしまった事。他にも沢山、彼は自分に枷を付けて苦しんでいます。全部自分のせいだと、ずっと自分を責めています。多分一番苦しんでいる人です。それを知ってしまった僕にも枷はあります」
 薄く目を開き、暗い空に浮かぶ欠けた月を見上げる。
「彼の苦しみを僅かでも癒してあげなくてはいけないんです……僕はあなたの犯した罪を知ってしまったから。彼の事は……僕に任せておいてください。途中で投げ出したりしませんから」
「あ、あんたあの男を知って……っ!」
「失礼します。あまり帰りが遅いとあの方、とても心配なさるので」
 そう告げ、カルザスはホセを残してその場を去った。

「……確認して間違いならいいなと思ったんですけどね……余計に怒りで胸が苦しくなってきてしまいました。ホセ先生、セムさんを罵るなんて、本気で殴ってやろうかと思いましたよ」
 ──莫迦者めが。お前の今の行動こそ、シーア・セムに対する冒涜だぞ。
「すみません。でも僕、ホセ先生がセムさんを売って自分だけがのうのうと生きている人だったら……間違いなく剣に手を掛けてました。罪の意識はありましたし、反省もなさってましたけど、やっぱり僕はホセ先生の事、憎いと思います」
 額を押さえ、カルザスは押し殺した声音でそう口にする。
「……ダメです……何て言えばいいのか……怒りで我を失いそうです。目の前がクラクラします」
 シーア・セムと元暗殺者のシーア。カルザスが二人の存在を我が身のように親身に思っておるのは間違いない。だからこそカルザスは、行き場のない怒りに苛まれておるのだ。
 俺もホセの事は腹ただしい。だがカルザスほどの怒りを感じぬ。アイセルの命を奪ったテティスに対しても、それほどの怒りは感じなかった。
 俺がアーネスであるなら、テティスに対して今のカルザスのように激昂しておるはずだし、アイセルの生まれ変わりであるシーアとシーア・セムの仲を引き裂いたホセに対して、激しい憎しみを抱くはずだ。
 それらを感じぬのは……俺が精神だけの存在だからなのか? 怒り猛ったところで俺には何もできんのだと達観し、無意識に諦めておるからなのか? 薄情だな、俺は。
「行きましょう。本当に……シーアさんが心配なさるといけませんから」
 握り締めた拳が震えておる。教会へ行くまでに、この昂ぶった激情を抑えてしまわねばならんのだぞ、カルザス。

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