砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


     2

 細身の短剣は、水平にアイセルの胸部を刺し貫いている。アイセルに凶刃を突き入れておるのは俺、いやテティスだ。
「アイセル!」
 アーネスとルネは同時に飛び出すが、テティスはアイセルの髪を掴んでその身を守るを盾にするかの如く、アーネスたちの方へとアイセルの上体を差し向ける。テティスの気迫に気圧されたのか、アーネスは悔しげに唇を噛み締めている。ルネなど今にも卒倒しそうなほど青ざめておった。
 強い風が吹いている。ここはマリスタたちの住む天空都市。その末端部に当たる。俺のすぐ背後は断崖のように見えるが、落ちればまず助かる事のない遥か空の上なのだ。
「テティス! 何て事するのっ!」
「魔導師! これ以上、人の命を弄ぶのは終わりにしろよ! 下衆野郎が!」
 テティスはアイセルの胸から抜いた短剣をマリスタに向かって突き付ける。アイセルのものであろう血飛沫が、砂利と雑草とを濡らす。
「……始祖だか何だか知らないけどな。魔導師以外は下等な者と決めつけて、俺たちの命をおもちゃにするのはやめろよ」
「始祖って何の事だ、テティス? そんな事とアイセルを刺した事に、何の繋がりがあるというんだ!」
 テティスがすぐ脇に投げ捨ててあった一冊の書物を指し、忌々しげにそれを踏みにじる。
「人と獣を合成して、俺たちのような獣人を作り出したのはそいつなんだよ! 誰かが故意に手を加えない限り、人と獣が交わり、別の生命が生まれるはずがないだろ! こんな人にも獣にもなれない中途半端な命を与えられたせいで、俺たち獣人は魔導師からも人間からも蔑まれ、苦しみしか得られないんだ。ハッ! 俺たちを生かすも殺すも、始祖様次第って訳だ。命を弄ぶお偉いお偉いカミサマよ。これでも俺たちの命をおもちゃにしてないって、言い切れるのか? 小賢しい言い逃れでもすんのか?」
 憎しみのこもった眼差しでマリスタを睨み付け、テティスは歯軋りする。
「デタラメを言うんじゃない、テティス。マリスタ様は……」
「そいつが歳を取らない理由、アーネスは知ってるのか? そいつは“魔導師の始祖”って化け物だからだ! マリスタの書庫を見てみろよ。あそこにある本は全部マリスタの日記だ。何百年と生きる不死の化け物が書き記した、自己満足な実験と懺悔の記録なんだよ! 何を今更懺悔だ! ふざけるんじゃねぇ!」
 アーネスは困惑した面持ちでマリスタを見つめる。マリスタは何も言わずにじっとテティスを見ているのだ。その眼差しはテティスに憑依している俺を見ているかのようだ。その視線がたまらなく不快だった。
「始祖がどれだけ偉いっていうんだ! 始祖なら、下等な命の創造主なら、俺たちの命を弄んで自由にしていいっていうのかよ!」
 テティスの目を介し、マリスタの日記を読んだ俺も、テティスの気持ちは分からんでもない。
 我が身が、たった一人の力ある魔導師の好奇心から生まれ、そして自分の思い通りにならなかったゆえに、下等な者と切り捨てるその傲慢さ。命を弄ぶと思われても仕方のない所業ではないか。
 しかし……しかしだ。俺にはそれが真実だとは思えん。テティスの意見には賛同するが、全面的にマリスタを非難するのはどうかと思うのだ。
「下衆に俺たちを、下等な者呼ばわりされる筋合いなんてねぇんだよ! お前のやってきた事は下衆以下だ!」
 声を荒げ、テティスはマリスタを糾弾する。そのテティスの足元で、アイセルは刺し貫かれた胸の傷を押さえ、ゴポッと大量の血を吐く。まだ息はあるが、早く治療せねばいかん。
「テティ……ス……マリスタ様は、捨てられて死にかけてたおれの命を助けてくれたんだ。テティスは何か勘違いをしてる……」
 アイセルがテティスの腕を掴む。だがテティスは冷たく奴を見下ろすだけだった。
 おかしい……奇妙だ。苦痛に苦しみ歪むアイセルのこの表情……そして血に汚れた手。俺はこれをどこかで見た事がある。クッ……思い出そうとすると頭痛がする……なんなのだ、これは?
「……テティス。マリスタ様は本当にとても偉大で優しい方で……きっと、何か……深い理由がある……」
 アイセルの全てを許すような微笑みが、シーア・セムの墓石の前で見せたシーアの笑みと重なった。
 ふと俺の脳裏に、以前シーアの語った自身の悪夢の話が蘇る。だがそれを正確に思い出す前に、テティスは動いていた。
「ああ、そうかい。じゃ、今度もお偉い始祖様に助けてもらえ」
 凶悪な笑みを浮かべ、テティスは力任せにアイセルを都市の絶壁から突き落とした。
「アイセル……ッ!」
 ルネが悲鳴をあげて両手で顔を覆い、今まで眉ひとつ動かさなかったマリスタが息を詰まらせる。そしてアーネスは我が身を省みずに飛び出した。絶壁から身を乗り出すが、アーネスの手はあと一歩、アイセルに届かなかった。
 俺も手を差し出し、アイセルを救ってやりたいと強く願うが、今、俺が憑依しているのはテティスだ。俺にはアイセルを救ってやれる手段がなかったのだ。むしろ、アイセル殺害に加担したといえよう。
「あばよ、泥棒猫」
 声一つ立てず、驚愕の表情を浮かべたまま地上へと落ちて行くアイセル。微かに動く唇は「兄さん助けて」と、声なく呟いていた。
 見る間に小さくなってゆくアイセル。その姿が網膜に焼き付く。同時にシーアがたびたび見るという夢の話を鮮明に思い出したのだ。
 俺は……悟った。
 シーアはアイセルの生まれ変わりなのだ。シーアが幾度となく見る、胸部を刺され、高所から突き落とされるという夢は、アイセルが体験したものなのだ。
 あやつの夢はこの状況と完全に一致しておるではないか! 何らかの形で、アイセルがシーアとして生まれ変わったとしか思えんではないか。
 シーアは誰も助けてくれぬと言っておったが、アーネスは……アーネスは手を差し延べたのだ! それが届かなかった……。
 俺がエルスラディアの、そしてシーアの夢を度々見ておったのは、シーアとアイセルを苦しみから救ってやるためだったのかもしれん。前世からの、忌まわしき苦しみからシーアを……救いを求めたアイセルを……。
「アイセル……」
 アーネスは茫然として、震える自身の両手を見つめている。
「何が望みだ。獣人」
 マリスタが静かな声音で言う。
「望みなんかないね。命で遊ぶ始祖を恨んでいるだけさ。あえて望みを言えってなら……魔導師に復讐する事だ!」
 テティスが地を蹴った。
「マリスタ様!」 
 アーネスが叫ぶ。アーネスがいる位置、ルネがいる位置、そのどちらからも、マリスタを庇う事はできぬ。
 マリスタまで犠牲となるか?
 俺には自由に動かせる実体がないという現実に、この上ない歯痒さを感じ、苛立ち、俺は俺自身を呪う。

 ……魔導師とは、絶大なる魔法の力を身に宿し、この世に存在せし者。遥か彼方から彼《か》の者の姿を見、翼を持たずに大空を舞う。魔導師の始祖は、半永久的な命を持ち、無から有を生み出す。
 しかし自分の身を護る術は、何一つ持ち得ぬ。殺害されれば“その身”は滅ぶ。

 おそらく先ほど耽読した記録の一節なのだろう。流れるようにその文脈が俺の記憶の底から溢れ出す。
 真一文字に切り裂かれたマリスタの胸からは、滝のように赤い液体が溢れ出している。マリスタはテティスの短剣を避けようともしなかった。それはまるで、全てを受け入れているかのような態度だ。
「……そうだ。いい望みを思い付いたよ。俺が魔導師の始祖になる。始祖になって、魔導師を根絶やしにする。俺にはお前らを殺す力はないけど、始祖なら魔導師を殺せるからな」
「なにを莫迦な! ただの獣人が深手を負っているとはいえ、マリスタ様に適うはずがないっ!」
「魔導師の始祖ったって、不死と言われてるが不死身じゃない。殺されれば滅ぶんだよ!」
 俺の記憶している知識と同じ事をテティスは言っておる。テティスの目を介したのであるから、当たり前なのだが……何か引っ掛かる。テティスは根本的な何かを勘違いしておるような……。
「魔導師の力の源は……こいつだ!」
 人間にはない鋭い爪を立て、テティスはマリスタの、眼帯に覆われた片目を抉った。
「きゃっ!」
 ルネが悲鳴をあげて顔を背ける。
 眼球を抉られたのか、マリスタが小さく呻いて顔を押さえる。指の隙間からはおびただしい血が流れ出て、その身に纏う長衣を汚している。そして崩折れるように膝をついた。
 ジジジと、テティスの手の中で何かが鳴く。鳴くというより……暴れているという表現の方が正しい。それは動物ではなく“蟲《むし》”なのだから。
「ルネ、俺たちは半端ものだと蔑まされる必要なんてないんだ。こいつを見ろよ。魔導師の始祖ってのは、自分の体の中で蟲を飼ってるんだ。その蟲によって、魔法を使ってるんだぜ。自分の目玉を食わせて、食わせた蟲を目にして、おぞましく生きてやがるんだ」
 アーネスが蒼白になって口許を抑える。この様子では、おそらくアーネスも知らなかった事実なのだろう。
「獣人。そなたでは我が力は制御できぬ。全てを許す。我が意識のある内に、そのカブレアを渡せ」
「許すだと? 莫迦言うな。この状況、分かってるのか? 今、お前は俺に命令できるような立場じゃないんだよ」
 伸ばされたマリスタの手を振り払い、テティスは唾を飲み込む。そして握っていた蟲をゆっくりと自分の目に近づける。

 ……カブレア! 始祖たる蟲!

 力を手にするとは言っておったが、自ら進んで蟲を体内に取り入れようとは、生きたまま自らの眼球を喰わせようとは、もはや狂っておるとしか思えん。
 無意識に湧き起こる嫌悪感に、俺は必死に顔を背けようとするが、俺の行動の全てを取り仕切っているのはテティスなのだ。いくら俺がそれを拒絶したくとも、顔を背ける事も、目を閉じる事も適わん。
 精神体だけの存在でありながら、俺は酷い嘔吐感に見舞われた。そしてあるはずのない痛覚も。
「……っが、あっ……う!」
 眼球を喰らい、目から体内に潜り込んでくるカブレア。テティスがこれの事を“蟲”と表現したのは、カブレアが単なる虫ではないからだ。
 ウラウローでは同名のただの虫だ。しかし今、俺の身を喰っているカブレアは、魔導師の力そのものという特殊な蟲──いわゆる魔力媒体であるのだ。
「テティス! 早くそれを出して! もうやめて!」
 ルネが頭を抱えて首を大きく振る。
「……愚かな獣人よ。始祖たる魔力、刃に傷付く肉体を持つ者では制御はできぬ」
 マリスタは落ち着いた声音で呟く。胸部を斬られ、片目を失っておるというのに、痛みを感じぬのか?
「力が……湧いてくる……魔法の力か?」
 目から入り込んだカブレアが体内にいるはずなのに、不思議と痛みが薄れている。馴染んでしまったという事か? まさか。
「……我が魔力、それを受け継ぐ時、そなたは始祖の呪縛に捕らわれる。逃れられぬ不死の呪いだ」
「へぇ。それって、俺があんたの力を奪ったから、不死になったって事だろ? それを俺は望んでた」
 顔を自らの血とマリスタの返り血で染め、テティスが狂気染みた笑みを浮かべる。
「マリスタが、始祖が死んだら……魔導師はあんたしか残らないよな、アーネス・セルト!」
 な、何だとっ! アーネス・セルトだと?
 シーアが俺にセルトと名付けた時、俺はその名に懐かしさを感じた。そして俺の夢にたびたび登場しておったアーネスは、セルトという名を持っておった。現段階では強引な仮説だが……俺はもしやアーネスの生まれ変わりなのではあるまいか? アーネスであるがゆえ、アイセルの生まれ変わりであるシーアと出会った……のか? 時空を越え、世代を越え、あやつと再開したというのか?
 俺の驚愕は時の流れに置き去りにされる。実体の存在せぬ俺の意思や思考など、誰も気に留めなどしないのだ。
 テティスが跳躍し、短剣を翳してアーネスに飛び掛かった。刹那、テティスの体の至る箇所に裂傷が走り、血が吹き出す。獣の咆哮のような声を上げ、テティスが大地に蹲って爪を立てた。爪の隙間に土が入り込む。
 カブレアに眼球から侵入された時と違い、今回は俺に痛みはない。テティスだけが苦しんでいるのだ。
「始祖たる魔力。お前のその器は全てを受け止め切れぬ。だが呪縛は、力を有する限り永遠だ。フッ……お前の愚かな行いによって……我が呪縛は解かれた」
 掠れた声でマリスタは言う。体を起こす気力すら、もうないのだろう。大地に膝をついたまま、自虐的な笑みを浮かべる。
「アーネス……」
「マリスタ様、すぐお手当てを……ルネ、水を汲んできてくれ!」
「は、はいっ」
「……治療は、よい。長き呪縛から逃れられた私はもう、朽ちる」
 アーネスが駆け寄ると、マリスタは片目で虚空を見つめたまま唇を動かす。
 マリスタはゆっくりと俺を……いや、テティスを指差す。苦しみ悶えるテティスは、憎々しげにマリスタを睨み付け、内側から裂けてしまったかのような傷口の一つを押さえる。しかし流れる血は止まらない。
「アーネス……私の……始祖の力もろとも打ち据え、あれを処分しろ」
 ぞくりとするほど冷徹な声音で告げるマリスタ。俺はその一言に、例えよう無い恐怖と畏怖を感じた。
「こんなところで殺されてたまるか! 全ての魔導師に復讐を……アーネスを殺してやるんだ、俺は!」
「テティス、待って! あたしも一緒に謝るわ! だからもうやめて!」
 ルネがテティスへと手を伸ばしたが、テティスは一呼吸早く、魔導書を拾い上げて地を蹴った。
 先ほどアイセルを突き落とした天空都市の外へと身を躍らせるテティス。こやつは自ら命を絶つつもりか?
 風を切り、漆黒の地上へと落下する感覚に、俺はある種の爽快感のようなものを抱く。このまま落ちれば命はないというのに……。いや、マリスタという魔導師の力を得たのなら、空を舞う事もできるはず。テティスはそれを考慮し、捨て身で地を蹴ったのかもしれん。
 果てしなく思える落下の時は、急速に終わった。

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