LOST PRINCE

「死を意識するなんて何度目だろう?」
スラムで育った少年フェリオは、腕の中で冷たくなってゆく少女を抱きしめながら、そう思う。

豪胆な女性マーシエとの出会いが、
スラムの孤児であったフェリオの運命を大きく変える。


     影

     1

 目が覚めると、石鹸のよい香りがするシーツに顔を押し付けて眠っていた。瞼を開くと、目の前に透明で綺麗な水の入ったグラスが、サイドボード代わりの木の椅子に置かれている。
 彼はゆっくりと体を起こす。長く同じ体勢で眠っていたせいか体の節々が傷んだが、我慢できないほどではない。孤児狩りの兵士に追われて剣の鞘でぶたれる事を思えば、大した事のない痛みだった。
 室内を見回す。
 石を削り出した飾り気のない壁と、枯木の扉。僅かな明かりが差し込む、掌で隠れるほど小さな窓がふたつ、みっつ。室内の明るさを補うための獣油のランプ。
 しかしベッドは沢山のシーツを敷き詰めているのかふかふかで、掛けられていた毛布も織りのしっかりした上等なものだった。しかし室内は、彼が今まで眠っていたベッドと、サイドボード代わりの木の椅子しかない。石造りという事もあり、狭い窮屈な圧迫感で満たされた、あまりにも殺風景な部屋だった。
 彼が着ていたボロの古着は脱がされ、代わりに糊の効いたシャツを夜着代わりに着せられていた。

 意識を失う寸前に、マーシエの姿を見た事を思い出す。彼女は自分が運ぶから起きなくていいと言っていた。そのまま意識が途切れたので、自分は彼女によって、どこかへ運ばれてきたのだと理解した。
「仕事なんて引き受ける気はないんだけど……お礼は言わなきゃ。結局銀貨は取られちゃって使えなかったけど……」
 ベッドの端に座り、水のグラスを見る。
「飲んでいいのかな?」
 水を見ていると、強烈な喉の乾きを感じ、フェリオはそっとグラスを手に取った。そして一口、水を口に含む。すると一気に喉の乾きが癒され、もっと欲しいという欲求に心が駆られてしまう。そのまま彼は残りの水を一息に煽った。
 何の変哲もない水のはずなのに、驚くほど美味しい水だった。そして、しょっぱい涙の味がする水だった。

「ピオラたちにも飲ませてあげたかった……」
 グラスを抱いたまま、フェリオは泣いた。大好きなピオラのために、ビリーのために、ケイシィのために、そして孤児狩りで連れ去られて、行方の分からなくなってしまったオリバーのために。
 年長の自分やオリバーがもっとしっかりしていれば、彼女たちを助けられたかもしれない。しかし助かったのは自分だけだった。その残酷な運命が悔しく苦々しい。
 グラスを抱いて、彼は嗚咽する。もう自分は一人ぼっちなのだと、厳しい辛い運命を呪った。

 ガチャガチャと出入口の扉の鍵が外から外される。そしてノックも無しに、誰かが室内へと入ってきた。
 フェリオは体を強ばらせて手を滑らせてしまい、うっかり持っていたグラスを落とす。
 グラスは石の床に叩きつけられ、甲高い音を立てて割れた。
「動かないでください。怪我をします」
 見知らぬ女性が静かな声音で言う。動きたくとも、フェリオは見知らぬ女性に萎縮して動けなかったのだが。
 女性は手早く割れたグラスの欠片を片付け、フェリオを見上げる。
「目覚めたのですね。水のおかわりは必要ですか?」
 答えられない。
 女性は黙り込んでいるフェリオに小さく笑いかけ、入り口脇の台に置いてあった水差しを木の椅子の上に置いた。
「すぐに替えのグラスを持って参ります。水はご自由にお飲みください」
 そう告げ、彼女は室内から出て行った。
「……誰……なんだろう?」
 マーシエとは違った印象の女性で、栗色の髪を一つに纏めており、白い肌に碧眼の持ち主。女性らしい背格好で、優しげな雰囲気を醸し出していた。服装は、襟までしっかり詰まったシャツにエプロン、長いスカート。メイドのようではあったが、当然ながら、スラム育ちのフェリオは本物のメイドなど見た事もない。
 しばらくして先ほどの女性が器を持って戻ってきた。今度のグラスは木製のタンブラーで、落としても割れる事はなさそうだ。
「マーシエ様に目が覚めたと連絡しておきましたので、まもなくいらっしゃると思います。くつろいでいてください」
 水差しの横に木のタンブラーを置き、女性は再び部屋を出て行った。

 しばらくして言葉通り、マーシエがやってきた。傍には先ほどのメイド風の女性が付き従っている。
「目が覚めたかい? 水は遠慮しないでどんどん飲んでいいよ。それとも腹が減ってるなら、食事を用意させるけど?」
 フェリオは無言で緩く首を振った。状況が分からず、見知らぬ女性に気後れし、とても何かを食べられる気分ではない。
「紹介するよ。彼女はジョアン。あんたの今後の世話をするメイドさ」
「フェリオ君。よろしくお願いいたしますね。なんでもご用を申し付けください」
 よろしくと言われたものの、初対面の、しかも大人を相手に何を言えばいいのか、どんな要求すればいいのか、何も分からない。迂闊な事を言えば、相手を怒らせてしまうかもしれないという、疑心暗鬼の方がつよかった。
 だがとにかく今は、この状況がどういったものか知りたい。しかし質問する勇気はなかった。
「あたしもいろいろと用事があるから、ずっとあんたに付きっきりって訳にはいかないからね。何かあれば全てジョアンを通して言ってくれ」
「え……マーシエさん、行っちゃうんですか?」
 初めて発した声は、酷く怯えた声だった。
「悪いね。あんたという目的の人物も見つけたからには、あたしはもっと別の用事で動かなくちゃならないんだ。あんたにとって大事な用事の時は駆け付けるから、ジョアンからの指示を待ってておくれ」
 フェリオは俯き、膝の上でぎゅっと両手を握り締めた。ビリーとケイシィを埋めるために傷付いた手が痛んだ。
「そうそう。その俯く癖、直しておきな。あんたのする仕事でそんな弱気な態度をしてちゃいけない」
 ここに連れてこられた意味を思い出し、フェリオは恐る恐る前髪の隙間からマーシエを、ジョアンを見る。
 勝ち気で男勝りなマーシエと、母親のような母性を滲み出させたジョアン。対照的だがおそらく仲が良いのだろう。目線だけで会話をしている。
「フェリオ君。ひとまず食事にしましょう。食欲はなくてもしっかり食べて、もう少し太って貫禄を出さないといけません。マーシエ様、すぐに食事の用意をしてまいりますので、この場はよろしくお願いします」
「ああ、分かった」
 ジョアンは一礼し、部屋を去った。

 ようやく二人になれたフェリオは、僅かばかり緊張を解く。そしてマーシエを見上げた。
「あの……僕……」
「ん、どうした?」
 マーシエの言う仕事を受けようとした訳でない事を説明しようとしたが、まずは礼をするのが先だと思い、ペコリと頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございます。それと銀貨、嬉しかったです」
「ああ、気にしないでいいと言ったのに」
 パン屋の男との事を思い出し、フェリオは俯く。
「でもスラムの孤児が持ってるものじゃないって、無理やり取られちゃって何も買えなかったんです」
「えっ? じゃああんた二日間、どうやって過ごしてたんだい? 食事は? 見つけた時に死にかけてたのは知ってるけど……」
「何も……食べてません。ビリーとケイシィも死んじゃったから、ピオラの隣に埋めて。それから……」
 ピオラの隣にビリーとケイシィを埋めた事、オリバーが孤児狩りで連れ去られた事を涙ながらに告げた。今の自分には、もう生きる意味も気力もないと。
「僕の大事な友達はもう一人もいない。だから僕なんて生きる価値がないんです。マーシエさんの仕事を引き受けるつもりであの場所にいたんじゃなく、体力も気力もなくなって、ただ動けなかっただけなんです。ピオラの傍にいたかっただけなんです」
 黙って聞いていたマーシエは、口元に手を当てて嘆息した。
「……可哀想な事になってたんだね。あんたの友達は」
「僕なんてもう、生きてる価値、ありません」
 マーシエはフェリオに歩み寄り、ポンと頭に手を置いた。
「フェリオ。あたしはあんたならできると思って、あんたをここへ連れてきたんだ。そう自分を卑下しちゃいけない」
「でも……」
「大丈夫だよ」
 フェリオは強く唇を噛んだ。
「……僕に何をさせようと言うんですか?」
 あの夜、焚き火を挟んで聞いた質問を繰り返してみる。
「今、詳しく話して理解できるのかい? もう少し体を休めてからの方がいいんじゃないかな?」
「……今、聞きたい、です。僕なんかが役に立てるか分からないし」
「そうか……じゃあ話すよ。落ち着いて聞くんだ」
 マーシエはフェリオの隣に腰掛け、ゆっくりと口を開いた。

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