黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


   5→4 説(と)く


     一

 美帆は綾弥子たちの裏の稼業を手伝い、幾つかの依頼を嫌々こなした。そのどれにも、美帆は自身の言葉に置き換えた悪事の説得や、自分の意見を述べる事ができなかったのだ。
 昼間の茶館での仕事に感情を持ち出してはならないとは分かっているものの、彼女らが『嘆願者』と呼ぶ依頼人が来店すると、のんびりとしたモダンな茶館の空気がピシリと凍りつく。嘆願者が来るまでは、美帆はいつもの明るい美帆でいられたのだが。
 目の前で誰かが殺害されるという行為に慣れてしまった訳ではない。実際今でも、その状況になって恐怖で体は強張り、声が出なくなる事も常だ。しかし初期より、恐怖の感覚は随分麻痺してしまっているかもしれない。
 裏の仕事が終わって茶館に帰ってくると、どっと押し寄せる疲労で動けなくなり、そのまま朝を迎える事もあった。昼間はなんとか気持ちを切り替えて、明るい元気娘を演じているが、しかしそれでも、人の命が目の前で奪われるという行為。それそのものが、美帆本来のはつらつとした心を蝕んでいた。

 朝からすっきりしない全身の疲労感を抱き、それでも美帆は身支度を整えて一階の茶館へと降りる。そして扉に手を掛け、ふっとため息を漏らした。
「……ダメ。今日、笑えない」
 どんなに取り繕った笑顔を浮かべようとしても、彼女の心に翳る黒い影が、美帆から笑顔を奪っていた。

 カラリと扉を開くと、いつもの場所に綾弥子と晶はいた。
 綾弥子はカウンター席で新聞を読みながら珈琲を。晶はカウンターの中でサンドウィッチやケヱキの飾りのための野菜や果物を、専用のペティナイフで綺麗に切り揃えている。

 綾弥子──妖しい美貌で、何事にも物怖じしない器の持ち主。自信に満ちた口調で、嘆願者の願いを叶えるフリをして、躊躇なく命を奪う命令を晶に下す。しかし普段は柔和で大らかな心の持ち主だった。
 晶──無口でぶっきらぼうで、何を考えているのか分からない。必要最低限の言葉と行動で、一分の狂いもなく銀色のナイフで目的の者の首を切り裂き、命を奪う。しかし時折見せる不器用な優しさがあり、彼とは少しなら分かり合えるのでは、といった希望を抱きつつある。

 犯行時、綾弥子は一切手を下さず、晶に指示を飛ばすだけ。そして人の死、そのものを愉快そうに眺めている。時には可笑しそうに遺体に茶々を入れる事すらある。そんな綾弥子の様子を訝しげに見つめる晶の姿も時折見かける。晶は必要以上に遺体に近寄らないがゆえに、遺体を“汚いモノ”と認識しているらしい。
 二人は何も悪びれていない。むしろ誇らしい仕事をしているといった、傲慢さを滲ませる言葉を口にする。綺麗な世の中を作るためには、汚い者は粛清と称して命を奪う行為にて排除する。その重要な役割を担っているのだと。

 粛清と称した暗殺時、美帆が「悪い事は止めて、考えを改めてください」と弱々しく口にできた機会は一度きりだった。だがその相手は美帆も、この殺人鬼たちの仲間だと、怯えた口調で美帆の言葉を撥ね付けた。そして晶によって、あっさりと命を奪われた。
 自分では何もできないのか。自分一人がどうキャンキャン吠えたところで、何の成果も得られないのだろうか? 美帆の思惑通りに事が運ぶ事など、美帆が納得できる結果など、いくら臨み立ち向かおうと得られる事はないのだろうか?
 答えの出ない自問自答を幾度も繰り返し、美帆は二人の存在に、だんだんと自身が、自我が、食い潰されてきているような錯覚を抱くまでになっていた。
 そうは思いたくない。しかしそうだとしか思えない。

 ──自分の目の前での、他者の殺害を見る事に、慣れてしまった……と。

「おはようございます」
「あら、随分元気がないわね? 疲れているの?」
 疲れているのは、人の死をまざまざと見せ付けられた精神的にであり、肉体的にはなんら問題ない。だが綾弥子にそれは理解できないだろうと、美帆は口をつぐみ、エプロンの裾をぎゅっと掴んだ。
「げ、元気ですよ。あたし、元気だけが取り柄ですもの!」
 無理に笑って空元気を見せるが、引き攣った頬が震えていると、自分でも分かる。
 綾弥子は茶碗の珈琲を一口含み、飲み下す。そして晶に顔を向けた。
「美帆がこんな様子じゃ今日は駄目ね。お店、また晶一人で回せる?」
 綾弥子の言葉に晶が頷こうとすると、美帆はハッと何かを思い付いたように綾弥子に詰め寄った。
「あ、の! あの、えと……今日、一日だけお休みいただけませんか? ちょっと外の空気を吸って、気持ち切り替えてきます」
「私は構わないわよ。晶は?」
 晶がカウンターの中でコクと頷く。
「じゃあ、美帆は今日、お休みしなさい。お店は私と晶とで……」
「すみませんけど、晶くんもお休みにしてほしいんです!」
 綾弥子がポカンとして言葉を途切れさせ、晶はチラリと美帆を見る。美帆はカウンターに手をついて身を乗り出し、晶を真正面から見た。
「あ、晶くん! よ、良かったら一緒にお出かけしませんか? 晶くんの行きたい場所でいいですから!」
 珍しく晶が切れ長の目を丸くしている。その向こう、綾弥子は顔を伏せ、視線を隠す。だが眼鏡の奥のその双眸は、じっと美帆の様子を窺っていた。弟を他人に取られまいとする、姉の嫉妬のようなものが見え隠れする。

「店、あるから」
「お店が忙しいのは分かってますけど、今日一日だけ、あたしのお休みに付き合ってください。お願いします!」
 美帆は身を乗り出して晶を誘う。晶はさんざん迷った結果、小さく一度だけ頷いた。
「あら。私の珈琲淹れてくれる人、いなくなっちゃったわ」
 おどけた調子で綾弥子が言う。しかし目が全然笑っていない。美帆はとっさに怒られると思って、身を固くした。
 晶は空っぽのサイフォンを振り、無表情のまま綾弥子に言葉を投げかける。
「ちょうど無くなった。アヤコさんも休めばいい」
「そうねぇ……一人じゃ何もできないし。そうするわ」
 カウンターから立ち上がろうとし、ふと綾弥子は手を止める。
「どうせなら私も付いていこうかしら? 晶みたいな無愛想なのと一緒より、私もいた方が楽しいでしょ? 私が美帆に似合う服でも見立ててあげるわ」
「えっ、綾弥子さん、は……その……」
 綾弥子はクスクス笑い、美帆の頬を指先で撫でた。
「なーんて、野暮は言わないわよ。楽しんでらっしゃい。晶とのデヱト」
「ち、違いますっ! そっ、そんなんじゃありません!」
「さぁ、どうだかねぇ? ふふっ。邪魔者は消えるから、臨時休業の看板だけは出しておきなさいね」
 綾弥子は新聞を置き、フフンと鼻歌を歌いながら二階へと消えた。美帆は頬を赤くして、肩をすぼめて晶を見る。
「あの、デ、デヱトとか、そんなつもりじゃないですからね!」
 ムキになって否定の言葉を口にするも、聞いているのかいないのか、晶は表情を変えずに淡々とカウンター内を片付けていた。



     7-5top8-2