黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


   6→5 混じる


     一

 なるべく目立たない服装で、と綾弥子に忠告され、美帆は普段着用している小袖の着物とは別の、生成りの麻のシャツと濃茶のスカートを穿いた。靴音にも気を使い、底の柔らかな靴を履く。着物特有のヒラヒラとした袖などないので、多少は動きやすいかと考えたのだ。
 瓦斯燈の灯りだけの、仄暗い部屋。鏡で普段の自分と違う姿を見ていると、今から自分が何をしにいくのか分からなくなってくる。それが殺人の手伝いだなどとは。
 しばらくすると、コンコンと扉がノックされた。
「あ、はい!」
 美帆は慌てて扉を開く。そこには晶と、昼間と同じ黒いワンピース姿の綾弥子が半歩下がって立っていた。
「準備はいいかしら?」
「はい。あの……準備って、何をすればいいのか分からなくて、とりあえず地味な服を選んだんですけど……」
 美帆の洋装に一瞥くれ、綾弥子は小さく頷いた。そうして急かすように、くいと顔を外へと向けた。
「充分よ。さぁ、行きましょうか」
 綾弥子が先頭に立ち、美帆を挟むように晶は後方を歩く。おそらく二人に警戒されているであろう事は、容易に察しできた。

 真っ暗な一階の店舗部分を抜け、表の扉から出る。無言で、ただ、目的地まで歩く。
 もう一度彼女に、こんな事をやめてもらうための意見を言うか言うまいか迷っている内に、彼女は一軒の邸宅の前で立ち止まった。
 重厚な瓦葺きの屋根の邸宅だ。
「ここが日向さんの家。ここから更に二十分ほど行ったところが、目的の須井(すい)均(ひとし)の家よ」
 道の脇に並ぶ、仄暗い瓦斯燈の先を綾弥子は指差す。
「瓦斯燈が消える前に仕事を終わらせましょう」

 夕暮れの暗くなり始めた頃に、瓦斯燈に火を灯して周る、瓦斯屋の雇った火周(ひまわ)り小僧がいる。暗くなった夜間の瓦斯燈の灯りは非常に役に立つが、燃料が瓦斯という事もあり、深夜は瓦斯の節約のために灯りは消されてしまう。
 綾弥子の言う“瓦斯燈が消える前”とは、瓦斯燈を消して周る、火周り小僧と出くわす可能性がある時刻の事を差しているのだろう。

「あ、の……綾弥子さん」
「何かしら? 話し合いで、と言いたいのなら、私は聞かないわよ。粛清を考え直すなんて、私も晶も考えていないから」
 先に釘を刺され、美帆は黙り込む。強情な二人を前にして、美帆に弁論の余地はない。
「質問は特にないようね。じゃあ行きましょうか」
 綾弥子は踵を鳴らして歩き出す。晶もチラリと視線で美帆に合図を送り、歩き出す。
 瓦斯燈の灯る夜道を、それぞれの思いが交錯した三つの影が歩いていた。

 朽ち木を丸ごと使った大仰な門構えの邸宅に、美帆たちは辿り着いた。見た事もない金持ちの邸宅に美帆が戸惑っていると、晶は事もなげに大きな門扉(もんぴ)を開く。施錠などされていなかったかのように、彼が押すと自然に開いたのだ。
「え? 鍵、とか、かかってないんですか? 普通なら夜は鍵をかけますよね?」
「さぁ? でも晶はどんな扉でも開けられるから」
 不思議な事もあるものだと、美帆は素直に感心する。自分から見えない所で晶が解錠でもしたのだろうと考える事にした。手先が器用な彼ならば、それくらいできるはずだと。
 晶の開いた門扉を綾弥子と美帆が、最後尾を晶がくぐる。そのまま靴も脱がずに、慣れ親しんだ家を訪問した客人を思わせる迷いのない足取りで、綾弥子は邸宅の奥へとズンズン進む。その行動にも美帆は疑問が浮かび、綾弥子に小声で問い掛ける。
「お、お部屋の間取りとか、分かるんですか?」
「いいえ。気の向くまま、適当よ」
 胸を張ってそう言う割に、彼女が進む進路には迷いがない。
 そして成り上がりとはいえ、金持ちの邸宅だ。夜間の見張りが出てこない現象も、美帆には不思議でならなかった。
 なぜ綾弥子は迷いなく目的地まで歩けるのか、なぜ晶が苦もなく鍵のかかっているであろう扉を開く事ができるのか、美帆にはまるで分からない事ばかりだった。無論、深夜に他人の家に忍び込むといった行為自体が初めての経験なのだ。不思議な体験も、他人の家への侵入も、疑問に思った何もかもを、知り得るはずもない。
 家の中を歩くというのに靴を脱がない非礼にも違和感を抱いたが、粛清するための道具なども、二人が携帯している様子もない。手ぶらだったのだ。
 美帆にとっては不思議で疑問だらけの行動を、この二人の姉弟は行っている。
 しかし、一見して二人が手ぶらな様子を見て、美帆はほんの僅かに安堵していた。先ほど綾弥子は考え直すつもりはないと口にしたが、話し合う気になってくれたのだと、そう思ったのだ。
 まさか綾弥子や晶の細身の体で、肉体そのものが武器の、武術の達人だとは考えられない。他人を打ちのめせるほどの柔術を会得しているとも思えなかったのだ。

 綾弥子の足が一つの部屋の前で止まった。
「晶」
 彼女が晶を呼ぶと、晶は西洋造りの扉を押して開く。今回も、何事もなく扉は開いた。
 晶が何か細工をしているのか、それとも鍵など最初から掛かっていなかったのか、今度も美帆には、見極める事はできなかった。

 真っ暗な部屋の中から、うるさい鼾(いびき)が聞こえてくる。須井のものだろうか。
「あらあら、のん気な大鼾。これから粛清されるっていうのにね」
 綾弥子はフフと笑って晶に顔を向け、クイと顎で須井を指す。彼はスラックスのポケットから、小さな細い折りたたみ式のナイフを取り出した。

「……ッ!」
 そのナイフを見た途端、美帆の全身が硬直する。

『イ、ヤ……イヤだ……あのナイフ! すごくイヤ! 分からないけど、すごくイヤ……怖い!』
 何かが心の奥で警鐘を鳴らし、悲鳴をあげる。初めて見るはずのそのナイフは、美帆に奇妙な、そしておぞましい既視感を抱かせた。
 小さなナイフ一つに、美帆は堪えようのない怯えを見せ、片手で口を押さえて悲鳴を飲み込み、片手で扉のノブに掴まって、必死に倒れそうな自分の体を支えていた。ここで騒いではいけないと、家人の誰かに見つかってはいけないと、無意識にそう行動していた。

 晶は指先でナイフの刃を引き出し、特に気負いもせず、茶館で出すサンドウィッチを切るかのように、須井の喉をスパッと切り裂いた。
 小さな細いナイフは、いともたやすく須井の喉を切り開く。手の平に収まりそうなほどのナイフが、今まさに、人の命を奪おうとしている。大仰な武器などなく、こんな小さなナイフが犯行の凶器だと、美帆には考えも及ばなかった。
「ぐあっ! かっ……はっ!」
 さすがに喉を切り裂かれてのんびり寝ていられないのは当然の事。目覚めた須井は驚愕に満ちた形相で、寝台のすぐ傍でナイフを持つ晶を見る。晶は躊躇いもせず、ナイフでの第ニ刃を振るう。

 綾弥子や晶の手際が良すぎるせいもあるが、悪事を仕出かす相手を説得すると言いながら、動揺してその隙すら見落とし、そして残虐非道な行為を見せ付けられる。美帆はこれ以上の、恐怖と嫌悪に耐えられず、両手で口元を抑え、うずくまった。
 噎せ返るような血の臭いで酷い吐き気がする。彼女が過ごしてきた凡庸な現実からかけ離れたあまりの光景に、目の前がグルグル回って見える。
 あの時、晶がナイフを掲げて須井に襲いかかった時に、迷わず須井を起こしていれば。茶館を出る時にもっと強く、綾弥子たちを引き止めていれば。
 彼女自身に何も罪はないのだが、美帆は激しい自責の念に駆られた。

「な、ぜ? 助け……ゴフッ……てく、れ」
 血の泡を吹きながら、須井は喉を抑え、血に塗れた手を晶に伸ばす。
「触らないで」
 感情の篭もらない声で、晶はスッと身を引く。そして伸びてきた須井の手をナイフの刃で払い退(の)けた。手を切り裂かれ、指が数本切断されて床に落ちる。
 ほとんど力を込めていないはずの、ナイフの斬撃。骨など無かったかの如く幾つかの指が床に落ちる。恐ろしいほどの切れ味を持ったナイフだった。
「キャッ……う!」
 切り落とされた須井の指が、床の上で芋虫のようにピクピクと痙攣し、その不気味さに美帆は思わず悲鳴を飲み込む。
 でっぷりと太った須井が、切り裂かれた喉から溢れる血に塗れつつ、華奢な少年に向かって助けを請う。そんな須井に向かって、美麗の女は踵を鳴らして歩み寄った。
「やだわ。全然綺麗じゃない。見ているのも穢らわしくて汚いわ」
 綾弥子はフフッと笑って眼鏡の奥の目を細めた。

「そうねぇ……あなた。助けてほしいの? 命が惜しいの? でもあなたを助ける価値、無いわよね? だってあなたは“ヨゴレテ”いるんだもの」

『まただわ!』
 綾弥子の発した言葉に、美帆は再び既視感を抱く。
 しかし綾弥子とは、茶館の女給として雇われて初めて会ったはずだ。そして茶館で働き始めてから、このような不穏な会話をした記憶は一切ない。
 何よりも、自分は綾弥子や晶が言うような“汚いモノ”ではない──はずだ。真面目に清廉潔白に生きてきたはずだ。
 身の潔白を、懸命に、掻き乱されそうな思考の上に、何度も上書きするかの如く頭の中で反芻し、美帆は壁に手をつきながらヨロヨロと立ち上がる。

「助けて欲しいの?」
 綾弥子の声に、愉快そうな響きが混じる。
「やぁだ。だってあなた、汚いもの。臭い血と、ブヨブヨの脂と、醜い思考。悪巧み。何一つ綺麗なモノはないんだもの」
 顔を近付け、須井の唯一汚れていない鼻先をチョンと指先で突付き、綾弥子はケラケラと笑って晶の元まで下がった。
「あはっ! 汚いモノに触っちゃった! 私も汚れちゃったかしら? でも少しくらいいいわよね? だって汚いモノってどんなのか知りたかったんだもの。予想通り、すっごく汚かったわ。あははっ!」
 壊れたように笑う綾弥子の横顔が、美帆にはとてつもなく恐ろしく見えた。昼間、茶館のカウンター席で珈琲を飲む妖艶で優美な綾弥子とは別人のように思えた。
 晶がチラリと綾弥子を見て、珍しく何か言いたそうに唇を動かす。しかし何も言わなかった。無論美帆には、彼が何を言わんとしたかは分からない。しかし、彼の綾弥子を見る目がほんの少し、訝しいものに変わっている事に気付いた。それに綾弥子は気付いているだろうか?

「ああ、可笑しかった。さて、と」
 綾弥子はレース飾りの付いた紅いハンカチーフを取り出し、晶の持つナイフをハンカチーフ越しに取り上げた。晶はコクと頷き、今にも事切れそうな須井に近付く。そして美帆に背を向け、須井に手を伸ばして何やらゴソゴソと顔の辺りを探っていた。触るなと拒絶した割に、随分と接近している。もはや須井に反撃の余力など無いからだろうか。
 一方、綾弥子は血の付いたナイフの刃を折りたたみ、ハンカチーフでグルグル巻きにしてポケットへと入れた。
「ねぇ。汚くて醜い、上質な御霊(みたま)は取れたかしら?」
「みたま?」
 美帆は吐き気を堪えつつ、綾弥子に向かって首を傾げる。答えはなかった。
 綾弥子の問い掛けに、晶は手で何かを隠しながら、それをスラックスのポケットへ入れた。美帆の視界の隅にチラリと見えたのは、彼の手に収まるほどの、輪郭がふやけた靄のようなものだった。実体のないものなど、捕まえられるのか不思議だった。だがそれが何かは分からないが、彼にとって大事なものらしい。ポケットの上から大事そうに手を当てている。
 須井がそのような物など持っていたのかは分からないが、晶が奪いとった事は間違いない。それが何を意味するかを、今のこの時、この瞬間、問うのは無理そうだった。

 綾弥子はカラリと窓を開け、室内の空気を入れ替える。いや、外部から須井を襲いに来た者がいると思わせる、アリバイ工作をしたのだ。
「これで今回の粛清は終わり。明日、日向さんに報告しなくちゃね」
 颯爽と綾弥子が部屋を出る。晶も部屋を出て行ったので、美帆は死体と一緒にいるのは御免だとばかりに、慌てて二人を追った。
 もはや虫の息になった、須井の呻き声はいつまでも聞こえていた。美帆の耳にこびり付いて離れなかったのだ。
『止められなかった……』
 深い悔恨が胸を締め付ける。美帆は口と胸を押さえ、逃亡に転向した綾弥子たちを追いかけた。



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