黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     三

 美帆が珈琲茶館『時茶屋』で働き初めて、そろそろ二週間になる。季節は本格的に秋の色となり、朝夕は少し冷え込むようになった。
 彼女自身、茶館の仕事や支度も随分と覚え、常連客には顔も覚えてもらい、働き甲斐というものを感じはじめていた頃だった。

「そういや美帆ちゃん。あんたどうしてここで、住み込みで働いてるんだい?」
 常連客の一人であり、商店街にある八百屋の主人、冨田が珈琲をすすりながら何気なく問い掛ける。いつも持参してくる自前の新聞をバサバサと乱暴に畳みながら。
 美帆は冨田の方へ向き直り、ニコリと笑顔を見せる。
「はい。うちはすっごく田舎で、都会に出てきたかったっていう個人的な理由もありますけど、故郷にいる両親や弟に仕送りしてあげたいんです。あたしだってもう一人前ですもん。親に甘えてばかりじゃダメだと思って」
 冨田の座る隣のテーブルを丁寧に拭きながら、美帆は軽やかな声音で答えた。冨田はうんうんと頷いている。
「若いのに親に仕送りとは、健気で偉いねぇ」
 冨田がハハッと笑う。その奥で、綾弥子がクイと眼鏡を指先で押し上げていた。どうもこちらの会話が気になるようだが、わざわざ会話に混ざるまでもないらしい。
「じゃあ故郷(くに)はどこだい? 美帆ちゃんの言葉はあんまり訛りがないけどね?」
「口調は気をつけてるんです。それから、あたしの故郷は……こ、故郷。あれ? 故郷……」
 冨田の問い掛けに口ごもり、テーブルを拭いていた手が止まる。そのまま全身が強ばってしまったかの如く、動けなくなってしまった。
「故郷。えっと……どこ、だっけ?」
「おいおい。自分の育った故郷を忘れちゃったのかい? 田舎だとか言ってたし、両親とか弟とかも言ってたのに」
「故郷? 弟? あたしの、故郷……え、え? あたし……あたし、の……」
 頭の中が真っ白に塗り潰され、ふらりと立ちくらみのように、その場へしゃがみ込んでしまう寸前、いつやってきたのか、綾弥子が美帆を抱きとめた。そして冷たい手を、ピタリと彼女の額に当てる。
「疲れているんじゃない、美帆? いつも私たちの心配をしてるけど、自分の無理はお構いなしなのかしら? おとなしく休んできなさい」
「綾弥子さん。でもあたし、どうして?」
「美帆。私は休んできなさいと言ってるの。昨日の夜、あなたは随分と夜更かししてたのを、“私は知ってる”のよ?」
 眼鏡の奥の、綾弥子の瞳に美帆が写っている。

『そうだ。自分は昨夜、うっかりと夜更かしをした──だから眠いのだ』

 彼女に言われたままの思念が脳裏に割り込み、貼り付く。それが真実なのだと、糊か膠(にかわ)で塗り固められたように。
 綾弥子の言う事はもっともだ、と美帆は素直にコクリと頷き、テーブルに手をついて立ち上がった。
「すみません、少し休ませてもらいます」
 美帆はフラフラしながら奥の休憩室へと向かった。残された冨田は、ポリポリと頭を掻いて綾弥子を見上げる。
「アヤちゃん。オレ、悪い事を聞いちゃったのかねぇ? 美帆ちゃんは故郷の事、あんまり詮索されたくなかったとか? 確かに彼女の個人的な領分に、随分立ち入った問い掛けだったしなぁ」
「そんな事ないわ。ただちょっと“疲れてただけ”ですもの。冨田さんは美帆の事は気にせず、ゆっくり奥様に叱られてちょうだいね」
「ハヒッ!?」
 冨田が慌てて窓を見ると、窓の外には彼の妻が、鬼の形相で彼を睨んでいた。
「ゲェッ! い、今から帰るから! そんな怖い顔するなよ!」
 冨田は珈琲代の小銭をテーブルに投げ出し、慌ただしく茶館を出て行った。綾弥子はフフッっと笑いながら、大慌ての冨田の背に向かって手を振る。
「またいらしてね。お待ちしてるわ、オモテの常連様」



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