黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     二

 カウンター横にある扉から、店の奥へと伸びる薄暗い廊下。突き当たりは階段になっており、二階には美帆や綾弥子たちそれぞれの部屋がある。廊下の左右には装飾のない扉があり、それぞれ休憩室と倉庫として使われている。
 その更に奥。そこに晶専用の台所のようなものがあると先ほど聞き、美帆は晶の姿を追いかける。

「晶くん?」
 廊下の途中には、例の古い振り子時計がある。その前に、晶は佇んでいた。
 美帆に気付いていないのか、晶は時計に手をつき、肩で息をしながら時計の文字盤を覆う、小さな硝子戸を開く。文字盤の針をいじり、その手を口元へと持って行く。
 薄暗くてよく見えないが、何かを飲み込んでいるようだ。キッチリ上までボタンを留めたシャツから覗く、晶の細い喉が僅かに上下に動くのが見えた。
「晶くん、やっぱり気分悪いの? 何をしてるの? 早く休まないと」
 そっと声を掛けると、晶は顔を上げて美帆をキッと鋭く睨む。普段が無表情なだけに、その凍てついた眼差しが美帆の足を竦ませた。
「……! あ、の」
「見た?」
 睨まれたのは一瞬で、美帆に「見たか」と問い掛ける晶は、普段と変わらない無表情に戻っていた。
「あの、えっと……晶くん、歩くのも辛そうに見えたけど、本当に大丈夫?」
 時計の文字盤の硝子戸を、キィと閉める晶。先ほどまでの苦しそうな様子とは打って変わって、普段と何一つ変わらない、憮然とした、表情の乏しい彼がそこにいる。先ほどまでの青白い顔色は、もうそこにはない。
「平気。もう」
 僅かに靴底の音を響かせながら、晶は美帆の元までやってくる。美帆は不安そうに彼を見つめた。
「ご飯、まだ食べてないよね? あたし、あの後すぐ晶くん追いかけてきて、それで晶くんはここにいて時計見てたから」
「平気」
「ご飯はちゃんと食べなきゃダメだよ! やっぱりあたしが何か作るから、晶くんは休憩室で休んでて!」
「いらない。必要ない」
 晶は美帆の好意を無視して、店に戻ろうとする。そんな晶の腕を、美帆はぐいっと掴んだ。晶は掴まれた腕に視線を落とす。
「ダメ! 休むの!」
「触らないで」
「離さない! 休むって言うまで離さないから!」
「触らないで」
「休んでくれるまで絶対離さない!」
 美帆はぷうと頬を膨らませ、晶をじっと見据える。晶は小さく唇を噛み、少し乱暴に美帆の手を振り払った。美帆は反動で一歩後退する。
「もうっ! 休むったら休むの!」
 もう一度晶の腕を捕まえようとしたが、晶はスッと一歩下がって、彼女の捕縛を逃れる。彼の腕を捕まえ損ねた美帆は、今度は両手を大きく広げて、廊下の中央を陣取って、通せんぼの体勢を取った。
「休むって言うまでここ通さないからね!」
 彼が店に戻る事を、断固拒否の構えで、美帆はじっと晶を見据えている。晶の表情は変わらないが、彼は少々呆れたような声音で小さく口を開く。
「僕に構わないで」
「だって心配だもの!」
「美帆は関係ない」
「関係ある! この茶館はあたしたち三人でやってるんでしょ? じゃあ誰一人欠けてもダメなの! 具合悪いならちゃんと休まなきゃ! 今日はあたしが晶くんの分まで頑張るから!」
 片足に体重を乗せて斜に構え、晶は黙り込んだまま。美帆も頬を膨らませて、両手を廊下の壁目一杯まで広げて立ちはだかっている。
 どちらも一歩も譲らない、膠着状態だった。

「ねぇ、美帆」
「は、はいっ?」
 背後に綾弥子が立っていた。まったく気配を感じなかったので、美帆は仰天して身を竦ませる。
「さっきの晶のあれは、慢性的な貧血みたいなもので、少し休めばすぐ治まるのよ。もうすっかり大丈夫みたいだから、美帆も意地にならないでいいわ。そうよね、晶?」
 綾弥子に促され、晶はコクリと頷く。だが美帆は一歩も譲らず、逆に眉を眉間にグッと寄せて、ずいと綾弥子に迫った。
「貧血なんだったら、余計にちゃんとご飯食べないと、いつまでも治らないじゃないですか! 晶くん! これからはつまみ食い禁止! ちゃんと休憩もして、ご飯も食べる! 約束ですからね!」
 声を張り上げ、美帆が晶を諭そうとする。しかし当の晶は、自身の体調などまったく興味がないといった様子で、ある意味予想通り、感情の篭もらない投げやりな言葉を返す。
「いらない」
「約束ですっ!」
「いらな……」
「約束してくださいっ!」
 晶の言葉を遮り、美帆は彼の鼻先に指を突き付けた。
 感情が乏しく、何事にも動じない晶だったが、さすがに今回は、彼女の鬼気迫る勢いにたじろぐ。そしてこれまで美帆が見た事のないような困惑の表情になり、口元に手を当ててゆっくりと息を吐き出す。彼が不満か何かを言い出す前に、美帆は強気で自分の言葉を重ねた。
「や、く、そ、く、です! いいですね? 約束しますって言うまであたし、ここを動きませんから!」
「……わ、分かった」
 晶は視線を泳がせ、不承不承頷いた。
「あらま。晶が折れるなんて」
 綾弥子は口元に手を当て、心底驚いたように美帆を見下ろしている。すると彼女はクルッと体を反転させ、綾弥子の方へと向き直った。
「綾弥子さんも!」
「え? わ、私?」
 美帆は腰に手を当て、頬を膨らませて、拗ねるような表情で、今度は綾弥子を説得にかかる。
「綾弥子さんも、いつまでも晶くんを甘やかしちゃダメなんです! 晶くんがこんなに不健康に色白なのも細いのも、きっと綾弥子さんが晶くんを甘やかして、食べ物の好き嫌いとか食事自体を抜いちゃうとか、好き勝手させたからですよ! ご飯はちゃんと食べる。休憩もする。そうやってきっちり見ててあげないとダメじゃないですか! 綾弥子さんは晶くんのお姉さんなんでしょ?」
 ハキハキと正論過ぎる持論を押し付けてくる美帆の剣幕に圧され、さすがの綾弥子も目を丸くして口を噤んでいる。まさか彼女がここまでの剣幕で、綾弥子と晶、二人を言い負かす態度に出るとは思ってもいなかったのだ。
「とりあえず! 今から三十分、晶くんは休憩! 綾弥子さんも一緒に休憩! お店はその間だけ支度中! あたしは二人が休憩してる間に一旦お店を閉めて、窓拭き終わらせてきますから! いいですね?」
「わ、分かったわ。晶と休憩室で仮眠でもすればいいかしら?」
「はい、そうしてください。あっ、晶くんはご飯もちゃんと食べてくださいね。いいですか、約束できますよねっ?」
「え、ええ。言う通りにするわ。晶も異存無いわよね?」
 綾弥子がすんなり納得し、晶も面倒くさそうにだが頷いたので、美帆はニコリと満足そうな笑顔になった。そしてしつこくもう一度念押しした上で、上機嫌で店へと戻っていった。

 美帆の姿がなくなり、ふうと綾弥子は息を吐き出した。
「考えてた以上に強情な子じゃない? 晶が言い包められるなんて初めて見たわ」
 晶は僅かに首をもたげ、ぼんやり虚ろな横目でいる。
 視線の先は、コチコチと時を刻んでいる古い振り子時計。文字盤の煤けた針は相変わらず、出鱈目な時刻を示している。晶曰く“壊れた”古い振り子時計。
 煤けた針がまた一つ、カチリと逆向きに時を刻んだ。
「休憩ついでにもう少し“喰んで”おけば? ケチケチ喰んでたら、また美帆の前で倒れるわよ? 今度美帆の前で醜態を晒せば、あの子本気で実力行使に出そうだわ。雑炊を作ってあなたの口に無理やり匙を突っ込みそうよ。だからもう一つ喰みなさいな」
「……いらない」
 晶は綾弥子に背を向け、じっと文字盤の黒い渦を目で追う。そして珍しく、口元を僅かに緩めた。
「でも、準備、急ごうか。アヤコさん?」
「ふふっ。そろそろ“貯蓄”しておかないといけないみたいだしね」
 綾弥子は晶の背後から時計の文字盤を覗き込み、硝子戸の上から指で針をなぞった。



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