黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     三

 いつもと何ら変わりなく、商店街の外れにある珈琲茶館『時茶屋(ときちゃや)』は開店した。

 常連客である八百屋の主人、冨田は、鼻歌を歌いながら店の扉を開け、顔馴染みの綾弥子に、やぁと手を挙げて挨拶する。
「おはようございます。冨田さん。今日は何を召し上がりますか?」
「やぁ、おはよう。美帆ちゃん。そうだなぁ……今日はウチで朝飯済ませてるから、珈琲だけでいいや」
「はい。少々お待ちくださいませ」
 冨田は持ってきた新聞を広げて読み、そして美帆は注文をカウンター内の晶に告げる。
「ありゃまぁ!」
 新聞の活字を追っていた冨田が、素っ頓狂な声を上げる。
「どうしたんですか?」
 美帆はエプロンの前で両手を揃えて小首を傾げる。その向こう側では、綾弥子がカウンターに頬杖をつき、珈琲茶碗を上から摘んでゆらゆらと動かしながら、一輪挿しに活けた黒薔薇を見つめていた。
「筧淑子が死んだんだってさ! 少し前まで凄い人気の舞台女優だったけど、最近スキャンダルまみれで落ち目だったしねぇ。ええと……部屋で首吊ってるのを、迎えに行った付き人が発見したってさ。念入りに喉も自分で掻っ捌いてたってあるぜ」
 冨田は新聞の記事を指差しながら、美帆にその記事を見せている。

 大袈裟な煽り文句と、わざと大衆の興味を駆り立てるような毒々しく誇張した記事が躍っている。生前の筧の顔写真は悪意ありきで、陰鬱な表情のものを選んでいるのか、美帆の憧れていた優しさや大らかさを持った彼女と同一人物とは思えない。
「そんなぁ! あたし筧さんの事、すごく好きだったのに」
「一度頂点まで上り詰めた人ってのは、自分じゃどうにもならない人気の落ち目とか行き過ぎた愛好者の扱いとか、精神的にいろいろ追い詰められるって言うしねぇ。オレも筧さんの歌は好きだったから、惜しい人が早くに逝っちゃって残念だよ」
 冨田の見せてくれる新聞記事を目で追いながら、美帆の心の底に、小さなわだかまりが生まれる。

『嘘、だよ。これ、本当の事と違うよ……ね?』
 そう考えるに至る確証などない。しかし、美帆はそう直感していた。

「あらあら、物騒な話ねぇ。人気者になるのは嬉しいのだろうけれど、そんな危うい場所に立ち続けるなんて、よほど心も体も強くないと難しいのね」
 綾弥子は一輪挿しの黒薔薇をスッと手に取る。
「でも意外と、最期はこれだけ話題を集めて華々しく散れたのだから、ある意味本望だったんじゃないかしら? だっていつまでも人気女優って冠に追い縋って、老いて醜く汚れてしまうのって嫌だと思わない? 私ならそんな醜態、晒したくないわ。華々しく散った方が、人の印象にははっきりと残るんじゃなくて?」
 綾弥子が手にした黒薔薇の茎をポキリと折る。そしてカウンター向こうの晶へ投げ渡した。
「晶。それ、もう枯れて汚いから捨てちゃって」
 眼鏡の奥の目を細めて笑みを浮かべ、綾弥子は椅子にかけ直して珈琲を口に含んだ。彼女の一連の行動に、不自然さなどない。だが、美帆の心のわだかまりは、彼女の行動を見て更に大きく膨らんだ。

『あんな黒薔薇なんてあったっけ?』
 いや、そんな些細な事はどうでもいい。今、自身が考えなくてはいけない事は――

『違う、よね? 筧さんは殺さ、れ……た?』

 ほんの僅かに美帆の手が震えている。はっと我に返って、震える両手を見た。もう、震えてはいない。
『あれ? あたし、なんでこんな変な事、考えたんだろう?』
 筧は誰にも知られず首を吊る。自らの喉を切った刃物も、彼女の遺体の足元に見つかっている。状況は全て物語っている。筧は明らかな自殺ではないか。
 首を傾げるが、自分の心の声に自信が持てない。むしろ、それすら考えても無意味だと感じていた。つい先ほど生まれた、心のわだかまりも霧散している。

 ──何事もなく、今日も“日常”が始まり、巡る朝。

「美帆。冨田さんの珈琲、運んでちょうだい。零さないようにね」
「あ、はい。すぐに!」
 美帆はカウンターに配膳盆を置き、モダンな柄の珈琲茶碗と受け皿を乗せる。今日の茶碗の柄は梅と鶯だった。少々季節外れだが、綺麗な器だと思った。
「ありがとう、晶くん」
 いつも通り笑顔で晶に礼を言い、美帆は冨田のテーブルまで珈琲を運んだ。



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