砂の棺 下 |
雪 1 空腹を感じて目覚めるカルザス。そういえば昨夜、酒場でシーアが騒ぎを起こしたせいで夕食を食い損ねたのだ。 「おなか空きましたねぇ」 カルザスは欠伸をし、のろのろと身支度を始める。 やはり夢であったのだろうか。シーアと、シーアと呼ばれていた少女の夢。 アーネスとアイセル、エルスラディアの夢。 俺がそれらの夢を見る事に、何の意味があるのかまだ分からん。幸い今は多少なり時間の余裕がある。よい機会だ。カルザスに相談を持ち掛けるのも悪くなかろう。 ──おい、カルザス。少々話したい事がある。長くなるが、身支度を整えながらでも聞いてはくれんか? 宿で準備される朝食の時間までには、まだ多少の猶予がある。あの夢の話をカルザスに聞かせて、ぜひとも意見を求めてみたい。あまりに長い話ゆえ、少々掻い摘む必要がありそうだが。 「はい、いいですよ。あ、でもお小言は嫌ですからね」 ──そんな事ではない。俺は最近、不思議な夢を見るのだ。 「夢、ですか?」 カルザスが手を止めて首を傾げる。 ──そうだ。古代魔導帝国エルスラディアというものを、お前も知っておろう? 「ええ、ちょっと聞きかじった程度ですけど。そう詳しくはないですよ?」 カルザスの実家は商家だ。商売に関するノウハウや算術以外にも、歴史や地理、古代文献なども幼い頃から学んでいる。エルスラディアの夢の事をカルザスに相談し、意見を求める事は必ずや俺の糧になるはずだ。 ──俺はそのエルスラディアの……。 俺が語り始めた時だった。扉がノックされ、ノブがガチャガチャと回される。何者かがドアの向こうにいるようだ。 「ああ、すみません。鍵を外してないんですよ。ちょっと待ってくださいね」 カルザスが慌てて錠を外し、扉を開ける。 「おはよ、カルザスさん」 「はい、おはようございます」 シーアだった。 ええい、間の悪い奴め。別にこのままカルザスに話し続けておってもよいのだが、シーアも何か用があって部屋を尋ねてきたのだろう。二人の会話を同時に聞けるほど、カルザスは器用ではない。仕方あるまい。シーアに譲るか。 ──俺の話はまた後日でよい。シーアの話を聞いてやれ。 「はい。そうします」 「え? 何が?」 「ああ、すみません。セルトさんが何か話があるという事で、お聞きしてたんですよ」 シーアは困惑したように指先を唇に当て、ためらいがちにカルザスを見つめる。 「邪魔だったなら……出直すわ、私」 「大丈夫、お気になさらずに。どうせまた小うるさいお小言でしたから」 違うと言ったであろう、俺は。人の話を真面目に聞いておるのか? 俺は憤慨するが、ここで文句を言おうものなら、やはりまた説教だと臍を曲げる。気に食わんが俺が引き下がるしかあるまい。 「そう? じゃあ……」 シーアは室内に入り、壁に寄り掛かって窓の外を見つめる。 「カルザスさんて……本当に私を助けてくれるの?」 「はい、もちろんですよ。改まって一体どうしたんですか?」 シーアは長い髪を指先に絡め、目を閉じる。 「高いところから落ちて……いえ、落とされるの。落とされて、助けを求めてるのに、誰も手を掴んでくれないの。誰も助けてくれないの」 突然何を言い出すのだ? 何か別の事案と混同しておるか、寝ぼけておるのかどちらかだな。 「沢山の命を奪ってきた私が、今更命が惜しくて助けてって言うのもおこがましいかもしれないけど……もし……もしもよ? カルザスさんは、私が殺されそうになってたら……どんな状況であっても助けてくれる?」 シーアは苦笑し、床へと座り込んでぎゅっと膝を抱える。髪の隙間から覗く表情は固く、何かに怯えているようにも見える。先程からソワソワと落ち着かない態度は、シーアにしては珍しい事だ。それだけこの問いかけが、奴の中で重大かつ、意を決したものなのかもしれん。 「……胸を刺されて、そのまま高いところから突き落とされる。そういう夢、ずっと見るの。何回も、何十回も、何百回も。やっぱり報いかな……? そうやって私は殺されちゃうのかな、誰も助けてくれないのかな。そう思ったら、なんだかすごく怖くなってきて……」 膝を抱えるシーアの前に、カルザスは屈み込んだ。 「僕が助けてあげますよ。シーアさんが助けて欲しいと声をあげてくだされば、僕が必ず助けに行きます」 顔を上げるシーア。淡い紫色の瞳に、カルザスの姿が映っておる。 「今まで死ぬ事なんて、怖いとは思わなかった。でも、今は……怖い。すごく、怖い」 「僕でよければずっと一緒にいます。頼りにならないかもしれませんけれど、僕に手伝える事があれば何でもおっしゃってください」 自らの膝に顔を伏せ、シーアは片手を伸ばしてくる。カルザスはその手を握ってやった。 「……おれ、あんたを信じるから……お願いだ。手を振り解かないでくれ。あんたを頼らせてくれ。おれの傍から離れないでくれ」 「はい。頼っちゃってください。僕、力だけはありますから、シーアさんを担いでいく事だってできますよ」 「……うん」 シーアが顔を伏せたまま頷く。そして声を発てずに笑う。 「……良かった……嫌だって言われたらどうしようって……こんな事、頼むなんて……おれさ、ずっとずっと不安だったんだ」 「僕は嫌な方と、こんなに長く旅をご一緒しませんよ。無理だって思ったら、適当に切り上げちゃいます」 「そうだよな。これからもよろしく、でいいかな?」 「こちらこそ」 シーアはカルザスの手を離し、すっと立ち上がった。 「おなか空いてませんか? 実は僕、空腹で目が覚めたんです」 「うん。先に行ってて。後からすぐ行くから」 立ち上がり、部屋を出ていこうとしたシーアはふいに足を止め、振り返る。 そして再びカルザスに近付き、昨夜と同じように袖を摘まむ。 「あの、さ。ちょっと聞きたいんだけど、カルザスさんは……ここ、好きなの?」 「オグダムの事ですか? 初めて来た町なので、まだよく分かりませんね」 「オグダムじゃなくて、ウラウロー。この国、好きなの?」 カルザスは指先を顎に当て、小さく唸りながら考え込む。 「そうですねぇ……他の国へ行った事がないですから比較対象が無いので明確な答えはないんですけれど……特別好きだとも言えませんが、嫌いではないですよ。一応生まれ育った国ですし」 「そう。じゃ、ウラウローを出て他の国に行くのって……抵抗ない?」 はにかむように口許を綻ばせ、シーアは掴んでいるカルザスの袖をクイクイと引く。カルザスはにこりと微笑む。 「ああ、それは楽しいかもしれませんね。どうせならウラウローを出て、シーアさんの生まれ故郷を探してみましょうか?」 「おれの故郷なんてどうでもいいんだ。今更知りたいとも思わないしね」 シーアがカルザスの袖を手放し、石造りの天井を見上げる。 「じゃあさ……空から雨の代わりに、小さい氷の粒が降ってくる“雪”ってものを見た事、ある?」 「雪ですかぁ……昔、本で見た事はありますが、実物はないですね。この国では一生見られないと思いますよ」 「……見てみたいんだ」 天井を見上げたまま、シーアは後ろ手に手を組む。 ん? 微かだが声が震えているようだ。 「ずっと前に、おれには果たさなくちゃならない事があるって……言ったよね?」 「おっしゃっていましたね」 「本物の雪をこの目で見る。それが……おれの果たさなくてはならない事。そしてできる事なら、雪でこの手の血を洗い流したい」 雪……。 雪のある国……。 シーアと、シーアと呼ばれた少女。 もしやあの夢、正夢だというのか? あの夢は、実際にあった出来事だというのか? 夢は経験や願望に基づいて見るものだと考えている。 ならばどうして、あの熱砂の舞う砂漠でシーアと出会うまで、こやつという存在すら知らなかった俺が、夢という形でその過去を見る事ができたのだ? 予知夢のようなものだったというのか? 記憶を失う前の俺には、予知夢を見る能力でもあったのだろうか? 「旅費を稼ぎながらになりますが、雪の降る国へ行きましょう。それ、いい考えですよ。ウラウローを出れば、もう暗殺者に追われるという心配は限りなくゼロに近付きます。ウラウローを出た時点で、シーアさんはただの詩人さんに戻れるんですよ。良かったですね」 「嬉しいなぁ……やっと願いが果たせるんだ」 やや掠れた声でそれだけ呟き、シーアはじっと天井を見上げて動かずにいる。 「……あっ、と……その。僕、顔を洗ってきますね。朝食、先に召し上がっててください。すぐに行きますから」 「うん」 カルザスはシーアを部屋に残し、逃げるように部屋を飛び出す。そして胸を押さえた。 「……お、驚きました……急に泣き出すなんて、どう声を掛けていいのか……僕、ただ雪の降る国へ行きましょうって言っただけですよ。なのに……」 自分の罪を責めるような、自虐の念に駆られておる場合の対処ならば慣れておるようだが、今のようなケースは初めてだからな。カルザスが途惑うのも無理はない。 「雪の降る国に何かあるのでしょうか? 誰かが待っているとか」 む? そうか、そういう事もあるかもしれん。 夢で見たあの少女は、シーアより先にウラウローを出て、雪の降る国でシーアの到着を待っておるのかもしれん。暗殺者の頭目代行として身動きの取れなかったシーアが、あの少女を先に逃し、当人は出遅れておるだけなのかもしれんな。 第三者であるこの俺から見ても、相思相愛であったシーアとあの少女。長く離れておったのだから、想いが募るのは自明の理《ことわり》だ。 「でも僕もちょっと楽しみです。雪なんて初めてなので」 雪か……俺に雪を見たという記憶はない。だが実際は見た事があるのだろうか? 本当の俺は……。 |