輝水晶 |
君に会いたい 今日もチャットを開く。しばらくすると、君が現れた。 「こんばんは。今日もいらっしゃるんですね」 NOAというハンドルネームのその人は、いつもと同じ言葉をタイピングしてくる。僕は嬉しくなり、さっそく返信を書き込んだ。 「こんばんは。今夜もお喋りに付き合ってもらえますか?」 「OKです。今日は何をお話しましょうか?」 NOAさんはは多分女性だ。ネットである限り、柔らかい文章だけでは性別は判断しにくいけど、今まで何度かチャットで会話していると、そこかしこに女性らしい気遣いが見え隠れする。 そう。僕はその人に淡い恋心を抱き始めていた。 まさか自分が顔の見えない相手に恋心を抱くなんて思わなかったけど、そうなってしまったからには、いつかは実際に会って話をしてみたい。だけどいきなり会いたいなんて言って脅かしてしまっては、このチャットの関係を壊してしまうかもしれない。それが怖かった。 今夜も最近みた映画の話や読んだ本の話をする。 趣味が似ているのか、僕とNOAさんの見るもの聞くものの好みはよく合っていた。僕が見たと言えば、NOAさんも見たという。もしくは興味があると言う。 それが嬉しかった。 時計の針が真上を指す頃、眠くなってきたのでそろそろ終わろうとNOAさんは切り出してきた。僕はしぶしぶそれに応じる。 「じゃあまた明日にでも」 「あ、明日はちょっと用事があって帰りが遅いんです。明後日もどうなるかちょっとわからなくて」 「そうですか……じゃあ、僕は毎日でも顔を出してるんで、気が向いたらログインしてくださいね」 「はい。ありがとう。ではおやすみなさい」 そう言って、NOAさんはログアウトした。 僕は今日のチャットをのんびりと読み返し、そしてパソコンの電源を落とした。 翌日、僕は眠い目を擦りながら通勤電車を待っていた。 「おはよ。今日も眠そうだね」 同じ会社の同僚である宮川葵が僕の肩を叩く。 「いつものチャット?」 「うん。すっかりハマっちゃってて」 宮川はあははと笑って僕の肩を叩く。 「あんまり根詰めたら体壊すよ。ほどほどにしないとね」 宮川の言っているのはもっともだが、あの人とはチャットだけの繋がりなんだ。それをやめろというのは、今の僕には酷というものだ。 僕は宮川と一緒に、やってきた電車に乗り込む。今日も嫌になるほど満員だ。 「宮川、大丈夫?」 彼女はちょっと体が小さいから、今にも人に押し潰されそうになっている。 「うん、ちょっと苦しいけど、大丈夫」 気丈に答えるが、ショルダーバックを抱いて必死に倒れまいと踏ん張っている。僕は彼女の腕を支えた。 「僕に掴まってていいよ」 「ありがと」 宮川は素直に僕に掴まってくる。そしてふうと息を吐いた。 「そっちは大丈夫なの?」 「僕はつり革があるから」 片手をつり革に、片手を宮川に、僕は両足を軽く開いてバランスを取った。 電車はいくつかの駅を通過し、会社の最寄り駅へと到着した。ここは乗り換えのある大きな駅でもあるから、降車の人もどっと出口に押し寄せる。僕と宮川はその人の波に流されるように電車を降りた。 駅から会社まで早足に歩きながら、僕は宮川を見る。 彼女は電車の中で乱れた髪を撫で付けながら、カツカツとヒールの音も小気味良く歩いている。 宮川は割りと美人な方に入る。目を見張るほどの美人という訳ではなく、健康的で元気な妹分という感じだろうか? 標準より整った顔立ちで、会社の中でも男性人気も高い。 僕にとって宮川という女性は、家も近くて通勤も同じ駅で、そして同期でもあって、ちょっと身近過ぎるから特別視はしていない、といった感じだろうか? 決して嫌な訳ではなく、身近過ぎなければ、多少の恋愛感情も抱いていたかもしれない。それほど宮川は僕に近しい人なんだ。本当に妹分のような。 会社に到着し、タイムカードをスキャンする。宮川とは部署が違うから、ここで一旦お別れだ。 「じゃあな、宮川」 「しっかり仕事しなよ」 軽口を叩く宮川を見送り、僕は自分の部署へと向かった。仕事は憂鬱だ。今夜の楽しみがないとなれば、余計に憂鬱だ。 あの人と次にいつ話せるんだろう? デスクに座り、僕はパソコンの電源を入れた。 いつものように、僕はチャットルームにログインする。あの人は来ていない。刻々と時間だけが過ぎていく。そして── 「こんばんは。お久しぶりです」 来た! NOAさんがやってきた! 僕は嬉しくて、急いで返信を打ち込む。 「こんばんは! 待ってましたよ!」 「ごめんなさい。ここの所、残業が続いていて」 「会社、忙しいんですか?」 「そういう訳ではないんですけど、なぜかわたしにばかり仕事が割り振られてしまって」 「お疲れ様です」 ちょっと早めに休ませてあげた方がいいかもしれない。僕の都合に合わせてもらっていては、体を壊してしまうかもしれない。 「体がキツイなら、遠慮なくログアウトしてくださいね」 「大丈夫ですよ。あなたとお話すると元気が出てくるので」 嬉しい事を言ってくれる。僕はNOAさんを喜ばせたくて、最近あった楽しかった話題を次々タイピングしていった。 「あはは。リアルに笑っちゃいました。あなたの周りには楽しい人が多いんですね」 「そうかな?」 「穏やかな人の周りには素敵な人ばかり集まるものですよ」 誉められ、僕は有頂天になった。そして我慢しきれなくなり、禁断の話題を打ち込んでしまった。 「あの、もし良ければ一度リアルに会ってお話しませんか?」 そう打ち込んでから、はっと我に返る。そしてシマッタと思った。 「え?」 「あ、いえ! 忘れてください!」 あわてて弁解するが、それきりNOAさんはチャットを打ち込んでこない。 「すみません、変な事を言って。なんとなく思っただけなんで、本気にしないでください。すみません」 「……リアルに会うのは……ちょっと怖い、ですね」 その人は本気で怯えているようだった。 僕は猛烈に反省する。NOAさんを怖がらせてしまった。こんなつもりじゃなかったのに。 「本当にすみません。忘れてください」 「はい……あの……今日はこれで」 「はい。おやすみなさい。本当にごめんなさい」 ログアウトの文字がチャット画面に表示され、僕はテーブルに突っ伏した。 「やっぱり怖がらせてしまった……」 自分の迂闊さを猛烈に呪い、僕はパソコンの電源を落とした。 翌日は雨が降っていた。僕はいつも通り、駅で電車を待っている。そしていつも通り、宮川もやってきた。 「おはよ」 「おはよう」 「元気ないじゃん」 宮川は不思議そうに僕を見つめている。僕は少し迷ってから、昨夜の事を彼女に話した。 「ふうん。じゃあ相手の人は直接会うのは嫌だって事なんだね?」 「ネットは顔が見えないし、やっぱり直接会うのを嫌がる人も多いって分かってたはずなのに」 「でもそれはあなたのせいじゃないでしょ。確かに言動は迂闊だったかもしれないけどさ」 確かに迂闊だった。僕はもうNOAさんに合わせる顔がない。いや、元々顔を合わせていた訳じゃないんだけど。 「あなたは下心があって、相手の人にそう言っちゃった訳?」 「それは全然ないとは言い切れないけど、でも純粋に話が合うのが嬉しかったんだ」 宮川はふっと考えるように顎に手を当て、僕に言った。 「もう一度ちゃんと謝って誤解を解く事だね」 「もうチャットに現れないかもしれない」 「そんな事ないと思うよ」 無責任な雰囲気で宮川はそう言い、ニコリと彼女は笑った。 「あなたの真意は伝わると思うよ」 「それってどういう事?」 「だってあなたは真面目だもの」 生真面目。嘘が苦手な僕の長所であり、短所でもある。宮川はその事を言っているのだろう。 「分かった。またNOAさんが来てくれるのを待つよ」 「そう遠くない日に来てくれるんじゃないかな」 「無責任な事言うなよ」 宮川は当事者じゃないからそんな事が言えるんだ。僕は少しだけ、彼女にムッとした。 ダメ元でチャットルームを開く。すると驚いた事に、そこにはNOAという文字があった。 「こ、こんばんは!」 文字まで挙動不審だ。僕はかじりつくようにキーボードを叩く。 「昨日NOAさんを怖がらせてしまったから、もう来てくれないと思ってました」 「いえ、こちらこそあなたの気を悪くさせてしまったから、謝らないといけないと思って待ってました」 嬉しい! NOAさんがこんな事を言ってくれるなんて! 僕は感極まり、何を言おうか迷ってキーボードの上の指を震わせる。 「あの……もしご迷惑でなかったら……ビデオチャットをしませんか?」 「ビデオチャット!?」 僕は驚いて何度もその文字を読み返す。 「NOAさん、直接会うのは怖いって……」 「ええ、お詫びを兼ねて、直接謝りたくて。繋いでいいですか?」 「ちょ、ちょっと待ってください!」 僕は慌てて手櫛で髪を整える。そしてスウェットの乱れを直した。 「ど、どうぞ!」 「はい。じゃあ」 チャット画面に小さなウィンドウが開き、そこにNOAさんの顔が映し出される。 「えっ?」 「こんばんは」 そこに映っていたのは宮川だった。彼女は恥ずかしそうにペコリと頭を下げる。 「今まで黙っててごめんね。NOAはわたしだったの」 「だ。だってそんな素振り、全然なかったじゃないか」 「だってわたしはNOAという別人になりきっていたんだもの。でもだんだんあなたを騙すのが苦しくなってきてて」 僕は何も言えなかった。 「NOAはわたしだけど……明日からも普通に挨拶していい? もちろんチャットも」 僕はなんだかおかしくなり、あははと笑った。 「宮川だなんて。あんまりにも身近過ぎて、全然気付かなかったよ」 身近すぎて気持ちが傾かない。そんな思いを宮川にはもっていたはずなのに、NOAさんだったとわかるやいなや、今までの彼女への気持ちが一気に宮川に向かう。 「宮川、これからもよろしくな」 「こちらこそ」 ビデオチャットの中の彼女は恥ずかしそうに笑っていた。 |