結界術師と狼男2-Appetizing Journey-

   プロローグ


 暗がりにある岩場の影から、次々とジャッカロープ――鹿角を持つ大兎たちが集まってくる。言葉も通じない知能の低い獣型の魔物たちである。奴らは群れを成して敵に襲いかかることで自分たちの縄張りを維持し、獲物を狩る。大きいとはいえ見た目が草食動物の兎だからと油断はできない。いざとなればその鋭い歯で、またたく間に敵を噛み殺す恐ろしい魔物なのである。
 一匹、三匹、七匹、十匹――もう目視で数えられないほど無数に、岩場の影から次々跳び出てくる。
「……ヒッ!」
 そのあまりの数にたじろいだ彼は、小さく息を飲んでじりりと数歩後退った。
 意気地がないのではなく、魔物と呼ばれる生物を今までほとんど見たことがないのである。平和な街の中で安穏と、本と勉学に囲まれて過ごしてきた彼に、町の外にはどのような危険があるかなど、遠い世界のおとぎ話のような架空の物語の中でしか見聞きしてこなかったから。この世界には魔物という異形の生き物がいると知識として知っていても、自分の目で見ることなど、生涯無いと思っていたことだから。そんな遠い世界の、自分とは無縁のものだと思っていた魔物が、たった今、己を敵だと捉えてにじり寄ってくるのだ。その恐怖は計り知れない。
 ゆっくりと距離を縮めてくるジャッカロープ。
 じり、じりと彼はまた数歩後退る。そして――
「えっ、あっ……!」
 彼の足元は脆くなっていたのか、ピシリと小さな音をたてて崩れ始めた。背後は暗い深い穴。壁ならばどんなに良かっただろうか。
 バランスを崩し、両手を伸ばして掴まるものを探るが、掴めるものは何もない。虚しく空を掻いただけだった。
 一匹のジャッカロープが彼を視界に捉えて大きく跳ねた。魔物特有の殺気を纏う赤い瞳に、自身の姿が映っている。彼は魔物の突然の跳躍に驚き、瞬間的に全身が萎縮した。
「危ないっ!」
 彼女が手を伸ばすも、恐怖で固まってしまった彼の手は動かない。そのまま彼の足元が、完全に崩壊した。

 暗すぎて底の見えない暗く深い崖下に、彼が落ちていく。
 悲鳴をあげることすら忘れた呆けたような表情で、ぱちりと両目を見開き、ようやく伸ばすことができた手がゆるく握られ、そして広げられる。掴むものなど何もない空間を、掴む。まるで言葉以外の方法で「助けて」と訴えんばかりの仕草である。
 こちら側にあるランタンから溢れる明かりの照射範囲から消えるように、〝闇〟に侵食されて見えなくなっていく彼の姿。言葉を発する間もなく、その姿は完全に視界から消え、深淵たる暗闇だけが彼女の眼前に広がっていた。
 心臓がばくばく跳ねる。驚きよりも、恐怖よりも、彼を助けなければという使命感のようなものが彼女を突き動かした。
 無意味に騒ぎ立てるようなことはせず、すかさず彼女は状況を瞬時に判断して、最善の行動をするために振り返って叫ぶ。
「彼を助けて!」
 灰色狼の毛並みと同じ色の髪の青年が、彼女の声に呼応するかのように、崖の際まで一足飛びに距離を詰めてきた。そしてチラリとジャッカロープの群れに視線をくれて、僅かに牙が覗く唇を開く。
「ここ、オマエひとりで大丈夫か?」
「なんとか持ちこたえるから! 早く!」
 頭は冷静ながらも、のんびりはしていられない最悪の状況だ。
 青年は彼女の返事を聞き終えるより早く、鋭い視線を崖下に向け、そのまま暗闇に消えた彼の姿を追って反動をつけて飛び降りた。
 彼と青年のふたりの姿がこの場から消え、彼女ひとりだけが、ジャッカロープの群れの前に取り残された形となる。

 ただひとり残された彼女はすぐさまジャッカロープの群れの方を向く。そのまま片手を右肩から斜め掛けした大きな鞄の中へと突っ込んだ。指先の感覚だけで、目的の中身を探し出し、掴み取る。
 取り出したのは武器の類いではなく、小さな硝子の小瓶。新緑の色を封じ込めた綺麗な小瓶だ。
 この場に相応しくない、頼りなくも綺麗な小瓶だが、それこそが彼女が選んで掴み取ったものであり、切り札だった。
「わたしだってやれるんだからね! あんなのひとりで……相手できるんだから!」

 ――自信を持ちなさい――
 ――そうそう、上手いぞ――
 ――君ならできる――

 いくつもの声が同時に頭の中に響く。それらをひとつひとつ確かめる時間すら惜しく、彼女は小さく祈ってから、素早く小瓶を投げた。
 周囲を照らす僅かな明かりを反射して、放物線を描く小瓶の軌跡がキラキラと輝く。
 ジャッカロープの群れのすぐ目前に小瓶は落下して砕け散った。瓶が割れたと同時にシュワッと新緑色の煙が溢れ、周囲の空気に融け込む。刹那、半球状の〝結界〟が数匹のジャッカロープを取り込み、キィンという音を響かせ解き放たれた。
 これこそが彼女が魔物たちに立ち向かえる唯一の切り札なのだ。

 結界術――魔術の一種である。

 結界の中で、小さなカマイタチが吹き荒れる。結界内に取り込まれたジャッカロープはそのカマイタチによって全身を切り刻まれた。ギャギャッと小さな鳴き声が聞こえたが、情けをかけてやる余裕などなく、言葉が通じない時点で互いに敵だと認識している。軽く唇を噛んでから、彼女は再び鞄の中に手を突っ込んだ。
「次いくよ!」
 彼女はすぐさま次の小瓶を取り出し、ジャッカロープ目掛けて投げつける。再び半球状の結界がジャッカロープを取り込んで展開した。

 互いに落ち着いた状態で遠目に見れば、ジャッカロープは可愛げのある容姿の魔物かもしれない。もふもふとした丸っこい毛並みは兎そのもので、鹿角もそこまで凶悪に鋭いものでもない。だが今、目の前に群がる奴らは、こちらを敵――獲物だとしか認識していない。先程、彼を追って崖を飛び降りた青年ならば、この魔物たちを宥めるか脅すかして落ち着かせることができたかもしれないが、だが崖に落ちた彼を救えるのも、身体能力の発達したあの青年だけなのだ。
 〝持ちこたえる〟と返事をしてしまったからには、彼女ひとりでこの場を乗り切るしかない。覚悟はできている。
「絶対持ちこたえてみせるから……お願い!」
 奥歯を噛み締めて彼女は呻くような声を唇から洩らした。


 結界術師の女の子
 いつも明るくて元気いっぱい
 お料理大好き食べるのも大好き  
 みんなを笑顔にしたいから
        今日も健気に旅をする

 狼男の男の子
 昼は人間に夜は狼男に変身しちゃう
 食いしん坊で強いモノ大好き
 もっと強くなりたいから
       オマエと一緒に旅をする

 核主候補の男の子
 みんなの期待に応えなくちゃ
 みんなの憧れにならなくちゃ
 つらい気持ちを隠して笑って
       ぼくはひとりでがんばる

 ――これはそんな彼女たちの物語