綺羅星美星 夜空ニ懐フ君想フ

 俺より体が華奢で小さくとも、崖の上から落下してくる自分と同じような年代の人間を受け止めようだなんて、とっさとはいえ、どうして思ってしまったのだろう?
 悲鳴をあげながら落ちてきた女の子を受け止め、俺はそのまま彼女の下敷きになって潰された。落下の衝撃は、予想していたより遥かにデカかった。
 落下のショックのせいか、女の子は意識を失っていて、俺の腹の上でぐったりしている。俺はというと、重力に従って加速度を増した彼女との衝突と重さに耐えかねて仰向けに倒れ、背中と頭を激しく打ち付けた痛みに声も出せずに涙目になって呻いていた。
 だがいつまでも痛いとか言ってても埒が明かない。とりあえず女の子にどいてもらわないと、俺は一向に動けないんだ。
 俺に覆い被さるようにして失神している女の子の肩に手を掛け、ぐいとその体を押し上げる。片肘をついて俺は自分の上体を持ち上げ、更に女の子を動かそうと、彼女の背に腕を回した。
 前髪が触れ合うような至近距離で、はた、と、彼女と目が合った。

 くすんだ金色にも見えるハシバミ色の瞳。ちょっと俺の目の色と似てるかも。俺が太陽の下では金目に見えるのは、お袋譲りだと聞いた事がある。金色だの金褐色だのなんて珍しい色だから、まさかこんな所で同じ目の色の人間に合うとは思わなかった。
 でもこの女の子、一体いつ意識を取り戻したんだ? まぁいいや。意識があるなら自分からさっさとどいてもらおう。

「悪ィけど、どいてくんね? あんた、重……」
「きゃあっ!」
 女の子は顔を真っ赤にして、俺を突き飛ばした。
「あでっ!」
 俺の後頭部は再び地面に激突。さっき打った所と同じ部分を打ち付け、マジで頭割れるかと勘違いしそうな衝撃を受けた。こりゃ、たんこぶ確実だな。
「ぶ、無礼なっ! な、何をなさるんですか!」
 女の子が両手をぶんぶん振って、甲高い声できゃんきゃん喚く。俺の腹の上で。膝立ちになって。
 一点に重心掛けて腹ぐりぐりするなよ! 内蔵が口から出ちまうだろうが! むしろ早くどけ! でないと俺、死ぬから!
「それはこっちのセリフだ! 喚く前にさっさとどけよ!」
 濃茶の長い髪を結って耳のすぐ上で輪っかにしている女の子。ヒラヒラとした、ちょっと風変わりな……儀礼用? 法衣? ──のような服を着ている。当然知り合いじゃないから、名前も素性も分からない。崖の上から落ちてきた、という事しか、俺は彼女について知らない。
 女の子はあっと声をあげ、俺の腹の上から飛び降りた。反動付けて飛び降りるなよ
 打ち付けた後頭部と、女の子に踏み躙られた腹を押さえ、俺はヒィヒィ呻きながら蹲って痛みが引くのを待つ。
 ようやく痛みがマシになって体を起こすと、女の子は目に涙をいっぱいに溜めて、物凄い形相でこっちを睨んでいた。

「あ、あなたの上に落ちてしまった事はお詫びしますけど、あたしが失神してるからと、いきなり不埒な真似を企むだなんてっ! 酷いです!」
 まっすぐ俺を指差し、ぷうっと頬を膨らませて怒りを顕わにしている。
 おい……不埒って何だよ、不埒って。どちらかといえば、暴行されたのは俺なんじゃねぇの? 頭の上からいきなり奇襲されて、下敷きにされて突き飛ばされて膝蹴り食らわされて、挙句は不埒者呼ばわり。うん。やっぱ俺、完璧に被害者じゃん。酷いのはどっちだよ。
「いや、後半あんたの間違いな。俺はあんたみたいなペッタンコのお子様なんか襲う気はこれっぽっちもねぇし、さらさら興味なんかねぇから」
 面倒くさくなってパタパタと手を振ると、彼女は頬を膨らませて俺を再び強く突き飛ばした。俺の後頭部は地面に逆戻り。さっきと全く同じ箇所を正確に、的確に打ち付ける。もう一度繰り返されたら俺の頭、確実に割れる。
「痛ぇなっ! 何しやがるんだよ!」
 がばっと体を起こすと、女の子がまた両手を身構えている。そうそう何度も突き飛ばされてたまるか!
「ひっ……! あ、あなたが酷い事を言うからいけないんですっ!」
 目に涙をめいっぱい溜めて、顔を真っ赤にして、細っこい小さい拳を握り締めて、敵意を剥き出しにしている。
 うー……ん……確かにちょっと言い過ぎたかな。事実なんだけど、もうちょい言い方に気を付けた方が良かったかも。相手は知らない女の子だし。いつもどおり、親父やお袋相手に不平垂れるような言い回しじゃ、そりゃあ相手は怒って当然か。
「悪かったよ。ちょっとキツく言い過ぎた。でもマジであんたを襲った訳でもないし、そんな気もねぇんだから、言い掛かりはよしてくれ」
 無言のまま、俺の言葉の真意を探ろうかという雰囲気でじっとこっちを見ている彼女。
「落っこちてきたあんたを助けてやった事、覚えてねぇの? あんなトコから落ちて、あんたみたいな女の子が無事でいられると思ってんの?」
 俺が崖の上を指差すと、女の子も俺の指先を辿るように視線を上へと向ける。
「そりゃあ俺が無事にあんたを助けてやったとは言えないし、下敷きになっただけだけど、いきなりヒトの頭の上に落っこちてきて、勝手に気絶して起きたと思ったら不審者扱い。あんたも充分酷いと思うけどね」
 俺の説明を受けて黙り込んで思案を巡らせる女の子。チラチラとこっちを見て、指先を口元に当て、小さく頷いた。
「許してあげます」
 女の子は視線を逸らして、ぶっきらぼうに言い放った。
「……あたしも迷惑を掛けてしまったようですし」
「ああ。すげー重かった」
 俺は三度、彼女に力いっぱい突き飛ばされた。今度の打ちどころはさっきとは違うが、それでもぶっとばされて頭を打った事に変わりない。

 一見おとなしそうな風貌なんだが、コロコロとよく表情の変わる女の子だな。すぐ手が出る気の強さも持ち合わせているようだ。小柄だけど俺と同じくらいか、ちょっと下くらいの年代だろうか?
 転勤族っていうか、各地を旅しながら暮らす俺たちだから、俺は特に親しい友達や親戚というものがない。親父もお袋もあんまし昔の事とか話してくれねぇし。
 だから初対面の、しかも女の子と何を話せばいいのかまるで分からない。初対面の相手に気後れするほどの内向的性分じゃねぇけど、話題の引き出しはそんなに多くねぇからなぁ、俺。
 とりあえず──まずは道だ。親父たちの所へ帰らないといけないからな。
「あんたはこの辺り、詳しいのか?」
「……あたしは “あんた” なんて名前じゃありません。メイシンっていうちゃんとした名前があります。あんたなんて呼び方、失礼です」
 ムスッとしかめっ面のまま、彼女は膝の上にぎゅっと拳を作って顔を背けて言う。うわ、面倒くせぇ……扱いづらいなぁ……。
「はいはい、俺が悪かった。じゃあ、えーとメイシンはこの辺りの地理に詳しいのか?」
「……それ、人に何かを尋ねる時の態度じゃありません。初対面の相手を呼び捨てたり、馴れ馴れしい口調も失礼です」
 普段の接し方をすれば嫌煙され、下手に出れば付け上がる。なんかイラッとするヤツだな。だからといって、女の子をぶん殴る訳にもいかないし。
「あー、はいはい。俺はお育ちがよろしくなくて、お嬢様には大変不愉快な思いをさせてしまったようで、ゴメンナサイ」
 思わず皮肉も言いたくなる。
「不愉快です。とても」
 怒りに震える拳を背中に隠し、俺は引き攣った笑みの奥で、ギリギリ歯を食いしばる。女の子は不審者を見るような目で、チラリとこちらに視線を送る。
「あたしは名乗ったんですから、あなたも名乗ったらどうなんですか? それとも名乗れないような後ろ暗い事情でもあるんですか?」
 こいつはどうして、俺をこうまで警戒するのかな? まぁ確かに出会い頭の事故は、お互い不愉快そのもので、でも俺がこいつを助けてやったのは紛うことなき事実だし、こいつだって自分が迷惑を掛けたという自覚はあるらしいけど。
 ぐっと拳を膝の上で握り締め、こっちを見ようともしない。自分の非を認めようともしない仕種が、可愛げねぇにも程がある。いい加減、俺も我慢の限界だった。
 ぐいと片手でメイシンの腕を掴み上げ、もう片方の拳を振り上げる。
 メイシンは小さく悲鳴をあげて身を固くし、嫌々と腕を振り払おうとする。
 やっぱり口先だけで強がってただけか。可愛げのない奴。まぁ何て言うか、「きゃーごめんなさーい」とか詫びくらい言えないもんかね? 言われたら言われたで、そういう口調はまたムカつくのかもしれねぇけど。
 俺はメイシンの腕を離し、隣に胡座を掻いて腰を下ろし、頬杖をついて嘆息した。
「カイリュー。俺の名前。親父とお袋と三人で、あっちこっち旅してる。今、俺は絶賛迷子中。これで満足か?」
 メイシンの纏っていた警戒心の壁が薄れる。不思議そうに俺を見つめる瞳は、やっぱり俺とよく似た金褐色だ。
「で、ちょっとゴタゴタに巻き込まれて、でっかい異形に追っかけられて、そんで足滑らせてここに落ちて途方に暮れてたトコ。親父たちはリアンの町にいるはずなんだ。あんた……じゃなくてメイシン。この辺りの地理が分かるなら、この崖下から出る道、教えてほしいんだけど?」
 親父の仕事をバラすのはマズいよな。リアンは古い町だから、前衛的すぎる親父の会社は、どっちかって云うと関わり合いになりたくない方へ、大きく天秤が傾くだろうから。一人でこの辺りをうろちょろしてんだから、メイシンもきっとリアンの町の住人なんだろう。
「……あたしをぶたないんですか?」
「ばーか。本気で女なんか殴るかよ。喧嘩売るなら、もっと強そうなの選ぶぜ」
 俺が答えると、メイシンはほっと胸を撫で下ろした。警戒心は解けたらしい。
「あなた、迷子さんなんですね」
「土地勘ねぇんだ。仕方ないじゃん」
 メイシンは背筋を伸ばしてキョロキョロと周囲を見回す。そしてコクリと頷いた。
「そうですね……あたしも帰らなくちゃいけませんから、カイリューさんを案内してあげます。前にも一度落ちた場所なので、多分分かると思います」
 ま、前にも落ちたって……。俺みたいな運動神経だけが取り柄の男でもあるまいし、普通の女の子がこんな所に落ちたら怪我するだろ? こいつ、見た目に反して意外と強かったりするのだろうか?

 メイシンは立ち上がって、体の後ろ側を覆う巻きスカートの裾を払って砂を落とす。そして自分の背後を指差した。
「あちらですよ。着いてきてください」
 俺は立ち上がろうとし、ふいに右足首に激痛を感じて蹲った。
「……どうかしたんですか?」
 ははぁ、右足、ね。鵺の蛇頭に噛まれた方だ。噛まれてすぐにお袋が消毒してくれたし、一晩経過してるんだ。今更毒牙廻ったって事はないだろう。僅かに帯びた熱と腫れ。おそらくメイシンの下敷きになった時に挫いたとしか考えられない。
 俺が足首を抑えて蹲っていたためか、メイシンが困惑した表情で傍へやってくる。
「あの……それはあたしのせい……ですか?」
「それも多少あるかもしれねぇけど、もともとちょっと怪我してたからな」
 しかし困ったな。歩けないんじゃ、帰るどころかここから出る事もできない。
 メイシンは今にも泣き出しそうな表情になって、周囲に助けを求めるかのように、おろおろウロウロ。こんな辺鄙な所、誰も通りゃしねぇよ。
 仕方ねぇな。片足引きずってでも、どうにかなるだろ。時間はかかるかもしれねぇけど。
 俺が右足を庇って立ち上がろうとすると、メイシンが意を決したように、俺の腕を取って自分の肩に回した。
「は? 何してんの?」
「あ、あたしに掴まってください。えと……リアンの町ではないですけど、すぐ近くにあたしが住んでいる神殿があります。治療させてください」
 責任を感じての言動だろうが、女の子に肩借りるほどじゃないし、第一こんなの、照れ臭いじゃん。
「女の子の肩なんか借りれっかよ。大丈夫だって、これくらい」
「ダメです! あたしのせいだもの。お願い、ちゃんと治療させてください」
 真摯な目で俺を見上げてくるメイシン。強がった態度と居丈高な口調がムカつく女の子だと思ってたけど、責任感の強い優しい子だったんだな。
 ん? だけどメイシンの奴……神殿とか言わなかったか? いくらお嬢様だからって、自分ちを神殿とか言うか?
「ここから出る道さえ教えてくれりゃいいよ。親父やお袋と早く合流しねぇと」
「でも歩けないんですよね? 痛いんですよね? それはあたしのせいだもの。あたしはあなたを治療する義務があります」
 ええと……なんかすっげー頑固だな。
 確かにメイシンの言う通り、この足引きずってまた鵺にでも出くわしたら、今度こそ逃げ切れねぇよな。おとなしくメイシンのトコに行って、冷やすか薬もらうかして、治療した方が賢明かもしれない。
「……わかった。ちょっとだけ邪魔するよ」
「うん! こっちよ!」
 メイシンがぱぁっと明るく笑う。俺は苦笑しながら、メイシンの肩に軽く手を掛け、右足を引きずりながら、彼女と共に崖の下を抜け出した。