砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


     4

 シーアが自分の皿の料理を毒見し、そして安全だと分かれば、給仕の者の目を盗んでカルザスの皿と取り替える。
 給仕の者に手許を見せぬようにしておるが、先ほどからシーアの背後にやたらと従業員たちが集まっている。もしや気付かれたか?
 カルザスが何食わぬ顔でシーアに目をやると、シーアは微笑を浮かべながらも、微かに手を震わせていた。よく見れば口許も引き攣っておる。
 手の震え……平気だとは言っておったが、やはり弛緩剤が効いておるのではないか?
「シーアさん手が……大丈夫ですか……?」
 小声で問いかける。
「だ、大丈夫。私、ちょっと耳がいいだけだから……」
 口許に手をやり、横目で従業員の一人を見る。カルザスもそちらへと目を向けると、従業員の一人がシーアを盗み見ながら別の者と含み笑いをしておる。仕事中に客を盗み見て含み笑いとは、いい趣味をしておるな、あの者。
「はぁ……あの人がどうかしたんですか?」
「……えっと……その……私、どうやら彼の好みみたい」
「……はぁ……ええと……そういう事ですか?」
「そういう事よ」
 そうか。すっかり馴染んでしまっておったが、シーアは女を装っているのだった。うむ……どうもこやつは扱い難い。男でありながら、女なのだからな。
 カルザスが苦笑すると、その男がテーブルへとやってきた。そしてしきりにワインを薦めてくる。
 カルザスと同じウラウローの民特有の容姿に、少々あっさりめの顔立ちをしている。こういったどこにでもいそうな者が、裏では料理に薬物を混入させて何かを企んでいようとはな。
 いままで安穏としておったが、裏の世界を知った上で改めて世の中を見渡してみると、なんとも全てが疑わしく思えてならん。むろん避けられる危険は避けるに越した事はないが、何もかもを疑ってかかるのも疲れてかなわんな。
「いえ、結構です。私、お酒があまり強くないから」
「これは女性に人気のある軽い飲み口ですし、有名な銘柄ですから」
 シーアに取り入りたいのか、しつこくボトルのラベルを指し示して薀蓄《うんちく》を垂れ流しておる。どさくさに紛れ、シーアの肩や腕に触れているが、シーアは控えめに避けるだけだ。ベイの時のように暴れ出すかと思っていたのだが、さすがに今は波風立てたくない様子だな。
「すみません。連れの嫌がる行為は遠慮していただけませんか?」
 あまりのしつこさにカルザスが助け船を出すと、給仕の男は露骨な嫉妬の眼差しでカルザスを睨み付ける。まったく……つまらん男の嫉妬はみっともないな。

 その時だった。
 シーアの背後にある衝立の向こうで悲鳴があがる。とっさに衝立を押し退けて、向こうのテーブルを覗き見るシーア。
 騒ぎの中心は善良そうな家族連れだった。床でもがき苦しんでいるのは幼い少女だ。傍にはよく似た顔立ちの少女がオロオロしている。どうやら双子らしい。
「ルク!」
 母親らしき女が半狂乱になって叫び、父親らしき男が苦しむ少女を抱き上げている。少女の顔色は土色になり、息を詰まらせて体を痙攣させている。
「子供がいたのっ?」
 シーアが息を飲み、苦しむ少女に駆け寄る。そして父親の手から少女を引き剥がし、うつ伏せにして強く背を叩いた。
「子供は体が小さいから巡りが早いの! すぐに食べた物を吐かせて!」
 父親が慌てて少女の口を抉じ開け、喉に指を押し込む。
 室内は大混乱に陥った。少女の母親はパニックを起こして泣き叫び、別にいた商人風の男は給仕の者を責め立てている。
 だが給仕の連中は誰一人、動こうとしないのだ。むしろ、その様子が当たり前であるかのように、冷徹な目で客たちを見下ろしている。先ほどまでしつこくシーアに絡んでいた者も同様にだ。
 そうか。小人数の客を幾つかの部屋に分けて食事をさせていたのは、早く食事をした者から異変が起こっている事を、別の客に悟られぬようにするためか。
「死ぬべきじゃない! あなたは死ぬべきじゃないのよ!」
 少女が咳き込みながら飲み込んでいたものを吐き出すと、すうっと顔色がよくなった。呼吸は辛そうだが、どうやら食物を喉に詰まらせていただけのようだ。しかし手足の震えを見る限り、やはり多少は弛緩剤も効いておると推測できる。
 シーアは先ほど自分に言い寄っていた男を見据え、少女を父親に託して立ち上がる。
「……今すぐ毒の入っていない水を持ってきなさい」
 少女の父親や他の客たちにも聞こえる、よく通る声ではっきりと告げる。
 シーアの言葉に、給仕の者たちの顔色が変わった。当たり前だろう。一般の者には決して分からんと毒だと、連中はそう聞いていたはずだからな。それを言い当てる者が現れるなど、考えもしていなかったのだろう。
「水に毒……?」
「食物に毒が?」
 客たちの間にどよめきが起こる。双子の少女に、その両親。商人風の男が二人に、カルザスたち二人。給仕の者も合わせれば、十一名が室内にいる事になる。
「聞こえなかったの?」
 シーアが促すと、給仕の者たちは一箇所に集まり、何かを耳打ちしておる。
「あなたたちに指図した者を出しなさい!」
 シーアが凄みながら叫ぶと、給仕の者の一人が慌てて厨房へと駆け込んでゆく。カルザスはシーアの傍へと寄り、袖を引いた。
「あまり事を荒立てない方が……」
「子供に手を出すなんて許せない」
 暗殺者としてではない、シーア本来の怒りを感じる。見知らぬ子供に対し、本気で同情しておるとでも言うのか?
 カルザスが言葉を詰まらせていると、背後でどさりと重いものが床に落ちる音がした。商人風の男が倒れ、体を痙攣させている。それに続くように、少女の父親が膝を折る。
「な、何なのっ?」
 先ほどの少女の母親が、双子を庇うように抱いて、怯えた様子で周囲を見回す。
「弛緩剤がそろそろ効いてきただけよ。体質によって、薬の効き目の速さが違うだけ。あなたはたまたま毒を口にしなかったようね」
 母親は子供たちの世話でまだ料理を口にしていなかったのか、倒れる素振りはない。父親も、商人風の男ほどは弛緩剤を口にしていなかったらしい。症状が比較的軽そうだ。
「時間が経てば治りますから、大丈夫ですよ」
 極力落ちついた声音でカルザスが母親に声を掛ける。
「随分薬物に詳しい方がいるようですね。一般向けに販売されている薬ではないのですが」
 カルザスの言葉を遮り、給仕の者たちの間から割って出て来たのは小太りの男だった。どうやらこの男がこの店のオーナーらしい。
 オーナーの顔を見たシーアは、すっと目を細める。
「……人買いハドム」
 シーアの言葉に、室内の空気が一瞬にして凍りついたのがはっきりと分かった。
「人買い……ですか?」
 シーアがハドムと呼んだ男を、カルザスは凝視する。
「直接会うのは初めてね。でも私はあなたの顔を知っていたわ」
 人買い。言葉の通り、人間そのものを“商品”として売り買いする、これも裏の職業だ。商品として売られるのはもっぱらスラムの貧民くらいだと思っていたが、この男はそうではないようだ。
 弛緩剤で動きを封じ、その間に捕らえた客を商品として売り飛ばしていたのか。やはりこの宿も、闇の世界に通じる店だったという訳だ。裏稼業は裏稼業でも、目的とする系統が違うのだから、シーアが知らんのも必然という訳か。
「女、どうして俺の名を……」
 店のオーナー、いや、ハドムが訝しげにシーアを見る。同時に給仕の者たちがカルザスとシーアを囲っていた。当然だが、ただでは帰してもらえんという事だな。
 何も知らぬ一般の者もいるこの狭い室内で乱闘にでもなろうものなら、間違いなく被害は広がるだろう。その上、シーアが本気を出さざるを得なくなってしまえば、奴が只者ではないという事実が露呈する。
 ハドムが人買いだと知っているというだけで、すでにシーアは少女の母親から不審な目で見られておるのだ。
 ──カルザス、シーアを連れてこの場から逃げろ。
「難しい事を簡単に言わないでください」
 完全に包囲されているこの人の壁を抜けるのは厄介だな。いや、無傷で突破できるとは思えん。
「全員逃がすな!」
 ハドムが叫ぶと同時に、給仕の者たちが善良という仮面を脱ぎ捨てた。

 シーアは襲いかかる男の腹部に鋭く膝を叩き込み、体をくの字に曲げたその背を踏み台に宙に舞う。天井付近を斜めに渡された梁に片腕でぶら下がり、反動をつけてハドムの正面に着地する。さすが身の軽いシーアなだけはある。
 シーアのその行動は、敵の中枢であるハドムに接近するという点では間違いではない。だが今あるこの状況を考えれば、決して正しくはないのだ。
 詩人にそのような真似ができるはずがないではないか。自ら正体を明かすような真似をしおって!
「ダメですよ!」
 暗殺者に戻ってはならない。そういった意味をこめてカルザスが叫ぶ。料理用ナイフなのか、装飾のあるナイフを掲げて切り掛かってきた男を、カルザスは小剣を抜いて振り払う。
「殺してやりたいけど、しない!」
 詩人でもあるシーアの声は、この喧騒の中でもよく通る。
 シーアはまだ“シーア”としての自我を失ってはいない。だがそれを失った瞬間、奴は白き悪魔と変貌する。そうさせてはいかん!
 こちらは心許ない小剣だけが頼り、しかもベイでシーアによって傷付けられた傷はまだ痛むという不利な状況だが、従業員たちもまともな武器を持っておらんという事が不幸中の幸いか。奴らが戦闘用の刃物や武器を持っておれば、カルザスの劣勢は決定的だといっても良かっただろう。
 元々腕力だけはあるカルザスだ。強引に相手を押し退け、壁に叩きつけて身を翻す。
 数では劣っているが、トドメは刺せなくとも、退けるだけならばどうにかなるはず。所詮こやつらは意識を失った客を運ぶだけの運搬要員なのだろう。動きを見ておれば、戦闘訓練をまともに受けている者はおらんという事実は、俺でも容易に認識できる。
 少しずつでもシーアに近付こうと奮闘しておった時だ。おぞましい悲鳴に、人買いの仲間たちの動きが止まり、被害者である客たちが凍り付く。
「……殺しはしない。でも……許しはしない」
 顔を押さえたハドムが、獣染みた絶叫を撒き散らし、転げ回っているのだ。指の隙間からは夥しいまでの大量の血が噴き出している。
 カルザスを襲っていた者たちはハドムの敗北にたじろいだのか、カルザスからも客からも逃げるように後退して、ハドムの背後に固まる。
「シーアさん、何を……」
 シーアが床へ投げ捨てたものは赤黒い色をした小さな塊だ。それはハドムの眼球だった。シーアは奴の眼球を指で抉り出したのだ。
 残った左目でシーアを見上げるハドム。そして息を飲む。
「あ……う、あ……お、お許しを……あなた、が……いらっしゃっているとは露ほども存知……」
 鮮血を滴らせながら、ハドムが膝をついてシーアに許しを請う。豹変した態度や言葉から察するに、どうやらシーアの正体に気付いたらしい。
「どうか、お許しくださ……ィリ様……」
 ハドムの言葉を遮るようにシーアが動く、そして奴の喉を掴み、首を締めるように指先に力を込めている。
「もう二度と人買いができないようにしてやる!」
 そう叫び、シーアは蹴り倒したハドムの手に容赦なく踵を落とし、指の骨を粉砕する。再び店内に響くハドムの悲鳴。そしてシーアを恐怖の対象として見る、怯えきった被害者たちの眼差し。
 ──やめ……やめさせろ! シーアをやめさせろ! これ以上させてはならん!
「やりすぎです! 後は自警団か役人に任せた方がいいです!」
 カルザスはシーアに駆け寄り、その体を羽交い締めにする。シーアはカルザスを振り解こうともがく。
「子供に手を出すなんて許せない! 許せ……ない……」
 両目を潤ませ、シーアは唇を噛む。抵抗をやめてカルザスに体を預け、奴はそのまま項垂れる。
 赤の他人であるあの少女に対し、これほどまで怒りを露にするとは。他者の命を奪う事を生業《なりわい》としておった暗殺者が、見知らぬ子供を危機に晒した者をここまで憎悪するとは、予想だにしなかった事だ。
 だがこれが本来のシーアの姿なのかもしれん。他者を思いやる心を持った優しき詩人。
 シーアと初めて会った時、シーアは見知らぬ商隊の死を嘆き、憐れんでおった。その中には子供もおった。そして今回も、自分とは何の所縁《ゆかり》もない少女に毒を盛ったハドムに怒りを爆発させておる。
 以前シーアが口にした言葉、生きるべき者とそうでない者というその基準に、シーアの過去の何か、特に子供に関する何かが関係していると見て間違いはなかろう。昏倒した少女に対し、「死ぬべきではない」と口にしたのだからな。
 カルザスはそれに気付いておるのだろうか?
「もう充分です、シーアさん」
「……まだ、足りない。こんなのじゃ、足りない。あの子はもっと苦しんだはず。もっと怖かったはず。でもこれ以上は……これ以上は、あの子が怯える。だから……終わりにしてやる……」
 シーアは逃げ腰の人買いどもを前髪の奥からキッと睨む。そしてカルザスの拘束を解かれてから、くいと顎で、倒れている商人風の男を指した。
「お前らを捕まえるべき者が来るまで、手を出した客は手厚く看病しろ。できない者はああなる。分かっているな? おれは全て見ているからな」
 シーアの視線の先には、血に塗れて蹲るハドムがいる。人買いどもはシーアの視線に怯えきり、萎縮し、うわ言のように「申し訳ございません」と繰り返している。
 その脅しが効いたのか、奴らがシーアの目に怯えながら動き出す。奇妙だとは思うが、急病人に対して誠意を尽くすという、宿としての本来の姿を取り戻したように感じられた。
 シーアは無言のまま、個室を出て行こうと歩き出す。すると少女の母親が逃げるように道を空けたのだ。
 案の定、シーアが只者ではないと察したのだろう。さすがに元暗殺者だとは思わんだろうが、ハドムがシーアに対し、媚びへつらう姿を目撃している。もはやどんな言い逃れも通用せん。
「……もうゆっくり休めるよ、カルザスさん」
 自虐的な笑みを浮かべ、シーアがカルザスの肩を叩く。そして個室のドアを開けようとした時だ。
「ルキ!」
 あの双子の少女の母親が声をあげる。カルザスがそちらへと顔を向けると、弛緩剤の効果が表れなかった双子の片割れの少女が、シーアの白いローブの裾を掴んでじっと見上げておったのだ。
「……おねえちゃん、ルクをたすけてくれてありがとう」
 少女がにこりと笑い、シーアに礼を述べたのだ。
 驚いたな。誰もがシーアを恐れて近付かんというのに、この少女だけは素直に姉妹を助けた事実に対して礼を告げられるとは。いや、純粋な子供だからこそ、できる真似だな。
 シーアはきょとんと少女を見下ろしていたが、ふっと破顔し、膝をついて少女の目線になる。そして血を浴びていない方の手で少女の髪を撫でる。
「……怖がらせてごめんね。もう、怖い事は起こらないから」
「うん。あのね、ルキね、ルクがおきたら、おねえちゃんがたすけてくれたのって、おはなししてあげるね」
「ありがとう。ルクちゃんはすぐに元気になるからね」
「ほんとう? ルキ、はやくルクとおはなししたいの」
 少女の言葉にシーアは優しげな笑みを浮かべて頷き、立ち上がった。そのまま無言で個室を出て階段を上がる。少女はシーアが見えなくなるまで手を振っていた。
 この少女が純粋な気持ちから行った行為を、あの母親や父親はどういう気持ちで見ておったのだろう? 少なくとも凶悪で不審な女に無防備に近付く娘が、ハドムのように非情に傷付けられると思ったに違いない。そして恐らく……両親はあの少女を叱りつけるのだろう。あのような者に近付いてはならんと。
 願わくは……たとえ叱られたとしても、あの少女だけはシーアの味方でいてやってもらいたいものだ。
 すぐさま奴を追うカルザス。階段を登るシーアの表情は自然と和らいでいた。
「良かったですね、シーアさん。ルキちゃんがありがとうって。ルクちゃんを助けて良かったですね」
「……うん」
 カルザスに微笑みかけ、シーアは頷く。ルキというあの少女のお陰で、シーアの心は僅かながらも救われたのだろう。あの少女に感謝せねばなるまいな。
 シーアの部屋の前に着いたカルザスは、思い出したように手を打つ。
「そういえばシーアさんて、子供好きなんですね。ルクちゃんが倒れた時、真っ先に飛んでいきましたし。ちょっと意外でした」
 シーアは小首を傾げ、不思議そうな顔で口を開く。
「……そんなに意外かな? 昔から子供は結構好きだったよ。おれもシーアも、お互い孤児だったせいかな……あいつの所のチビたちの相手をするのは嫌いじゃなかったし、面倒見てやるのもそう苦にならなかったし」
 男の言葉遣いに戻っているが、本人は気付いていないようだ。しかも妙な事を口走ったな。「おれもシーアも」とはどういう事だ? シーアという名の者が二人おるのか?
 カルザスもシーアの言葉の違和に気付いたのだろう。思わず黙り込んでしまっておる。シーア自身はそれに気付いておらんせいか、不思議そうに首を傾げている。
 上手く誘導すれば、何か聞き出せるかもしれん。分かっておるな、カルザス?
「おれってそんなに子供の相手、ダメそうに見える?」
「あ、いえ。そうじゃなくてシーアさん……今、『おれもシーアも』と仰ったので、もしかしてシーアさんという別のお知り合いが……」
 莫迦者! 思った事をストレートにぶつけてどうするのだ!
 不用意に口を滑らせてしまった事に気付いたシーアは表情を険しくし、堅く口を噤んで部屋に駆け込む。ドアが閉じられると同時に錠を落とす音が廊下へと響いた。
「あ、すみません……つい……」
 ──莫迦者めが。
 カルザスは苦笑しながら頭を掻く。
「でもちょっとだけ、分かった事もありますから」
 カルザスは自室へと戻り、錠を落としてベッドへと腰を下ろす。
「シーアさんという名前のお知り合いがいたのは間違いないようです」
 ──そのようだな。しかも随分と親しげな間柄のようだった。
 カルザスは頷き、肩や腕を擦って体をほぐす。
「やっぱりシーアさんには、シーア・ティリというお名前とは別の本名があるようです」
 ──根拠はあるのか?
「はい。ハドムさんはシーアさんのもう一つの姿を知っていました。だからあの時、シーアさんの本名を敬称まで付けて呼ぼうとしたのを、シーアさんが妨害しました。妨害されちゃったんで、ちゃんとは聞き取れなかったんですけどね」
 よくあの状況で、ハドムの呻き声から、そんな情報を聞き取ったものだ。シーア程の聴力はないはずなのに、こういった類の事に関しては恐ろしく地獄耳だな、カルザスは。
「ちょっとばかり、ご機嫌を損ねちゃいましたからね。明日ちゃんと謝りましょう」
 カルザスは体を起こし、小剣を枕の下へと忍ばせる。もう奴らはこちらに手出ししてこないだろうが、これは傭兵としての習慣だからな。
「いろいろ気になる事もありますけど、さすがにちょっと疲れました。他の方より体力はあると思ってたんですけど、やっぱり今日は休ませてくださいね」
 ──ああ。そうするがいい。
 カルザスは灯りを消し、ベッドへと潜り込むなり、深い眠りへと落ちた。よほど疲れておったらしい。
 同じ体を共有しておるとはいえ、俺に体の疲労を感じる事はできんからな。体の好調不調に関してはカルザスの自己判断に委ねるしかない。
 シーアか……全く謎の多い奴だ。奴の謎を全て解明できる日はくるのだろうか?

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