砂の棺 白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。 傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。 この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、 彼らは運命に翻弄されゆく。 |
4 灯りは窓から差し込む弓型の月の弱々しい光だけだ。しかも雲がその姿を隠し、室内は暗く、すぐ目の前にいる者の姿すら輪郭だけしか見えない。 僅かな光で認識できたのは、細い銀色の糸。いや、銀色の髪だ。 「……っか……は……」 アイセル! アイセルなのだな? アイセルをテティスは再び……っ! 「ア……イセル……」 俺が憑依している者、テティスが搾り出すように奴の名を呼ぶ。 細い首を折ろうとでもいうのか、懇親の力を込めるテティス。指が食い込み、ごく僅かな気道から洩れるか細い呼吸、喘ぎ。 「死、ね……アイセ……ル……」 その手を振り解こうと、アイセルがテティスの腕を掴む。白く細い指。女の手のような、そんな印象の手。 「アイセル……ッ!」 暗闇に、どこかで聞いた事のある硝子の音が響いた。しゃらんと、涼しげな微かな音。 「アイ……ーア……シーアさんっ!」 シーアだとっ? 突如、テティスが弾かれたように白い首から手を離した。その者はテティスの体を全力で押し退けて床を這って身を捩り、激しく咳き込んで空気を貪る。 雲が流れ、月明かりが室内に差し込み、輪郭だけだった者の姿を照らした。 苦しげに両肩を大きく上下させて蹲っているのはアイセルではなく、シーアだった。指の跡がくっきりと浮かんだ喉を押さえ、シーアは怯えと驚愕に歪んだ顔を上げる。 酷く乱れた呼吸はシーアだけではない。俺……いや、カルザスもだ。 強い怯え。そして不審。シーアの紫色の瞳は、真実を受け入れられない、ガクガクと揺さぶられた混乱の心情をありありと物語っておる。 「……どうして……?」 擦れた声音でシーアは問い掛けてくる。 「あ……ああ……」 震える両手を見つめたまま、カルザスは身震いする。 両腕を擦りながら、シーアが小さく首を振り、感情のない声で言い放つ。 「おれを……殺す……の?」 「ち、違います……っ!」 「寄るな!」 弁解しようとしたカルザスを、シーアは強く拒絶した。カルザスはその覇気に怯んで立ち竦む。 「近寄るな……おれに近寄るな……」 震える声で拒絶しながら、シーアはじりじりとカルザスから離れる。 「僕はっ……あなたを殺すつもりなんて全くないです。何かの間違いです、これは!」 「間違いで……首を絞めるのか? あんたの目には……殺意があった。本気でおれを殺そうとしていた。あんたは……暗殺者だったおれが絶対に見間違えるはずのない目で……おれを見下ろしてた」 シーアは片手で口元を押さえ、声を押し殺すように呻く。そして首を振った。 あのカルザスがシーアの首を締め、その命を断とうとしていたのか? そんな莫迦な! 俺は夢の続きだと思っていた。テティスがアイセルを殺害しようとした、あの夢だと思っていたのだ。だが実際に首を絞め、相手を殺そうとしていたのは、カルザスとシーアだった。 ――カルザス! 貴様一体何を! 「僕にだって分かりませんよ! 気が付いたら、シーアさんを押さえ込んでいたんです。ダメですって……ダメなんだって、必死に止めて……でも……でも、僕はシーアさんを……アイセルを殺し……」 ――アイセルだと? なぜカルザスの口からアイセルの名が出てくるのだ! 「ごちゃごちゃうるさいよ、カルザスさん……」 大粒の涙を浮かべ、しゃくりあげながら、シーアが壁に背をつけて立ち上がる。信じていいたものに裏切られたという絶望が、シーアの心を支配し始める。力無く笑い、シーアは体を僅かに震わせたままカルザスを……責めた。 「……手の……込んだ芝居だよな。神父の助言、この事か。おれとシーアに所縁のある奴はみんな……カルザスさんもあいつらの手の内にあるって……そのつもりでおれに近づいたんだろ? たっぷりと時間掛けて……おれを油断させて……土壇場になって裏切るって寸法か……まんまと引っ掛かったよ、おれ」 「違います! 僕は決してあなたを裏切りなんてしませんよ!」 シーアが後ろ手に窓枠に触れる。 「……信じて……たのにさ……あんたを。本気で……」 頬を濡らしながら何もかも諦めたような笑みを浮かべ、シーアはそのまま窓から身を躍らせた。 「シーアさん!」 悲鳴にも似たカルザスの絶叫。 誰もが寝静まる深夜。風に舞うかのように軽やかに大地を走るシーアの白い後姿が見えた。建物の隙間を縫い、その姿は消える。今から追って、あやつに追いつけるのだろうか? 周囲は薄汚れた廃屋。スラムでよく見掛けるものだ。 そうか……教会の火事から逃げ出し、人が集まってきたため、ラクアを出るに出られず、スラムの一角にあるこの廃屋に一旦身を隠しておったのだな。 「どうしてっ……こんな事に……っ!」 口元を押さえ、カルザスは呻く。奴は酷く混乱し、絶望にも似た激情に流されようとしておる事が、俺にもはっきりと伝わってくる。 「探さなくては……シーアさんを探さなくては……」 壁に手を添え、震える膝で立ち上がる。 ――カルザス、貴様なぜシーアを? 「分かりません。分からないんです」 周囲に暗殺者たちの気配がないか充分に探りながら、行方を眩ませたシーアの後を追う。 「日のある内は行動を控えた方がいいかと、裏を掻いたつもりであの場所に身を潜めたんです。夜を待つまで交代で休んでいて……僕、多分いつの間にか、寝てしまったんです。そして気付いたら、シーアさんの首を……」 ――俺とお前の付き合いは長い。俺はお前の思考や行動をそれなりに理解していると思っていた。 「はい……」 ――お前はシーアの保護者を気取りながら、俺も気付かぬような心の奥底で奴を憎んでいたのではないか? 暗殺者の頭目代行としての奴をな。暗殺者は生かしておけんと、心のどこかで思っておったのではあるまいか? 「そんな事は絶対に有り得ません!」 カルザスが声を荒げ、慌てて口を押さえる。周囲を見回したが、幸い人の気配はない。 「僕はシーアさんの事、本当に心配しています。あの方を憎むなんて、絶対有り得ない事です」 ――言い切ってはおるが、人の心というものは、自分では完全には理解できぬものだぞ? たとえそれが、自身の心であったとしてもな。 カルザスが強く唇を噛む。そして首を左右に振った。 「……失うものか……今度こそ、絶対に失うものか……必ず差し出されたあいつの手を掴むんだ……」 手を……掴む? これはカルザスの声なのだ。だがその口調は本来のカルザスのものではない。他者を呼ぶ時、間違ってもカルザスはあいつ、などとは口にしない。 カルザスは剣の柄に手を掛け、強く頷いた。いや……俺の勘違いか? 今、俺が憑依しているのは、間違いなくカルザスだ。他の誰でもない。 「すぐには許していただけないでしょうけれど、ちゃんと話し合ってみます」 ――あ、ああ。行くがいい。 「おそらく、北に向かったのだと思います。あの方は他に行く場所がないですからね。追いましょう」 そうだな。こういった状況になったとはいえ、セムとの約束はきっと果たそうとしておるだろう。奴にはもう、それしか縋るものが残されておらんのだから。 それにカルザスの言うように、このウラウローには、もはやシーアの戻るべき場所はない。あやつは翼を傷めた鳥だが、羽ばたく翼を休める枝など、もうこの地のどこにも存在しないのだ。 ――必ず見つけろ。 「もちろんです」 シーアを見つけ、そして今度こそ……。 「今度こそ……終わらせる」 弓型の月を見上げ、カルザスはラクアの町を後にした。 |
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