砂の棺

白い砂と高い岩山に囲まれた国ウラウロー。
傭兵を生業とする青年カルザスは、ある日、謎めいた美麗な詩人シーアと出会う。
この出会いをきっかけに、ウラウロー全土を巻き込んだ過去から連なる歴史と謎が紐解かれ、
彼らは運命に翻弄されゆく。


     2

 完全に日が暮れるまであの少女との思い出に浸りたいのだろう。先に戻っていてくれと言うシーアを教会に残し、カルザスは一人で間もなく日が完全に落ちてしまうスラムを歩いていた。
 昼間も人気の無さを感じていたが、夜が近付くにつれ、人通りは更に閑散となってきた。圧倒的な静寂に、呼吸のたびに漏れる僅かな吐息ですら潜めなくてはならないような錯覚に捉われる。
「やり切れないですよねぇ……」
 カルザスが小声でぽつりと言う。俺に話し掛けてきたのか?
「最愛の女性が惨殺されて、同時にまだ生まれてもいなかったお子さんを失って、シーアさんには暗殺……いえ、望んでもいなかった頭目代行さんになるという道しか残らなかったなんて、辛いですよ」
 人が少ないとはいえ、他者の耳はあるのだ。カルザスはあえて“暗殺者”という言葉を濁す。
「形としては、先代頭目さんの望む通りのシーアさんになっちゃってるんです。皮肉ですよね……」
 ──人を殺めるためだけに生まれてきた、先代頭目の操り人形……そうだな。それはあいつも理解しておる。
 カルザスは頷き、溜め息を吐く。
 ──分かっておるがゆえ、操られた自分を拒絶しようと、まるで別人格であるかのように豹変してしまうのだろう。暗殺者としてのシーア、詩人としてのシーアという、互いを拒絶し合い、相反する二つの人格にな……。
「……僕の力で……助けられるでしょうか」
 ──シーアがようやく心を開き始めたお前ができねば、誰にもできぬのだ。弱音を吐くなど、お前らしくないな。
 そうなのだ。カルザスしか奴に手を差し延べてやれんのだ。奴に対し、差し延べてやれる手は俺にはなく、他の者で詳しい事情を知る者などおらんだろう。あの教会の神父ですら、シーアの正体を知らんのだ。今この世で、全ての事情を知る者はカルザスただ一人。いや。俺も含めるならば、二人だけがシーアの味方なのだ。
「僕を過大評価しないでください。シーアさんが心を閉ざす事になった原因、僕の想像なんて遥かに凌駕してました。僕はてっきり、先代頭目さんに乱暴されて、それが嫌で手を汚してしまった自分を責めているのだと思ってたんですよ。まさか奥さんとなる人と子供さんを、あんな惨い形で失っているなんて、こんなの予想もしてなかったですよ」
 まったくだ。俺もセムは雪の降る国にいるものとばかり思っていたのだからな。
「シーアさんはきっと今まで通りに振る舞ってくださると思います。でも……僕がそんなシーアさんにどう接したらいいのか……」
 ──今まで通りでよいではないか。奴もそれを望んでおるだろう。
「事実をあの方の口から直接聞いてしまったんです。難しいですよ……今まで通り接するだなんて……」
 カルザスが完全に地平の向こうへ落ちた日を見つめると、スラムには似つかわしくない風貌の女が視界の隅に引っかかった。
 身に付けているものは小綺麗なのだが、周囲を嫌悪する様子も迷う様子もなくスラムを歩いておるのだ。
 スラムは大抵の者には避けられる区域だ。昼夜問わず、治安が決して良いとは限らんし、薄汚れた風景は、空気まで淀んで見える。好き好んで夜間のスラムを歩こうなどという痴《し》れ者はそうそうおらん。
 しかし、その女は対して周囲を気にするでもなく、薄汚れた石造りの建物の前に立ち、ドアへと手を掛けた。
「あの、すみません」
 気になったのか、カルザスが女を呼び止める。女は不思議そうに首を傾げ、カルザスを見上げた。
「夕暮れに女性が一人でスラムを歩くのは危険だと思うのですけれど……」
 スラムに世間一般のルールは通用せん。日が暮れれば町のごろつき共が集まり、強盗を働く者や力ずくで弱者を乱暴する者などが出没する。夜間のスラムを支配するのは力のみなのだ。
「そう言われても、ここがあたしの家だからね」
「そうなんですか? あなたの雰囲気がこの辺りの方とは少し違うようだったんで、てっきり迷い込んだ方かと」
 女は明るく笑う。笑顔になると、途端に子供染みた愛嬌のある顔立ちになるのだな。
「あたしは特別。スラムで一番の金持ちだからね、この孤児院は」
 孤児院だと? まさか……。
 俺が怪訝に思うのと同じように、カルザスも言葉を詰まらせる。
「貧乏が当たり前ってイメージの孤児院が何でって顔してるね、お兄さん」
 にこにこと微笑み、女が品定めするかのような視線をカルザスに向ける。どうやらカルザスが黙り込んでしまった事を、別の意図があると勘違いしているらしい。
「口が固いなら教えてあげてもいいよ。あたしはニュートっていうんだ」
 口が固いなら? 妙な事を言う女だ。孤児院に何か秘密でもあるのだろうか。
「僕は傭兵ですから、言うなと言われれば、秘密や約束事は守れますよ」
 カルザスは人懐っこい笑みを浮かべ、ニュートの誘いに乗った。さてはカルザス、ここがシーア・セムが拾われ、育った孤児院だと予想したな。実は俺もなのだ。
 俺の見た夢では、セムは決して楽な暮らしをしていなかったはずだ。窶れきった体であったし、纏っているものはこの女のように小綺麗ではなかった。そしてシーアと同じくセムも孤児であったと聞いていたゆえ、必然的に考えても、あの少女は孤児院にいたと仮定してよいだろう。
 一つの町に幾つも、それもスラムに二つも三つも孤児院があるとは考えられん。ならばここがセムの育った孤児院だと考えてもおかしくはない。
 ウラウローにある孤児院は、基本的には町の権力者、あるいは裕福な商人たちの融資によって成り立っている。しかし所詮はその日を暮らせるかどうかという、非情に厳しい財政状況の下にあるものだ。
 そういった貧しい孤児院の収入源が、たった数年で増額されるはずはあるまい。何か秘密があるはずだ。
 他の建物より比較的マシな造りにはなっているが、やはりスラムにある建物だ。外見と同じく内装も簡素で飾り気がない。
「今日は大先生は留守なんだ。だからあたしと子供たちだけしかいないよ」
 ニュートが獣油ランプに火を入れると、室内がぼんやりと明るくなった。
「ニュートさんも先生さんなんですか?」
「そうだよ。保母って言われるほど、子ども好きって訳でもないけどね」
 埃が掃われているだけの部屋に通され、カルザスは室内を見渡す。何度も修理した形跡のある椅子とテーブルだけで、他の家具はない。実体のない俺には、別段、汚れを気にするつもりなどないが、殺風景すぎて落ち着かんな。
「この孤児院はね、あるところから特別な資金援助を受けてるんだ。あたしは三年くらい前にここに来たから詳しくは知らないけど、大先生のコネでね」
「大先生さんは裕福な方とお知り合いなのですか?」
「大先生も貧民出だよ。そんなので富裕層と知り合いな訳ないじゃない」
 軋む椅子に腰掛け、ニュートは片手でパタパタと自身を仰ぐ。確かにこの部屋は風通しが悪く暑い。窓の位置が悪いのだろう。間もなく夜になるので、この蒸し暑さはすぐに寒気へと変わる。
「何かね、十年くらい前に大先生は金持ちの誰かに大きい貸しを作ったらしいよ。それから毎年、かなりの資金援助してくれるようになったみたい」
「お金持ちに貸し、ですか……」
 ニュートは声を潜め、口許に手を翳して眉根を寄せる。
「その人がどうしてもここの孤児の一人を寄越せって言うから、大先生は渋々その子を手放したらしいんだ。大先生も可愛がってた孤児だったらしいんだけど、資金援助の誘惑には勝てなかったんだろうね」
「どうしてその方は子供さんを欲しがったのですか? 養子として正式に手続きすれば、何の問題もないじゃないですか。なのに大先生さんが渋々引き渡したっていうのはおかしいですよね」
「絶対誰にも言わないでよ」
 ニュートがカルザスの耳元に顔を寄せる。
「その子を渡さないと、この孤児院を跡形もなく潰すとかって脅されてたらしいよ。でも代わりにその子を渡せば、毎年資金援助をするって約束してくれたみたい。その子の事、養子として欲しいとか、そういう理由じゃなかったみたい。詳しくは知らないけどね。ああ、胡散臭いし潰すとか怖いね」
 身震いするように両腕を擦り、ニュートは更に声をひそめる。
「孤児を引き取った人、当時からあんまりいい噂の聞かない人だったらしいよ。その人に睨まれた人はみんな人相変わるとか、目を付けられた女は死体になってしか帰ってこれないだとか。あたしもある人っていうのがどんな人だか知らないけど、多分相当マズイ組織かなんかの人じゃないかなぁ。融資できるようなお金が有り余ってるってくらいだし」
 指定した孤児を渡さないと、孤児院を潰すだと? つまり孤児院にいる者全てを抹殺するという事か? 暗殺者に目を付けられた孤児院……やはり……ここなのか?
「その子供さんって、どんな子供さんだったんですか?」
「子供っていうか、その時もう十五歳だったから、ここに住みながら働いてたみたいよ。名前、何ていってたかなぁ……女の子だったのは間違いないよ。セリア……違う、セリムだったかな……そんな感じなんだけど、忘れちゃったわ」
「……シーア……セム……さん?」
「そうそう。そんな感じの名前。何だ、傭兵さんも知ってたのね。もしかしてこれって有名な話だったの?」
 口許を押さえ、カルザスは僅かに首を左右に振る。頭からすうっと、血の気が引いてゆく様子がはっきりと分かる。俺も反吐《へど》が出そうな気分だ。
 この孤児院の大先生とは、セムを当時の暗殺者の頭目に売った金で、今までのうのうと生きてきたに違いない。確かに他の多くの子供の命は大切だ。一人を犠牲にする事で、他の者を救うという方法も間違いではない。だが自分が育てた子供の一人を売って、今の今まで平気な面で過ごしてきたという事実が吐き気をもよおす。あまりに人でなしではないか。
「あたしがここの先生やってるのだって、給料がいいからだよ。子供が特別好きな訳じゃないけど、嫌いじゃないし。貧民出の人間は、安い賃金で馬車馬みたいに働かされるか、その日のパン代すら払ってもらえない事だってあるんだよ。ここは子供の相手してるだけで、こんないい服だって買えるんだ」
 ニュートがスカートの裾を軽く摘み上げる。その表情は満足気で、自分の金さえ確保できれば、その金の出所など大して気にも留めておらんという様子がありありと分かる。
 この女の態度は気に食わんが、ニュートを責める訳にはいかん。ニュートは事情を知らんのだ。むろんシーアやセムの事など知らぬだろうし、明日にはきっと名すら再び忘れておるだろう。
 ──カルザス。この事、決してシーアには言うでないぞ。事実を知れば、奴は逆上して何をするか分からん。
 カルザスは頷き、微かに震える手を胸の前で組む。
「……あの……差し出がましい事だと思いますけど、そういう入手経路の分からないお金で育てられた子供さんたちは、あまりいい気がしないと思うのですが」
「子供に金の価値なんてまだ分からないよ」
 先ほどまでにこやかだったニュートが気色ばむ。
「傭兵さん、あんたいい家の出身だろ? 貧民の暮らしがどれほど惨めか分かってない。どんな経緯で手に入れた金だろうと、金は金なんだよ。この辺の奴らに汚い金と綺麗な金の違いなんて関係ない。金持ちに捨てられ踏み付けられた黴びたパンだって、ありがたく食う連中なんだよ。スラムに住む者たちってのは」
 カルザスは言葉を失う。本当の貧しさを、貧困や飢餓を知る者の、嘘偽りのない言葉が胸に突き刺さったのだ。金が尽きて空腹を堪えて過ごした時はあったが、落ちたパンを拾って食った経験など……カルザスにはなかった。
「スラムじゃね、綺麗事なんて言ってちゃ食べていけないんだよ」
 ニュートの口調は責める風ではなかったが、カルザスに別世界を知らしめるには充分な威力を持っていた。
「……すみません。僕、もう行きます。でも老婆心ながら一つだけ忠告させてください。聞き流してくださって構いません」
 ニュートが黙り込む。取り敢えず聞く耳は持っているらしい。
「どういう経緯でお金や食事を得ようと、僕はもう何も言いません。僕なんかが口出ししちゃいけない事でしたから。でも……感謝と謝罪の気持ちは持ち続けてください。手にしたお金をどう使おうとご自身の自由です。けれどそのお金を自分の手に握る事によって、不幸な出来事に見舞われてしまう方も……いるんです」
「……傭兵さん、何が言いたいの?」
「いえ大した事じゃありません。他人を陥れ、盾替わりにして得たお金で暮らしていて、全く後悔していないのかと、少し憤っていただけです。……すみません。失礼します。お話、ありがとうございました」
 カルザスは孤児院を出て、自らの首を締めるかのように、強く襟を掴む。
「……シーアさんとセムさん……お二人の運命を狂わせた人物は……一体何人いるというんですか? 気分が悪くて……仕方ないですよ、僕」
 暗殺者たちの影響力は凄まじいものだ。奴らの恐ろしさ、改めて思い知った気がするな。

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