黒渦-CLOSE-

仄暗い瓦斯燈に照らされた黒渦(CLOSE)な世界の物語

大正浪漫風混沌系サスペンス

町の商店街を抜けた先にある一軒のカフェー「時茶屋」
美麗の女主人と無口な少年、そしてはつらつとした女給の少女が今日も“特別なお客様”を出迎える

彼女らの仕事は客にカフェーの美味しい珈琲を提供する事
だがカフェーの仕事とは別に、黒く渦を巻く別の顔があった――


     二

 舞台女優、筧淑子はその輝かんばかりの美貌もさることながら、斬新で前衛的な芝居を演じさせれば右に出る者はないと言われるほど、個性的な演技が注目された歌劇女優だった。その芝居で使われ、彼女が歌った曲は他に例を見ないほど、次々とレコォド化し、それらはかなり高価にも関わらず、飛ぶように売れていた。
 しかし最近は後輩として新しくデビュウした愛嬌のある若い新人女優に、勢い負けている節がある。それでも彼女は歌謡界や芸能芸術分野でほぼ頂点にいる大女優だった。
 そんな彼女は、付き人も付けずにこんな田舎の町中を自由に歩けるような人物ではない──はずだった。

 昼過ぎに訪れた筧は、何も注文せずに、来た時同様、顔を隠すようにして店を去った。いや、綾弥子と晶が奥の部屋で対応していたというので、そこで何か注文したのかもしれない。珈琲を飲み、晶が作るという西洋菓子のケヱキを食べたかもしれない。ハイカラな西洋菓子は、まだまだ一般庶民には珍しい食べ物だったから。
 しかし、誰もいない店で一人留守を言い付けられた美帆には、奥の部屋で二人が筧と何を話していたのか、知るすべはなかった。いろいろ想像してみるも、綾弥子や晶、そして筧との接点がまるで思い浮かばなかったのだ。
 今日もすっかり日が暮れ、昨日と同じく、美帆は晶と共に閉店準備をしていた。
 各テーブルの砂糖や紙ナフキンを補充しつつ、美帆はそっと晶を覗き見る。晶はいつも通り、無表情でカウンター内の片付けをしていた。
「あの、晶くん」
 遠慮気味に問い掛けると、晶は僅かに顔を上げて美帆を見た。
「ええと、お昼にいらっしゃった筧さんなんですけど……何を注文されたんですか?」
 好奇心から問い掛けてみる。
「別に」
 短く答え、晶はカウンター内の片付けを再開する。
「あの、あの! あたしずっと気になってたんですけど、お店の奥って、あたしがお昼をいただいたりする休憩室とか倉庫しかないですよね? もっと奥のお部屋は狭そうですし。綾弥子さんは特別なお部屋って言ってましたけど、筧さんが有名な方だから、人目のない奥の休憩室へ案内したんですか?」
「美帆には関係ない」
「関係ないかもしれないけど、気になります! だって筧さんはすごい女優さんなのに、狭いお部屋に案内しちゃうなんて。奥の休憩室ってそんなに広くないし、窓もないから眺めもよくないし、そんな所で珈琲を召し上がったりするとか、何だかすごく変だと思うんです。確かに晶くんの淹れる珈琲は美味しいですけど、でも休憩とか心を休めるには、視覚的に眺めのいい場所だって必要だと思うんです!」
 晶は美帆の矢継ぎ早な問いかけに一切答えず、カウンター内の片付けを終わらせて、手を拭きながらカウンターから出てきた。美帆はむっと唇を尖らせ、晶の服を掴む。すると無表情だった晶が、迷惑そうに秀麗な眉を顰めた。

「触らないで」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
 美帆はびっくり眼(まなこ)になって、慌てて手を放す。しかし、すぐに表情を真剣なものに戻す。
「あっ! そうやってごまかす気ですか? あたしにも教えてくれたっていいじゃないですか! あたし、筧さんのお芝居や歌、すごく好きなんです。筧さんにお会いできて、すっごく嬉しかったのに、なのに晶くんと綾弥子さんばっかりズルいです!」
 しつこく筧とのやりとりや情報を聞き出そうとする美帆に、辟易したような態度で、晶は視線を逸らす。
「美帆には関係ない」
「あたしだって筧さんとお話ししたかったです!」

 あまりに粘り腰な美帆に、晶は観念したように短く息を吐き出した。
「悩みを聞いた」
「悩み?」
「人気が落ちた。昔ほどの声が出ない。いろいろ」
「お仕事の事で悩んでらしたんですか、筧さん?」
 視線を逸らしたまま、晶はそれきり口を噤む。
「うーん。確かに筧さんの人気、今はちょっと、下降気味だとは思いますけど……でも筧さんなら、きっとまたすごいお芝居をなさると思うんですよね」
 頭の中に、筧と張り合う女優の名前が幾つか浮かぶ。しかし美帆は、筧はきっとまた返り咲くと信じている。それほどまでに、彼女は筧の芝居や歌が好きなのだ。
「あれ? でもお仕事の悩みを、わざわざ晶くんや綾弥子さんに相談しにいらしたんですか? もしかして筧さんとお知り合いだったんですか?」
 そう問いかけながら、美帆は綾弥子の言葉を思い出す。
 綾弥子は美帆に言った。「美帆の知り合いか?」と。つまりそれは、綾弥子は筧と知り合いでなかったという事だ。彼女の存在自体、知らない様子であった。
 すると、わざわざ仕事の悩み事を相談しにきたと言う、晶の言葉に矛盾が生じる。綾弥子、晶、筧の三者の内、誰かが嘘を言っているとしか思えなかった。
 美帆は美帆なりに推理してみるが、やはり明確な答えは出なかった。
「んー? 綾弥子さんは初対面みたいな様子でしたよね? じゃあ晶くんと筧さんがお知り合いなんですか?」
 とどまる事のない美帆の追求に、もはや晶は完全無視を決め込んでいる。
「ねぇ、晶くん! 教えてくださいよ! 気になるじゃないですか! 綾弥子さんと晶くんばっかりズルいです!」
 一人騒ぐ美帆を無視したまま、晶は店の入り口の錠を落とし、片付けのために点けていた店内の瓦斯燈を消した。



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